2004年6月20日に日本橋を出立した「東海道中膝栗毛」 ●印のアンダーライン上をクリックしてお読みください。
※吉田兄の「旧東海道餐歩旅」のページ
※吉田兄の、『旧街道餐歩』のページへ
●日本橋〜大森町 2004年6月20日 ●大森町〜神奈川新町 2004年7月10日
●神奈川新町〜戸塚 2004年9月12日 ●戸塚〜茅ヶ崎 2004年10月10日
●茅ヶ崎〜二宮 2004年11月13日 ●二宮〜箱根湯本 2004年12月25日
●箱根東坂 2004年3月7日 ●箱根西坂〜三島 2005年3月26日
●三島〜静岡 2007年5月17日〜19日 ●静岡〜磐田 2008年1月18日〜20日
●磐田 〜岡崎 2008年4月18日〜21日 ●岡崎〜名古屋 2008年10月3日〜5日
●桑名〜関 2008年10月24日〜26日 ●関〜京都 2008年11月14日〜17日
●東海道五十七次・大阪街道=京街道 2012年6月8日〜10日
●東海道姫街道(東海道 追分宿〜御油宿) 2012年3月13日〜15日
●美濃路(東海道 宮宿〜中山道 垂井宿) 2013年10月11日〜14日
●伊勢街道、前半(東海道 日永の追分〜高茶屋駅) 2011年4月6日〜9日
●伊勢街道、後半(高茶屋駅〜伊勢神宮) 2011年7月8日〜10日
では、今回の道中記
=第一日=(4月18日(金) 見付宿(磐田駅)〜舞阪宿)
東京地方は大荒れの天気予報だったが、我ら東海道4人組(吉田・滝澤・清水・村谷)が、JR東海道線・磐田駅に降り立った時には、すっかりと雨が上がっていた。
途中の新富士駅では、頭だけ雲が被った富士山まで拝見できて、幸先よしと喜び勇んで出発する。
天竜川までは一直線の旧道で、本日はほとんど国道一号線を行かなくて良いのは助かる。
駅前から少し離れただけで、閑散とした町並みに一変し、くすんだ感じの色彩の建物が続く。
右手の浅間神社は、外から拝んだだけでお賽銭を上げずに通過したが、これが午後からの雨が長引く一因だったかもしれなかった。
左手にあったはずの百円コンビニは撤退していた。
コンビニが必要な場所になかなかなかったのは四国と同じだと、吉田&村谷が頷きあう。
弘法大師堂のまん前の酒屋は健在だったが、道中が長いので、何も買わずに進む。
県道261号線が合流する辺りが236Km地点で、スタートから1Km来た勘定だ。
高砂香料の工場を通過し、左手のぱらぱらした松並木の間に、江戸から63番目の宮之一色一里塚跡(237Km)が道の両側にある。
今でも小高い丘が残っているが、かっては榎が植えられていて、道中を行く人々に日陰を提供していたそうだ。
JAトヨタ店を通過し、森田羽田橋の袂の森下高札場跡(238Km)まで淡々と進む。未だ、雲行きは順調で風も優しく吹いている。
明治初年に江戸行幸に際して天皇が泊まった記念に、庄屋が敷地内に建てた駐輦(ちゅうれん)碑、人足等の休憩所だった長森立場の先を、右折すると、明治初年まで使用されていた天龍橋跡の碑(239Km)が小さな公園の中に残っている。
いよいよ天竜川の袂に着く。
新旧2本の橋が架かっていて、我らは、広くてまだ新しい歩道のある新橋を行く。大井川には及ばないものの流石にたっぷりと川幅が広がる(240Km)。
昨日の雨で水量も豊かだ。
川を渡りきり右折する土手沿いの道が工事で崩れたままだったので、健脚の滝澤主導で草むらを渡りきる。
1本早い道を右折したようだったが、無事に旧道に復帰し、中町通、西町通を通過し、村境の道標の付近が241Km地点だ。
トイレ休憩を兼ねて、道中紀行に必ず記載されている金原明善翁の実家と記念館に立ち寄る。
明治初期に、天竜川の治水のため5万円以上の資産を捧げた偉人だったそうだが、公共事業しかない現代では到底考えが及ばない。
記念館の説明員も誇らしげだったのも当然だろう。
道の向かい側の翁の実家跡は、今では入手不可能な巨大な梁が支えていて、大地震でもびくともしそうになかった。
広い庭には花々と木々だけで、食料になりそうなものは何も植えなくて、小作人が持ってくるのだろうと想像した。
雲行きが俄に怪しくなり、242Km地点の高架の脇にあった避雷針に落雷して、思わず身を竦めた。
雨がぱらついてきたので、スタートしてから初のコンビニを発見して飛び込む。少し店内で待ってみたものの、好転する気配がないので、再び歩き出す。
本降りになってきたので、村谷が先頭で歩を早める。
11時半丁度に開店の札を開きに来た店員を発見して、早速2階にある店に上がる。この間数分で助かったが、吉田&村谷はこれもお大師様のお陰と感謝する。
テーブルを囲んで、先ずはビールで乾杯。
定食を平らげて表に出たときには、随分小止みになっていて大助かりだった。
六所神社の先、永田橋手前が243Km地点で、行程の3分の1を消化する。
植松原信号交差点の左側は、通行量が多くないのに地下道になっていた。
地方都市共通の現象だが、公共工事の悪しき例がここにもあるようだ。
浜松信金支店前の芳川を渡ると、245Km地点だが、雨に気を取られていて傍らにあるはずの植松郵便局は見落としてしまった。
天神町交差点近くからは町並みが整備されている。江戸より65番目の馬込一里塚(246Km)の先で、小型車同士が衝突した交通事故に遭遇する。若い方のドライバーが、携帯で警察に連絡中。
馬込川の先の新町交差点付近はすっかり再開発されていて、浜松宿や番所跡北の碑は、両方とも撤去されたらしく不明だった。静岡市と並ぶ大都市だけあって、旧東海道には関心がないようだ。
左手に巨大なアクトシティ浜松の建物が近づいてくると、板屋町交差点(247Km)の先で、遠州鉄道の高架を潜った。
右手に行くと浜松城だが、この天候なので見送り、先に進む。
交差点を左折すると、次々に本陣跡が現れる。248Km付近の旧安田生命のビルは健在だったが、中は随分変わったようだ。
杉浦本陣⇒浜松信金、川口本陣⇒旧東海銀行にすっかり建て換わっていたが、夫々道端に標識が残されていた。
旅篭町交差点付近には何箇所か昔ながらの店が残っていて懐かしい。
菅原町交差点先の堀留ポッポ公園(249Km)でトイレ休憩するが、屋根つきのベンチがなかったので、その先のJR東海道線高架下で傘をおいて休む。
森田町交差点先にあるショッピングセンター(250Km)では、結構車が停まっていた。
右手に秀衡公の松があったそうだが、側室が何故ここに亡骸を埋められたのかが判らなかったが、とりあえず先を急ぐ。
左手の松並木が切れた辺りが251Kmで、残り10Kmを切り、雨も随分小止みになったので、足取りが早まる。
高札場横の明治生命営業所はテナント募集中だった。
可美公園(252Km)先の諏訪神社では、きちんとお賽銭を上げて、遅れ馳せながら天候の回復を祈った。
次々と秋葉常夜燈が現れる中、スズキ入り口バス停(253Km)、立場バス停(254Km)、篠原郵便局(255Km)、愛宕神社(256Km)、馬郡観音堂(257Km)、春日神社(258Km)とゴールを目指してひたすら急ぐ。
雨がすっかり上がって舞阪駅に左折する交差点を通過すると、両側に立派な松並木が700mに渡って出現する。
十二支をかたどった石像や東海道五十三次の銅版が飾られていて、一日の疲れを忘れさせてくれる。
舞阪新町交差点(259Km)を越えれば、本日の宿は目と鼻の先だ。道の両側に石垣がある見附跡、舞阪一里塚跡を通過し、広大な境内を持つ養泉寺の前を回りこみ、景色がよい「民宿たなべ荘」に到着した。
早速交代で入浴し、清水&村谷は橋を渡って寝酒を買い込んできた。
宿は、食堂を兼営していて夜までお客で賑わっていたが、我らは立派な座敷で鰻などを食し、幹事部屋で明日からの行程を確認して早々に床についた。
=第二日=(4月19日(土) 舞阪宿(駅)〜吉田宿)
本日は、前日とは打って変わって雲ひとつない上天気で、そよ風までが我らを後押ししてくれる。
「民宿たなべ荘」の女将さんが、吉田宿までは遠いので頑張ってくださいと、隣接した住居の庭からお見送り。
再び旧東海道まで戻り、西へ向って歩き出す。
舞阪宿の本陣跡と脇本陣跡が道を挟んで向かい合っているが、資料館になっている脇本陣の前で記念撮影して進む。
自転車で追いかけてきてくれた親切なおば様の薦めで、渡船場跡(260Km)から湖沿いの道を行く。左手には大きな浜名湖大橋が長々と伸びっている。
弁天橋を渡って久々に国道一号線と合流する。
橋の上では釣り師が2名、そして橋の下では民宿のおかずを求めているらしい舟が2艘お仕事中だった。
かなり強烈な引き潮だったが、魚も沖に流されるのだろうかなどと気楽な話をしているうちにJR東海道線・弁天島駅(261Km)に到着、少し早いが汗ばんできたので休憩とする。
土曜日だというのに出勤なのか、買い物なのか若い女性が数名、あわただしくホームに入っていった。
自転車とすれ違いながら中浜橋を渡ると広々した歩道が続く。日差しがどんどんと強くなる。浜名湖競艇場に続く専用道路を潜り、西浜名橋を渡ると新居弁天入り口交差点(263Km)だ。
新居警察署を過ぎると新居駅。
その少し先で、国道一号線と別れて、国道301号線に入る(264Km)。
浜名橋先の右手には、渡船場があった新居関所跡だが、入り鉄砲も出女にも無縁な我らは、外から中の様子を撮影して進む。
疋田弥五郎本陣跡を左折し、宿場街の面影が濃い町並みを進む。
JAスーパー、新居中学校入り口を過ぎ、池田社(265Km)の先には、69番目の新居一里塚がある。
一旦、一号線に出ると右手の民家の庭に、源頼朝が上洛時に宿泊した際、茶の湯に用いたという風炉のいが残っていた。
樹齢450年以上のイチョウの木の切り株がある教恩寺前から再び旧道に入ると、程なく松並木(266Km)が始まる。その先は遠州灘で、当時はこの辺りが波打ち際だったらしい。
立場跡(267Km)に続く火鎮神社(268Km)から、白須賀宿の町並みが始まる。
70番目の一里山を過ぎ、長屋門がある立派な家に隣接する内宮神明神社(269Km)でお参りしたら、今回唯一の上り坂で景勝地として知られた潮見坂に差し掛かる。
西国から江戸への道程の中で初めて太平洋と富士山が見える場所として、広重始め多くの画材になっている。
きつい坂を上り詰めた場所に、まだ真新しい「おんやど白須賀」という休憩所があり、我らも畳に上がって熱いお茶を頂戴した。
明治天皇、織田信長、徳川家康が休息したという絶景ポイント(270Km)から真っ青な太平洋を背景に、夫々デジカメや携帯で記録した後、高台を行く。
公園内にある小中学校は思いがけなく大きな校舎だった。
校門脇で吉田が撮影中に、向かいの店先から老婦人が出てきて、奥にある明治天皇御製の歌碑を教えてくれた上に、信仰心が強そうな我らのために坂を下った右手にある寺々に立ち寄るように強く勧めてくれた。
下り坂の古い民家群の脇から山門が垣間見えたが、先が長いので失礼した。
本陣跡の先の神明宮(271Km)の正面に、常緑樹で火に強い槙を植えた名残があり、強風が多い土地柄で人々が色々と工夫していたことが推察される。
272Km地点で再び一号線に合流した頃には昼食時になっていたものの、全く食堂が見当たらない。
3Kmほど進んだところで、やっとコンビニを見つけてとりあえず冷たいもので身体を冷やす。広い駐車場には、沢山トラックが停車していて、コンビニで購入した弁当を車内で食べている姿ばかりが目立つ。
さらに1Kmほど進み、神鋼電機工場(276Km)前に1軒の和食屋があったが、女性客中心に満員のため諦める。
東海道新幹線と東海道線を潜ると、目の前は二川宿だった。
72番目に当たる二川一里塚跡脇にある資料館に入り、説明員のお姉さまから、教えてもらったうどん屋に入店したのは12時半ごろだった。
朝6時半から随分経っていたので、夫々焼肉定食・大盛りラーメン・カツ丼を、冷たいビールで完食してやっと人心地がついた。
腹ごなしを兼ねて、1Kmほど続く二川宿散歩を開始する。
中でも江戸時代の建物をそのまま保存した二川宿本陣資料館は、東海道でも珍しい。
JR二川駅(278Km)を通過する頃には、日差しが一層強まり初夏の様相を呈してきた。
火打坂交差点からは上り坂になる。園芸植物を売る広いグリーンセンター(279Km)の先を左折すると緩い下り坂になる。
高師原口バス停(280Km)のまん前に、樹齢数百年の松の切り株だけが残っていた。昭和30年代までは生い茂っていたという写真があったが、道路拡張によっ てこんな形になってしまったようだ。
一号線沿いの狭い旧道は歩道がなく注意しながら進むが、幸い日曜日とあってそんなに混んではいなかった。
そばや・東京庵(281Km)の暖簾があったが既にとき遅しだ。
山中橋(282Km)手前からまた一号線に合流し、東八町の交差点(284Km)までは、かなり派手な不動院(283Km)がある位で特に見るものはない。
ゴールまで1Kmになったので、最後の気合で歩き始める。
城下町に特有の曲がりくねった道を進み、市電・札木駅(285Km)を越えて、本日の宿「豊橋ビジネスホテル」にゴールインした。
シャワーで汗を流した後、揃って夕食に出かけたが、どこの店も若者で超満員。訊けば、当地では、週末の金曜と土曜の夕刻から夜にかけては、普段の車から解放された人々が挙って、足場の良い豊橋市内の盛り場で過ごすのが通例とのこと、東京との違いに改めて感じ入った次第。
それでも何とか地下の静かな和食店を探し当てて、お決まりの反省会を行ってから就寝した。
=第三日=(4月20日(日) 吉田宿〜岡崎宿)
疲れが溜まってきた3日目、幸い天気は引続き晴天・微風とあって、元気良く宿を出る。昨日も本日も若い女性がフロントにいたが、タイプが夜型と朝型に異なって見えたのは、アルコールが残っていたためらしい。
中島屋旅館があったはずの交差点を右折し、上伝馬の信号で県道23号を横断したが、国道よりも広く交通量が多い。
湊町公園(286km)の先で県道496号に入ると、目の前は豊川、江戸時代には三河最大の湊町として栄えた名残が、この辺りの船町の地名の由来らしい。
川にかかる豊橋が現在の名前になった。南方に城跡を望みながら大河を渡渉する。
地図に従って2本目の道を左折して進んだが、下地郵便局も河川緑地も見当たらないのも道理で、国道1号線を歩いていた。
仕方がないので川に向かって左折すると、 右手に古墳時代前期(2000年から1700年前)の瓜郷遺跡を発見、本来は見られないはずの復元家屋が見学できた。
74番目の下地一里塚跡(287km)は、そんな次第で見ることができず、史跡境界の碑(288km)で旧道にふっきする。自然に曲がりくねっていてこちらの方が国道より遥かに歩きやすい。
両側に豊橋魚市場がある先から上り坂になっていて、高橋で広い豊川放水路を、万石橋で狭い善光寺川を越えた。目の良い滝澤が、川原に放牧された羊の群れを発見。
右手のニチレイ工場(289km)前に、悲しい伝説に由来する子だか橋碑があり、丁度良い日陰だったので休憩とする。
国道247号を横断した先の右手に湿地帯がとんぼ公園と命名されていた。
道を渡ったところが、秦の始皇帝に命ぜられ神山に不老不死の霊薬を探しに来た徐福の伝説の地のひとつ・兎足神社だ。
今回の旅のゴール予定地・熱田神宮は特に有名だが、東海地方には徐福伝説が数多く伝わる。
先ほど遥か左手に走っていたJR飯田線の小坂井踏切を横断すると、左右にこれもよく見られる秋葉山常夜灯(290km)が出現した。
沿道に小さな神社仏閣が続く先に、75番目の伊奈一里塚跡。そばに珍しい山本太鼓店があったので、伝統文化に縁が深い村谷が撮影した。
佐奈橋で佐奈川を渡り、豊川市に入る。残念ながら豊川稲荷の近くは通らない。
コンビニに変わったかと思われた千成屋酒店(292km)は健在だった。
休日で静かな鈴与ガスと白鳥生コンを通過し、右手から国道一号線が近づいてきた山桃交差点が293km地点で、漸く8kmを消化した。
この先は、高架工事が完成していないため一旦国道に出て再び旧道に戻る。右手に蕎麦屋があったがまだ開店していなかった。
また、旧道が分断されていたため、国道を跨ぎ超えて畑道に入る。久しぶりに土の道でほっとする。
名鉄豊川線を横断(294km)した先で、近所の男性から声を掛けられる。田んぼのあぜ道が本来の旧道だそうだが、我らは地図に従い名鉄本線と豊川線が分岐している踏み切りを越えた。名古屋を挟んだ岐阜〜豊橋間は、JR線と何度も交差する形で運行していることを、かって名古屋に勤務していた村谷は思い出した。
地下道で国道を横断した先に乳母車専用の駐車場を発見したのも、孫が生れたばかりの村谷だった。
この付近は国府(こー)というが、国府交番がありやや呼びにくい。
下町公会堂(295km)を通過、右手に広大な敷地の大社神社があったので参拝した後、社務所の階段をお借りして飲み物休憩とする。伊勢神宮や熱田神宮のお札も手に入るとは、なかなか便利にできていると感心する。
浜名湖の上部を迂回する媛街道追分(296km)があり、見逃してしまいそうな小さな木柱に、「三州御油宿→これより姫街道 遠州見附宿まで」とあった。
音羽川を渡り、一旦、旧道から離れて御油松並木資料館に入る。東海道随一の松並木で、昭和19年に国の天然記念物に指定されている。
勉強を兼ねて涼んだ後、再び旧道を歩き出す。昼食の時分だが、菓子屋ばかりで食堂が全く見当たらないので、先へ進む。
297km地点から松並木が始まる。鬱蒼と茂っていてこれまでよそで見たものとは段違いの充実振りだった。
中ほどに休憩所があったが、残念ながら午後からの営業だった。
500mほどで松並木が終わり、天王川を渡った先の関川神社にある樹齢800年の楠の脇に、「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」という芭蕉句碑があった。
音羽郵便局の先で、地元の主婦達だけで運営している食堂「あいりん」(宝飯郡音羽根町赤坂字関川96:0533−87−7166)を発見して座敷に上がりこむ。
昔の造りそのままで風通しがよくて心地よい。
先ずは、ビールを頼んだが、料理用の缶ビールが2本だけ、それでもコップに分けて喉を潤した。
料理は地元の食材のみを使用したヘルシーなもので、特に野菜の香りが素晴しかった。
我らより一足遅れて入ってきた旧東海道ウオーカーの男性も缶ビールを注文したが、在庫払底で待たされてしまい、我らを羨ましげに見つめていた。
御油〜赤坂間の距離は1.4kmと最短だが、夫々宿場の規模が小さいために、上りと下りの行列を分けていたという。
赤坂紅里の信号(298km)の直ぐ先の左手にある浄泉寺には樹齢260年という蘇鉄が残っていて、広重の絵にも描かれている。
直ぐ隣の大橋屋は昔の旅籠そのままの佇まいだった。
真新しいお休処「よらまいかん」でトイレ休憩、後ろの駐車場が広々している。
左手の宮路山はハイキングコースになっているらしく、所々に案内板がある。
開運毘沙門天王尊の碑(299km)八王子神社を過ぎ、バイパスを越えると77番目の長沢一里塚跡が丁度 江戸から300km地点だった。
観音菩薩像が2体続く301km地点を通過し、国道一号線と再会する辺りが工場がある302km地点、そろそろ疲れてきたので、岡崎市との境にある東海道ルネッサンス「本宿の歴史と文化をたずねて」(303km)は、建物がなくて柱だけだったのは残念、どっと疲れが増した。
重い足を引きずるようにして再び旧道に入る。名鉄名古屋本線・本宿駅近くの一里塚跡(304km)付近が中心地だったらしい。駅は大正15年の開通だが、周囲の雰囲気は箱根に似ている?そうだ。
また、国道1号線に出て東海中学入り口交差点(305km)を通過、トラックの重量検査場脇からまた旧道へ、名鉄・名電山中駅前を越えた舞木橋手前の地点が、漸く306kmで残り9kmとなった。
国道沿いのホテルの名前が、ピカソからアントワネットに変わっていたが、理由は判らない。
藤川宿の東入り口だった東棒鼻(307km)からまた旧道だ。
79番目の藤川一里塚跡(308km)手前にある十王堂(閻魔堂)跡には、芭蕉句碑でも最大級のものが残っている。
吉良道と別れて名鉄名古屋本線の下を潜る辺りから始まるのが藤川松並木だが、市天然記念物であり、御油・赤坂には遠く及ばない。
また1号線、そして旧道に入る坂下橋(310km)の左先に東海道記念碑「分間延絵図」があったが、殆どかすれていて写真には撮らなかった。
郷土の名木という身近な松並木付近は美合町で、村谷が名古屋勤務のころお世話になった方の家がある。
源氏蛍発祥地碑がある小さな流れの松葉川(311km)を越えると、広大な乙川の土手に出る。まもなく岡崎の中心部だ。
大平町交差点(312km)の90m先に大岡越前守陣屋跡が見えたが、立ち寄ろうという意見がなくひたすら1号線を急ぐ。
ホテル五万石の先で、高速関係の道路の下を3本潜り抜けた地点が、残り2kmだ。
岡崎二十七曲がり記念碑前で最後の飲み物休憩を取り、気力を振り絞って歩き出す。
両町公民館前から伝馬町に入ると後は一直線、名鉄・東岡崎駅に通じる伝馬通交差点前の岡崎サンホテルにゴールインした。
コースガイドでは27kmということだったが、実感は30kmというのが、一致した感触だった。
諸般の事情で、この先は次回以降に仕切りなおしになったため、夕食は、ホテルでもらった地図にある食事処みゆきに出かけ、本場・八丁味噌の「どて」などを芋焼酎で心ゆくまで堪能してから就寝した。
このページのトップに戻る
=第四日=(4月21日(月) 岡崎宿〜宮宿)
…順延します。
このページのトップに戻る
前のページ 次のページへ
.
.
.
.
★2008年4月18日(金)〜21日(土) 「旧・東海道、磐田駅〜岡崎駅」