街道

※2010年11月4日に中山道歩きで、岐阜〜大垣あたりを訪れた時のぺージ

★2013年10月11日(金)〜14日(月)「美濃路」

2004年6月20日に日本橋を出立した「東海道中膝栗毛」 ●印のアンダーライン上をクリックしてお読みください。

 
※吉田兄の「旧東海道餐歩旅」のページ
 ※吉田兄の「旧中山道餐歩旅」のページ

 ●日本橋〜大森町 2004年6月20日     ●大森町〜神奈川新町 2004年7月10日 

 ●神奈川新町〜戸塚  2004年9月12日   ●戸塚〜茅ヶ崎 2004年10月10日 
 ●茅ヶ崎〜二宮 2004年11月13日      ●二宮〜箱根湯本 2004年12月25日 

 ●箱根東坂 2004年3月7日          ●箱根西坂〜三島 2005年3月26日 
 ●三島〜静岡 2007年5月17日〜19日
    ●静岡〜磐田 2008年1月18日〜20日 
 
●磐田 〜岡崎 2008年4月18日〜21日   
●岡崎〜名古屋 2008年10月3日〜5日 
 
●桑名〜関 2008年10月24日〜26日     ●関〜京都 2008年11月14日〜17日 

 ●東海道五十七次・大阪街道=京街道 2012年6月8日〜10日

  ●東海道姫街道(東海道 追分宿〜御油宿) 2012年3月13日〜15日 
  ●美濃路(東海道 宮宿〜中山道 樽井宿) 2013年10月11日〜14日 
  ●伊勢街道、前半(東海道 日永の追分〜高茶屋駅) 2011年4月6日〜9日 
  ●伊勢街道、後半(高茶屋駅〜伊勢神宮) 2011年7月8日〜10日 


では、今回の 美濃路 道中記


<10月18日(金)美濃路の第一日(金山駅〜清洲駅;約23キロ)>


 江戸時代には中山道と東海道を結ぶ脇往還として、盛んに利用された 美 濃 路 を4日間で踏破すべく、東京駅7時30分発ののぞみにそれぞれ乗車して、9時11分名古屋駅着、 吉田・清水・村谷の3人が集合した。

  ※参考:地図や解説が豊富な Network2010 さんの “美濃路” のページへ

 東海道線に乗り換えて、9時30分には雨がすっかり上がった
金山駅から歩き出した。
本来の美濃路は宮宿(熱田神宮付近)から始まるが、今夏、 佐 屋 街 道 歩きで済ませた部分は省略した。
 背中から照りつける日差しが強いので、日陰を探しながら
伏見通りを北上する。
右手の
榊森八幡社で4日間の道中無事をお祈りした。週末が秋祭りのようだった。

 13箇所ある一里塚の最初、
古渡一里塚(スタートから1.2キロ、以下同じ)は跡形もない。
続いて  東別院・真宗大谷派 名古屋別院 1.8キロ)では、広大な敷地に我々だけだった。
近くの   西別院・浄土真宗本願寺派 名古屋別院 

 伏見通りと分かれ、キリシタン塚がある
栄国寺(2.6キロ)。切支丹遺跡資料館は平日のためか、無人。
塚があるためなのか、昭和20年3月12日などの名古屋大空襲でもこの付近は無傷だったという。

 信長が桶狭間出陣に際して戦勝祈願した
日置神社(3.0キロ)に立ち寄る。「無神論者」の筈だったが?各地で祈ったのは、士気を鼓舞するためか。
 この付近を中心に寺社が多いのは、慶長14年(1609)に名古屋城を築城した際に、清須から移転させたもので、「清須越し」というそうだ。

 それぞれ30年・20年・10年ぶりに、
 大 須 観 音 (4.3キロ)を訪れた。ここは流石に人出が多く、青空が映える。
商店街のはずれにある
総見寺(4.7キロ)および万松寺(4.9キロ)は織田家所縁の菩提寺。

 
白川公園(6キロ)で一息入れる。道幅と同様に広々した公園内には、孤独な男性が何人も昼寝?の最中だった。
11時半を回っていたので、早めの昼食とし、
山本屋本店・栄町本通店に入る。お馴染みの味噌煮込みうどんは旨かった。

 伝馬橋
(8.1キロ)で堀川を渡り直ぐに右折する。
 川沿いに進む美濃路は、元禄の大火の後4間(7m)に拡張された四間道(しけみち)で、石畳の散歩コースになっており、女性2人連れとすれ違った。屋根の上に祠を祀った屋根神さまが珍しい。

 戦災で焼け残った
円頓寺商店街(8.9キロ)は、レトロで落ち着く。
右手の名古屋城(10.7キロ)には立ち寄らず左折する。

 2番目の
江川一里塚(11.1キロ)は、解説板があった。
ここでも信長が戦勝祈願した
榎白山神社(11.9キロ)は、参勤交代の大名が必ず立ち寄ったという。

 
枇杷島橋(琵琶島橋。13.6キロ)で庄内川を渡る。
 
 西枇杷島問屋記念館 (14.5キロ。入場無料)では、大いに賑わった下小田井の市で富を得た山田九左右衛門の旧宅で、歴史を学ぶとともに、畳でゆっくりと足を伸ばした。

 ますます日差しが強まるが、風もあり足が進む。
懐かしい飴を売る
 飴茶庵  (15.5キロ)で休憩。徒歩で歩くと言うと、飴1個ずつお接待を受けた。
 直ぐ先右手の
瑞正寺は近くにあった尾張藩の処刑場に行く者が拝んで通ったという高さ4・5mの宝塔が残っている。

 少し先の
新川は庄内川の洪水を防ぐため開削されたものだが、新川橋の橋詰にあるポケットパークには、2000年の東海豪雨の解説板があり、当時名古屋在勤中だった村谷が、当時の被害の大きさを思いだす。

 3番目の
須ケ口一里塚(16.7キロ)には、解説板と石柱があった。
来週末に控えた名古屋三英傑祭りの主人公、信長・秀吉・家康全てに所縁があるという
日吉神社(18.3キロ)で参拝し休憩。
秀吉の母・大政所が安産祈願したとされ、猿が神の使いであった。
 太閤秀吉が病の際に、後陽成天皇が病気平癒の勅使を派遣したと伝えられる。

 新幹線の車窓からお馴染みの
清洲城(19.9キロ)に到着。入館時間(16:15)が過ぎていて、休憩のみ。
清洲公園で信長公の銅像に参拝。

 
札の辻(20.5キロ)そばの清涼寺にお参りして本日のお礼を申し上げた。

 清洲宿本陣跡
(20.9キロ)は、当時の建坪312坪が、美濃路では最大だった。

 本日のゴール・
清洲駅に5時前にゴールイン。

 各駅停車で
名古屋駅に戻り、腹ごしらえしてから、清水兄が手配してくれた「名鉄イン名古屋駅前
  にチェックインし、広々したベッドでたっぷりと睡眠を摂りました。


<10月12日(土)第2日(清洲駅〜須賀駅。25キロ)>

 しっかりと朝食を摂って、ホテルを出て
名古屋駅から乗車し、東海道線・清洲駅に戻る。
本日は街道歩きの最長コースだが、8時には出発できたのでまだ涼しい。

 
総見院(出発から1キロ)で、本日の無事をお願いした。
続く
亀翁寺(1.4キロ)は珍しい禅宗の尼寺で、国指定文化財の木造虚空蔵菩薩坐像が安置されているが、ご開帳は2019年とまだ先。
 続く
北市場美濃路公園で最初の休憩。織田信雄が天正年間に幅五間に改修したという記述があり、その後家康の凱旋路として「吉例街道」とも呼ばれたという。

 楷書の細字の名筆だった
丹羽盤桓子のい誕生碑(2.5キロ)があり、肖りたいがレベルが違いすぎると諦めた次第。

 4番目の
井之口一里塚(2.6キロ)は、粗末な板に手書きだった。
豊臣政権の五奉行の一人だった
長束正家邸跡の碑(4.6キロ)は、背景に青空と三菱エレベーターのタワーがあって目立つ存在だ。

 名鉄名古屋本線の踏切手前に、
国府宮の一の鳥居(6.1キロ)があるが、以前も参拝していて、往復1.7キロの参道はこの段階ではまだ早いと衆議一決し、省略して先へ進む。

 本日も伊吹山から吹き降ろす風が強く、歩くには有難いが、村谷はせっかく持参した日傘が使えない。
5番目の
稲葉(小沢)一里塚(6.6キロ)も、同様に粗末な木札だった。

 
稲葉宿本陣跡碑(7.5キロ)は、農水事務所の敷地内のためか立派な石碑だ。
朝鮮通信使との文化交流で知られる
禅源寺(8.3キロ)を通過し、高木一里塚跡(12.3キロ)。本日の行程の中間点だ。

 名鉄尾西線を横断すると
萩原商店街。入り口近くの左手には真新しい舟木一夫生家跡碑(13.5キロ)があった。
早目の昼食場所を探すが、味噌カツ専門店では流石に重い。萩原宿の高札場跡あった
正瑞寺の直ぐ脇にたこ焼きの看板を見つけて入店したら、正解だった。
老主人が鮮やかな手付きで作る一人前300円ながらボリュームたっぷりの焼きそばに、たこ焼きを追加して満足した。

 宿はずれには
市川房江生家跡(14.8キロ)があり、広い駐車場もあったので訪れる人が多いらしい。
続いて映画「十三人の刺客」の題材にもなった明石藩が無礼打ちした
孝子・佐吾平の墓に参る。

 
名神高速道路をくぐった先が500m近い川幅があった日光川の天神の渡し跡碑(15.6キロ)。
美濃路で唯一両側に残る
冨田一里塚跡(16.8キロ)は、国指定史跡である。

 続いて寄り道にはなるが、信長と斉藤道三が会見した
聖徳寺旧跡碑(18.2キロ)を訪問した。
そのままバス道を北上すると、左手に
 一宮市尾西歴史民俗資料館 (19.0キロ)。今回の地図の入手先でもあり、清水が居合わせた女子職員さんにお礼と挨拶を行った。

 行儀が悪いが靴を脱いで広いロビーで大休止。居合わせた開催中の水彩画展を担当する同年輩らしい男性から盛んに話しかけられ、激励をいただく。館内にあった様々な展示の中で、村谷が特に興味深かったのは、象を船で渡した模型だ。
木曽川の渡し場として栄えた起宿の見所を、資料館でいただいた詳細な地図をもとにじっくり見学。

 三箇所あった渡し場を全て見て、
濃尾大橋で長い木曽川を渡る。かつて滝澤兄を含めた4人で渡った大井川よりも遥かに長く、江戸期の旅人の苦労が理解できた。

 対岸の
起渡船場常夜灯(21.1キロ)の先にある、金刀比羅神社(22.0キロ)は大きな竹林の背後にあったため探すのに手間取ったが無事に発見。

 正木小学校のフェンス内にある8番目の
不破一色・坂丸一里塚(23.2キロ)も確認して、本日のゴール・名鉄竹鼻線・須賀駅(25キロ)に到着した。

 最高気温が東京よりは低い27度だったため、幾分歩きやすかったが、汗の量は昨日と変わらない。
名鉄で笠松駅で乗り換え、
名鉄岐阜駅に4時半すぎには到着した。

 本日も、食事を済ませてからチェックインとの方針で、店探しをしたが新宿と違いなかなか見つからず、5時開店の
和食店に少し早めに入り、生ビールで乾杯。学生アルバイトらしい娘さんに、なかなか話しが通じずに苦労したが、何とか昨夜と同様に味噌カツなどの名古屋メシにいつもの焼き鳥などを注文し、今夜も芋焼酎で締めました。

 宿の
コンフォートホテル岐阜も、策や同様の広いベッドのゆったり部屋で熟睡しました。


<10月13日(日)第三日=須賀駅〜大垣駅。18キロ>

 本日もたっぷりな朝食を平らげて7時30分にホテルを出発した。
随分きれいなビルに建て変わった岐阜駅前の繊維街を抜けて、
名鉄岐阜駅へ着き、昨日とは逆コースで8時過ぎに須賀駅へ。

 輪中コースが始まる。気温は少し下がって26度程度。
この付近は起宿と墨俣宿の中間にあたる間の宿で、
加藤家(0.7キロ)では大名も休んだという。
 稲がたわわに実った田んぼ道を抜けて、かつては木曽川の本流だった
境川桜の堤防道を歩く。江戸期からこの高さの道があったとは驚きだ。

 9番目の
東小熊一里塚跡を土手の上で確認し、境川橋(4.2キロ)で小熊の渡し跡を渡る。
直ぐに隣接する
大江川を渡り、長良川の岸辺に着く。青空に聳える伊吹山が随分大きくなってきた。
 右手には、木曾の御嶽山がはっきりと見える。

 
長良川大橋を渡ると墨俣宿(5.5キロ)。本陣跡碑はじめ墨俣神社や明台寺はじめ寺町界隈を隈なく散策する。愛知県でも同様だったが、土地柄なのか朝方から寺社に参拝する地元の人たちが多いのには繰り返し感心させられる。

 橋上から見えた
墨俣一夜城( 大垣市墨俣歴史記念館 。6.9キロ)に、入る。公園内にも秀吉の出世を物語るエピソードの数々が陳列されている。
充実した展示物で歴史を学んだ後、新装された天守閣に上がると真正面に稲葉城。確かに目障りだっただろうと推測される。また、一夜城とは陣屋だけだったことがよく判った。

 続いて、旧知の遠山姉が10年前から開いている 
 茶房・とお山  に飛び込む。突然の訪問だったが、3人ともいろいろと面識があり歓迎していただく。豪勢なモーニングセットを食した後、午後からの子供神輿に合わせてお孫さん連れで帰省していた娘さんに、4人の写真のシャッターを押していただきました。

 この先大垣までは食堂がないということで、大きなお握りまで握っていただき感謝、感謝。
琉球使節通行記念石灯籠(7.5キロ)や、本日秋祭りの正八幡宮(7.9キロ)を過ぎて、犀川の堤防に上がる。

 10番目の
東結一里塚跡や町屋観音堂(10.1キロ)を通過し、鮎釣りの漁師を見下ろしながら新揖斐川橋で最後の木曾三川を渡る。
堤の上にある
佐渡常夜灯(12.9キロ)は川筋が重要な運行路だった時代の名残の一つだ。

 11番目の
三塚一里塚(16.3キロ)を確認すると程なく、本日の街道のゴール地点の 大垣城 東総門跡(名古屋口御門跡。17.0キロ)。
 水門川を進むと、本日は十万石祭りのため大勢の人々が集まっていた。各団体の行列を鑑賞し、夕刻まで時間があるので、吉田の提案に従い明日に予定していた大垣城見物を前倒しすることにして、入場。本日は特別料金で割安だった。
大勢の地元の方々、特に小中学生に混じり勉強してから、午後3時半すぎには
ロンジールホテル大垣にチェックイン。

 たっぷりと休養してから、午後5時過ぎに出かけて、
大垣駅前のアパホテルに隣接し、前回の中山道歩きにも訪れた 「いろはにほへと」 に入店した。大きな山場を越えて、残すは半日とあってやや安心。
生ビールと定番の芋焼酎で十分に堪能して帰途に着きました。


<10月14日(月&祝)大垣駅〜垂井駅。14キロ>

 昨夜もゆったりと大きなベッドで熟睡し、朝食のバイキングをしっかり食べてから7時45分に出発。
昨日の
東総門跡まで芭蕉の句碑が並ぶ水路沿いに進む。
城下町らしい七曲がりの道筋を進む。

 
脇本陣跡(1.8キロ)、本町道標(2.0キロ)の先にある問屋場跡(2.2キロ)の軒先には、手作りの木製の案内板が数々展示されていて、その労苦には頭が下がる。

 
西総門跡(京口御門跡。2.8キロ)の直ぐ先の船町道標(2.9キロ)先には、昨年4月8日にオープンした   奥の細道むすびの地記念館 があったが、早朝のため入館できなかった。
 
水門川沿いには、芭蕉が船で伊勢に下った船町港跡や住吉灯台、蛤塚や住吉神社などなど多くの史跡が残る。

 西進し、
正覚寺(4.3キロ)で、芭蕉句碑「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」や芭蕉塚を見た。

 12番目の
久徳一里塚跡(5.9キロ)は片側のみだが残っていて、県の文化財に指定されていた。

 続く最後の
綾戸一里塚跡(10.2キロ)は、右手の六所神社内辺りにあったらしいが、場所が特定できず、また結婚式の最中だった様子だったので通過。

 程なく
中山道との合流地点の垂井追分(12.8キロ)だ。中山道歩きの際には意識していなかったが、梅谷川の川沿いに道標と解説板があった。
 そのまま川を渡り、相川橋で相川を渡ると左手に、かすかに見覚えがある
東の見附跡と垂井町マップ。
中山道とは分かれて左折し、程なく
垂井駅にゴールイン。

 東海道線に乗って、大垣経由で約50分、
名古屋駅にゴールインした。
のぞみ指定席の乗車時間までは時間があるので、3連休で東京方面に戻る昼食客でいっぱいの地下街は避けて、かって知ったる名古屋西口高架下に終日営業の
「名古屋大酒場・かぶらや総本家」に入店。
ゆっくりと昼食&締めを行い、土産を買い込んで帰京しました。

 4日間の長丁場でしたが、吉田兄の周到な下調べによる入念なアクションプログラムと、旅なれた清水兄の良質でかつ安価なホテル手配のお陰で、予定通りに快適な行程を達成することができたことに、改めて感謝申し上げます。


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