街道

★2011年4月6日〜9日「伊勢街道1/2(東海道・桑名の渡し〜日永追分〜津〜松坂の手前・高茶屋駅)」

       ※伊勢街道の後半はここをクリックしてください。

では、今回の 伊勢街道 道中記(前半)

<4月6日(水)伊勢参宮街道歩き初日(桑名〜四日市)>

 2月に中山道歩きを終了した清水・村谷・西の3名は、続くターゲットとして、平成25年に式年遷宮を控え、若者の人気NO1パワースポットである伊勢神宮の旧道を歩くこととした。

 東京駅9時30分発の 「のぞみ」に揃って乗車し、車窓から快晴の大空に浮かんだ富士山を眺めつつ、名古屋駅で「快速みえ号」に乗り換えて、12時前に
桑名駅に降り立った。
 四日市の先にある東海道との分岐点・日永の追分からが正式な伊勢参宮街道だが、切りが良い桑名の渡しをスタートとした。

 先ずは腹ごしらえ。駅から少し南に下った左手の飲み屋街の一角で、ランチ営業していた
居酒屋に入る。
お勧めの海鮮丼(@1,280円)は、 20分近く時間をかけただけあって、ほかほかのご飯の上に、まぐろ・鯛・しめさば・蛸の分厚い切り身がたっぷり。
味が濃いあら汁とともに質量申し分なく満足して出立。

 名刹が多い
桑名宿でも特に有名な海蔵寺に立ち寄る。最後まで頑強に官軍に抵抗した桑名藩だが、宝暦5年(1755)に木曾三川治水工事の責を追って自決・病死した薩摩藩士85名が、今尚、手厚く祀られている。(杉本苑子著「狐愁の岸」を参照されたい)

 
七里の渡しは、明治維新後に徹底的に破壊された桑名城跡九華公園として残されている。満開の桜の木々の下にあった看板で、総工費40万両のうち幕府の負担が1万両だけだったと記載されていた。100年後の薩摩藩の巻き返しのひとつの要因になったという説もあるようだ。

 街道に戻り、前回も吉田・滝澤両兄と参拝した、青銅鳥居で有名な
春日神社に旅に無事を祈願した。 
まだ昼時で、街道沿いの店には焼き蛤定食の看板が出ている。

 旧中山道でもあった旧東海道唯一の
天武天皇社で最初の休憩。日差しが強くて早くも汗一杯。前回、西夫人からいただいた今治名物の貴重な大豆入り飴をほうばる。
   
 教覚寺先の
中島梵鐘店には、前回同様に大きな梵鐘が鎮座していたが、まだ売れていないよう?だった。
火の見櫓がある矢田立て場跡から街道を左折すると、旧東海道らしい雰囲気になった。
 近鉄
伊勢朝日駅脇の踏切の右手が大きな東芝工場で、左手に榎の大木が残る。

 本日は午後1時スタートながら17キロ近くの行程なので、立ち寄り箇所は少なくして先を急ぐ。
 三岐鉄道とJR関西本線が複雑に交差しあう先に、江戸から98番目の
富田の一里塚
十四橋の両岸の
十四川の桜並木が満開だった。残す行程が5キロ強となったので、水のみ休憩。

 突き当たりの新設用水水道碑の脇に力石があり、村谷が持ち上げてみようとしたが、道中が長いため清水&西に止められた。
古い造り酒屋の脇から、国道1号線(R1)に出る。歩道が切れる地点から、
多度神社沿いに一旦わき道に入り、海蔵川海蔵橋で渡り旧道に入る。

 三重川を渡りきった左手に
笹井屋本店。前回同様に立ち寄って、戦国時代に藤堂高虎公も食したという創業天文19年(1550)の老舗自慢のなが餅を注文する。店内の休憩所で賞味すると、若い店員さんが熱いお茶を出してくれたのも、学習効果だ。
 元気を取り戻してR1に復帰、少し先から
諏訪神社の表参道にもなっているライオン通り商店街に反れる。
広い道路に突き当たるとすぐ右手が
近鉄四日市駅。本日の街道歩きのゴール地点だ。

 夕刻の人出を掻き分けながら、北口へ。20数年ぶりの清水や10年ぶりの村谷も驚く変貌振りで、すっかり整備されたビルが立ち並ぶ。
 本日の宿・「
ホテルサンルート四日市」に、午後5時ゴールインした。
 部屋で一息入れて夕食に出かける。ホテルでもらった周辺図で最寄の店・「
一期(いちご)」に入る。
ママさん一人の小ぶりな店だが、落ち着いた雰囲気で、我らより一回り近く上ながら、銀座で40年のキャリアは伊達ではなく、ふんわりした焼き鳥や暖かなミソ田楽など、初日から大正解の選択だった。

 仕上げは幹事部屋でゆったりしたソファに座って、明日の見所などを確認して、早々と就寝した。


<4月7日(木)参宮街道2日目(四日市〜日永の追分〜白子)>
 街道歩き2日目、今朝も好天。
 ホテルの朝食をしっかりと摂って、8時30分に出発。本日の行程は17キロと昨日並みなので余裕があるが、暑さを避けて早めの到着を目指した。
 朝のラッシュの人並みを、のんびりとした服装で通り抜けるのにもすっかりと慣れてしまった。

 旧道に復帰して南下する。狭い道ながら通り抜けには好都合らしく、通勤の車と引っ切り無しにすれ違うのもいつもの通り。道が少し広くなってやれやれ。
 落合川、鹿化川と小さな川を渡った右手に
大宮八幡神社があったので立ち寄る。
本日の無事を祈って更に進む。

 天白川の両岸にも桜並木が広がっていた。
橋を渡り終えた途端に、左手から眼鏡姿の若い男性が現れて、「東海道歩きをされているんですね」と声を掛けられ、立派な「ひながふれあいマップ」(日永地区東海道400周年記念事業運営委員会作成:日永郷土史研究会監修)を人数分頂戴した。そういえば足元を見下ろすと、歩道部分がベージュ色に舗装され直していたし、休憩用のベンチも設けられていた。

 江戸・日本橋から100番目の
日永一里塚跡道標で、 前 回 同様に村谷が記念撮影したが、相変わらず車の流れが激しく苦労した。
 9時半前に、
日永の追分に到着した。右手がR1=旧東海道で、直線が伊勢参宮街道になる。ここに、桑名の一の鳥居に次ぐ伊勢神宮の二の鳥居があり、やはり遷宮に合わせて20年毎に建て替えられるそうだ。
鳥居の脇から豊富な水が湧き出ており、今日も平日ながら大きなペットボトル持参で水汲みに来ている料理人らしい男性がいた。我らも飲んでみたが、柔らかな優しい味でした。
20Lはありそうな大きな容器に半分だけ水を汲んだ同年輩の男性に話しかけられたが、歩く行為が理解できなかったらしく、立ち去っていった。
次々来る人々と別れて出発する。

 清水&村谷にとっても、この先は初体験になるが、国土地理院の地図を用いた案内が正確で、ほとんど迷うことはなかった。
県道103号四日市鈴鹿線を暫く南下し、内部(うつべ)川
河原田橋で渡る。右手には鈴鹿山脈がくっきり、左手の海岸沿いには四日市の工業地帯が広がる。

 一転して右手の旧道に入ると、車がほとんど通らない落ち着いた町並みだ。
JR関西本線の踏切を横切ると、程なく鈴鹿川。広い川幅を
高岡橋で渡る。両岸には巨大な常夜灯が残っており、桜並木から聳え立つ。
女子高生が数人急な堤防を自転車で息を弾ませながらも一気に駆け上がってきた。改めて年齢の差を痛感する。

 この先1キロ以上も、古代の条里制の名残の一直線の広いあぜ道。前方左手には、ぽつんと高い建物があり、ホンダの建物かと思ったが、市庁舎しかないと一致した。

 道の両側に土塁と石垣が残る
神戸(かんべ)の見付跡を通過。桜がきれいだ。
坂を登り切った右手が、今でも営業中の旧旅籠屋の「可美亭」。村谷が写真を撮ると軒下で日除け休憩中の男性数人が「ここは古い建物だよ」と教えていただいた。

 昔は遊郭地帯としても賑わった
神戸宿の古い家並みがあちらこちらに残っている。
まだ、11時過ぎだがこの先には適当な昼食場所がなさそうなので、近鉄鈴鹿線を越えたところで、店探し。

駅裏
のスーパーの横に、寿司屋と洋食屋があったが、夜は魚の予定なので、しゃれた佇まいの洋食屋を選択し、焼肉ランチを注文した。店のご夫婦の体格が立派だったので、予想通りてんこ盛りの大皿が登場。久々に独身時代に帰って、生ビールの力を借りて何とか平らげた。

 再び旧道に戻る。この先はずっと国道23号線(R23)を巻きながら進むことになる。
鈴鹿駅の南側を通過、玉垣町という地名と山の神が続く。
 相変わらず日差しがかんかん照りで、半ズボンに半袖姿の村谷も汗だくだ。左手に広々した
弥都加伎(みずかき)神社 があったので休憩。これまで殆ど見たことがないほど立派な建物で、当地の豊かさを実感した。

 残り距離が3キロ弱と少なくなったので、出発。広々した
フジクラ鈴鹿工場に沿って南下すると、長い塀が木の垣根になっていて感心させられる。

 近鉄名古屋線を横切るともう
白子の市街地だ。北の端の地蔵堂は屋根の形が変わっていた。
 
江島神社の常夜灯は一際大きくて目立つが、これは白子港が紀州藩の直轄港として大いに賑わった名残らしい。
白子駅に通じる直線道路で旧参宮街道と別れて、今宵の宿へと転進する。

 駅の連絡橋を渡りきったロータリーの前に、観光案内所があったので、各種資料を入手してから、白
子ストーリアホテルに午後2時に到着した。

 汗を流して着替えてから、午後3時半、市内見物へ出かける。先ずは当地名物の「伊勢型紙資料館」(入場無料)へ入る。ビデオで行程を勉強し、作業場で工具を見せていただいたが、丹念で根気が要る仕事内容にせっかちな我らはただ感心するばかり。

 続いてまだ開いていない銭湯の建物の横を港へ向かう。幾重にも堤防が張り巡らせれた広い港内をみて、天明2年(1782)にここから17名の仲間と出帆し、ロシア・ぺテルスブルグで彼のエカテリーナ女帝に仕え、その後3人だけ帰還できたという大黒屋光太夫の話を学んだ。

 岸壁には地元の海産物を超安値で豊富に取り揃えた土産店があり、全て東京に買って帰りたかったが、旅先故に今晩のツマミだけ入手して駅へ戻る。

 商店街を物色し、お洒落なダイニング風の
居酒屋に午後5時入店。気の利いたフレンチ風のツマミはなかなか良かったが、飲み物が全てグラス売りとあって長居は無用と、小1時間で切り上げた。勘定を頼んだら、丁度出勤してきたバイト嬢がなかなか美人だったがそのまま店を出る。

 時間もたっぷりなので、例によってツマミと地酒を買い足して帰館、広々した部屋に並べて明日の鋭気を養ってから床に就きました。


<4月8日(金)参宮街道3日目(白子〜津)>
 本日の行程も18キロと昨日並だったが、午後から雨かも知れないという予報だったため、朝食を早めに済ませて7時40分に出発した。

 曇り空だが空は明るい。気温が低くなり、村谷も長ズボンに戻した。
先ずは港に向かって東進し、昨日の地点から旧道に入る。
 時間は早いのだが、やはり狭い道なのに朝の通勤車が多い。釜屋川を渡り、
子安観音寺への狭い参道を右折する。

 白子の地名は、子安観音に安置される白衣観音像に由来する。赤い立派な楼門(元禄年間)を潜ると、どっしりとした本堂。早速、本日の無事を祈っていると、通勤や通学途中らしい老若男女が次々に足早にお祈りしていく。境内の左手にある
国の天然記念物「不断桜」は、開花が4ヶ月、その後8ヶ月は葉が絶えないという珍種で、今尚現役だった。伊勢型紙の発祥は、この桜の虫食いの葉から思いついたと伝わる。

 狭い裏道を抜けて車道に出て、すぐ堀切川沿って近鉄名古屋線を潜りぬける。ここから暫くは、近鉄線とR23と三者並行して淡々と進む。
一旦R23と交差する右手に、
旧河芸町役場跡があり、平成大合併の名残をここでも見る。
 まもなく右手に伊勢鉄道の線路が出現し、4者が並進する。

 
伊勢上野の町には連子格子の風格ある家並みが続く。
津の市街地が近づいてきてR23とまた合流。今も一部が木造の江戸橋を自転車とすれ違いながら通過する。
 ホテル群が見えてきたので、
津駅前で早めの昼食と決め、日本蕎麦屋へ。
 残り1キロとあって、早めの生ビールで、美味な掻揚げ丼付蕎麦を平らげた。

 R23と並行する旧道を、それぞれ見覚えのある建物を思い出しながら、本日のゴール地点の
津観音に参拝し、これまでの無事に感謝するとともに明日の道中を祈願した。

 参道を抜けて午後1時過ぎ、本日の宿・
「津都ホテル」へ投宿。
たっぷりと休養をとって身支度を整え、先ずは
津城跡公園へ。地元ライオンズクラブ等のてこ入れで、すっかり整備された城跡で、満開の桜を鑑賞し、初代城主・藤堂高虎公を偲び、ここに住まいしたかもしれないお江の記事を鑑賞。
 まだ、日が高いうちに、当地勤務時代に清水が馴染みだった「
割烹・藤」に一番乗り。勇退した先代同様に腕利きの2代目板前がご自慢の、角が立った刺身や、ふぐ1匹を用いた刺身&から揚げなどを地酒で堪能して、今夜も帰館し明日の打ち合わせを行ってから就寝しました。


<4月9日(金)参宮街道4日目(津〜高茶屋駅)>
 天候次第で行程を決めるつもりだった4日目の朝、夜来の雨が上がっていたので、半日分歩くことにした。
都ホテルに相応しい上品な朝食を堪能した後、午前8時に出発。暑さは和らいでいた。

 1キロほどR23を歩いた後、ピンクの建物が目立つ津信金支店横から旧道に入る。
この先で参宮街道は、旧道と並行する香良洲道に分かれるが、最初は古い面影が残る香良洲道を選んだ。
お伊勢詣らば可良須に詣れ、可良須詣らな片参宮」と言われたほど、伊勢参宮街道を往来する旅人が必ず参拝したという香良須神社の参道だったが、残念ながら立ち寄る時間がなかった。

 弘法大師作とされる地蔵を祀ったお堂に本日の無事をお参りしてから、一直線の風情ある町並みをゆっくりと鑑賞して
追分に到着。
 ここで、再び参宮街道へ。JR紀勢本線を横断し緩やかな上り坂へ。
この一帯の高台は桜茶屋と呼ばれた場所だったようだが、今は、屋根が立派な豪邸が林立する。
10時前に、JR紀勢本線・
高茶屋駅にゴールイン。伊勢参宮街道歩き前半の打ち止めとした。

 次の松阪までは12キロ程度なので、次回の半日行程で消化することとし、津経由で、近鉄特急で
名古屋に出る。駅ビル高島屋のレストラン街に上がって、何とか「竹葉亭」に入店し、ツマミになりそうなランチを注文し、生ビールで締めました。

 12時30分発の「のぞみ」に揃って乗車し、次回は6月中旬に実施できるよう日程調整を行うことを確認して散会しました。


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2004年6月20日に日本橋を出立した「東海道中膝栗毛」 ●印のアンダーライン上をクリックしてお読みください。

 
※吉田兄の「旧東海道餐歩旅」のページ

 ●日本橋〜大森町 2004年6月20日     ●大森町〜神奈川新町 2004年7月10日 

 ●神奈川新町〜戸塚  2004年9月12日   ●戸塚〜茅ヶ崎 2004年10月10日 
 ●茅ヶ崎〜二宮 2004年11月13日      ●二宮〜箱根湯本 2004年12月25日 

 ●箱根東坂 2004年3月7日          ●箱根西坂〜三島 2005年3月26日 
 ●三島〜静岡 2007年5月17日〜19日
    ●静岡〜磐田 2008年1月18日〜20日 
 
●磐田 〜岡崎 2008年4月18日〜21日   
●岡崎〜名古屋 2008年10月3日〜5日 
 
●桑名〜関 2008年10月24日〜26日     ●関〜京都 2008年11月14日〜17日 

 ●東海道五十七次・大阪街道=京街道 2012年6月8日〜10日

  ●東海道姫街道(東海道 追分宿〜御油宿) 2012年3月13日〜15日 
  ●美濃路(東海道 宮宿〜中山道 樽井宿) 2013年10月11日〜14日 
  ●伊勢街道、前半(東海道 日永の追分〜高茶屋駅) 2011年4月6日〜9日 
  ●伊勢街道、後半(高茶屋駅〜伊勢神宮) 2011年7月8日〜10日 

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