街道
★2008年10月3日
(金)
〜5日(日)「旧・東海道、
岡崎
〜名古屋」
2018年
は、
2004年6月20日に日本橋を出立した「東海道中膝栗毛」
●印のアンダーライン上
をクリックしてお読みください。
※吉田兄の、『
旧東海道餐歩旅
』は、こちらをクリックください。
※吉田兄の、『旧街道餐歩』のページへ
●日本橋〜大森町 2004年6月20日
●大森町〜神奈川新町 2004年7月10日
●神奈川新町〜戸塚 2004年9月12日
●戸塚〜茅ヶ崎 2004年10月10日
●茅ヶ崎〜二宮 2004年11月13日
●二宮〜箱根湯本 2004年12月25日
●箱根東坂 2004年3月7日
●箱根西坂〜三島 2005年3月26日
●三島〜静岡 2007年5月17日〜19日
●静岡〜磐田 2008年1月18日〜20日
●磐田
〜岡崎 2008年4月18日〜21日
●岡崎〜名古屋 2008年10月3日〜5日
●桑名〜関 2008年10月24日〜26日
●関〜京都 2008年11月14日〜17日
●東海道五十七次・大阪街道=京街道
2012年6月8日〜10日
●東海道姫街道(東海道 追分宿〜御油宿) 2012年3月13日〜15日
●美濃路(東海道 宮宿〜中山道 垂井宿) 2013年10月11日〜14日
●伊勢街道、前半(東海道 日永の追分〜高茶屋駅) 2011年4月6日〜9日
●伊勢街道、後半(高茶屋駅〜伊勢神宮) 2011年7月8日〜10日
では、今回の道中記
=第一日=(
10月3日(金) 岡崎宿
夕
刻、
名鉄名古屋本線・
東岡崎駅
近くの
岡崎サンホテル
に集合した、吉田・滝澤・清水・村谷の東海道4人衆は、目の前で文政9年(1826)から創業している備前屋(菓子)で貰った宿場地図を参考に、
飲食処・大翔
でじっくりと計画を練り上げた。
岡崎サンホテル
宿泊
=第二日=(10月4日(土)
岡崎宿〜池鯉鮒宿
朝八時、ホテルを出て街道を西へ進む。この
伝馬通
には、朝鮮通信使や将軍に献上するお茶壷道中など、往時を偲ばせる
石像
が道の両側に延々と続いている。
西本陣跡
(日本橋から315Km地点)から鍵型に曲がった通りの右手には、大正6年に建造されたルネッサンス風の
岡崎信用金庫資料館
が戦災を免れて残っている。
天正18年(1590)に徳川家康が関東に入府すると入れ違いに岡崎城主になった秀吉の家臣・田中吉政は、防護を固めるため今に残る二十七曲がりの街道と並んで、宿場と城内を区分する籠田総門などを整備したが、その一部が
籠田公園
として残されている。
公園脇から左折すると、今でも古い屋号が残る
連尺通り
、さらに曲がりくねった道を通過し、歩道に材木のブロックが敷かれている
木まち通
(3
1
6Km)に出て、西へ進む。
伊賀川
に突き当たり、川辺を散歩する老夫婦とすれ違い南下、早朝から工事中の
三清橋
を渡り、国道一号線(R1)を歩道橋で横断する。快晴で日差しも強いが、そよ風が心地よい。
岡崎城西の郵便局
前を過ぎる。村谷を除く3名は、昨夕、お城のある岡崎公園は実査済み、村谷も名古屋在勤当時訪問済のため、城には立ち寄らず先を急ぐ。
かっての遊郭街の佇まいが残る
中岡崎町の信号
(317Km)付近で、
八丁味噌
の看板が目に飛び込んできた。
土曜日のためか、がらんと空いた
愛知環状鉄道線
を通過すると直ぐに
味噌蔵
が目につく。名の由来は、城から八丁の地点にあるからだという。
再び
R1
に出て、
矢作川
を渡る。
矢作橋
を渡りきった地点に、蜂須賀小六と日吉丸の出会いの像があるはずだが、折からの国道拡幅工事のため一時撤去中で、写真のみとは残念(ただし、当時は橋がかかっていなかったのが歴史的な事実という)。
直ぐに
旧道
に入りほっとする。
誓願寺の十王堂
には、源義経に恋をしながら叶わずに亡くなった浄瑠璃姫が祀られ、堂内に義経像が安置されていて、地元の人々の思いやりが窺われた。
再び
R1
に出る(318Km)。ここから2Kmはひたすら国道歩きだが、休日のため車が少なめで助かる。
柿崎の信号
(320Km)から350mほどの
松並木
が始まる。
尾崎一里塚
(321Km)脇の
熊野神社
には、敗色濃い中、空襲で犠牲となった予科練生を慰霊する碑があり、無念の胸中を思いやる。
ここは
鎌倉街道
との分岐点にもなっていた。滝澤が季節外れの
十月桜
を見つけた。
右手の
永安寺
の境内に、巨大な松の木が生えている。300年以上前に、当地の庄屋・柴田助太夫が村人の助郷役の免除を願い出て刑死したのを慰めるため植えられたという。幹が上ではなくて横に枝別れして伸びており、「
雲竜の松
」と呼ばれている。村谷も各所の松を見たが、これほど見事に永年に渡って手入れされてきたのは、初の経験だった。
明治用水碑がある
明治川神社
(322Km)から、両側が
松並木
になる。
石橋団地入口信号
付近のコンビニで、冷たいものを摂取する。適度に乾燥しているので、甘さと冷たさのハーモニーが絶妙だ。
大きな
JAスーパー
(323Km)では、朝取れの野菜を買い求める主婦たちの車で込み合っていた。
東栄町信号
脇の酒屋に、戦前のポスターが最近のモデルのと一緒に貼られていた。
石田川
(324Km)を渡る。
来迎寺一里塚
(325Km)は盛り土で原形をとどめていた。
かきつばたで名高い
八橋山無量寿寺
への道標が出てきたが、現在も16の池に3万本の花が咲き揃うそうだ。有名な在原業平の和歌にある景観は、4月末から5月末まで楽しめるという。
知立松並木
は、長さ500mに170本と本日随一の景観だった。一茶の句碑や持統天皇行幸時の万葉歌碑、馬市の跡碑、くぐり松にお決まりの広重の絵など仕掛けに不足はない。特に、池の中に大きな鯉や鮒が泳いでいるのは、ユーモラスだ。
御林町信号
(326Km)で
R1
を横断。
食事どころを探しながら
中町交差点
(327Km)に着く。
適当な場所がないので、一旦、名鉄・
知立駅
前まで出て、
中国料理・榮多婁
に入店する。先ずは生ビールで乾杯。食事はあっさりとラーメンに統一して、後半に備えた。
再び
旧道
に戻る。
知立城跡
や
総持寺
の
大銀杏
を見ながら、
国道155号線
を横断する。しかしながら、何故地下道が必要なのかわからないほどの交通量だった。
知立神社
(328Km)に芭蕉句碑がある筈と捜し、境内の片隅で発見した。微かに芭蕉の文字が読み取れた。
逢妻川
を渡るとまた
R1
に出る。
一里山町交差点
(329Km)傍の一里塚は所在不明。
今岡
から再び
旧道
に入る。
火の見櫓
(330Km)の手前に、ひもかわうどん発祥地の碑があった。
名鉄・
富士松駅
への分岐近くに、面白い火の用心の壁画があって見入ってしまった。
下り坂を降り立った
今川町西交差点
(331Km)で、
R1
を横断して、
旧道
へ。慶長6年に三河と尾張の境界を定めた
境橋
を渡る。袂には狂歌の碑がある。
豊明駅東の信号
(332Km)で、
R1
と合流、暫くは賑やかな駅前の喧騒を味合う。
阿野一里塚
(333Km)から
旧道
をのんびりと歩く。
前後駅
横(334Km)を通過し、また
R1
と合流したら目の前が、名鉄本線・
中京競馬場駅
だった。
本日は、ここで打ち止めとして、電車で
知立駅
まで戻った。
宿泊は、駅前の
ビジネスホテル知立
だった。
本日は我ら4名だけとあって、食堂にビールを持ち込み歓談し、明日に備えて早めに就寝した次第。
=第三日=(10月5日(日)
桶狭間古戦場跡
宿〜
熱田
宿)
昨日とは変わって、曇天⇒午後から雨の予報の中、朝食を済ませて、ホテルと隣接する名鉄名古屋本線・
知立駅
へ。佐屋行き急行に乗り、途中で準急に乗り換えて、
中京競馬場前駅
で下車した。
先ずは駅からは直ぐの
桶狭間古戦場跡の公園
を見学する。小高い丘だったという村谷の記憶は、近くの山との混同だったようで、真ッ平らな公園に墓や記念碑があっただけ。一人の老婦人が線香を点けていたが、誰かの子孫だったようだ。
一旦、
R1
に出て(336
Km
)、旧道を
有松
に向う。郵便局付近まで来ると、まだ8時すぎにもかかわらず、大勢の人出だ。傍らのポスターによれば、本日が
有松天神社
の山車祭りに当たるという。年1回しか見られない3台もの豪華な山車が見学できて、とてもラッキー。
道筋にある
有松・鳴海絞会館
も、本来ならば9時半開館なのだが、お祭りとあってこれまたOK,夫々土産のハンカチなどを購入する。聞き出し上手の清水が、売り子のお姉さまから、「職人の鳴海、商人の有松」ということばがあり、豊かなのは有松の方だとの情報を入手。
町並みには随所に旧家屋が保存されていて、江戸時代に戻った気分になる。続く鳴海より町並みがよく西部されていた。
雨がぱらついてきたので、心配顔の氏子さんたちと別れて、隣接する
鳴海
へと歩を転じた。
鎌研橋一里塚
(337
Km)は所持不明だが、復興計画中とは有松のご威光なのか。
鳴海町四本木公民館
では、地元の人々が早くから集っていた。1週間後の鳴海神社の祭礼打ち合わせのためのようだった。
1本だけ松の木が残っている
(338
Km)場所辺りで、雨が少し強くなってきたため傘を取り出す。
宝暦6年()に建てられた総門がある
瑞泉寺
に立ち寄る。先ほど有松で、自転車に乗り、w)シャツをはだけながら我々に鎌倉街道歩きを薦めてくれた男性が、箒を持って出てきた。話が長くなりそうだったので、吉田を置いて3人はお先に失礼する。
緑生涯学習センター
では、朝から囲碁グループが研鑽に勤しんでいた。
自動販売機でペットボトルを購入し休んでいると吉田が追いついたので、出発する。
鳴海神社入口
(340
Km
)、
天白川
(341
Km)を通過し、名古屋市内で唯一残った笠寺一里塚で休憩としる。もう宮宿は近い。
笠寺観音
(342
Km
)として信仰を集めている
天林山笠覆寺
に到着。心優しい土地の娘が雨に晒された観音像に笠をさし掛けてやり、その後藤原兼平の妻に迎えられたという出世譚が名の由来だとされる。広々した境内には、
芭蕉碑
や
宮本武蔵の塚
まで残っていて、本日も多くの人が参詣に訪れていた。
商店街を抜けて、
本笠寺駅そばの踏切
を横断する。雨はまだ止まない。
呼続町
(343
Km
)に入る。これから訪れる
宮の渡し
が、天候によっては運休したため、宿賃が高い熱田真で行かずここで待機する人々が多かったそうだ。舟が出るか出ないかを知らせに呼びに来るのでこの地名になった。
山崎川
(344
Km
)を越えると町並みが急に都会になった。
JR東海道線
踏み切り
(345
Km
)、
名鉄高架下
を通過し、
伝馬町交差点
(346
Km
)を歩道橋で渡る。
さらに国道を越えると急に鰻の香りが漂ってきた。名古屋名物・鰻の櫃まぶしの元祖・蓬莱軒が近い。まだ、11時を回ったばかりだが、既に駐車場は満杯で1時間待ちという人気ぶりだ。
我らは
宮の渡し公園
へ。
萩が満開
だった。次の桑名行きの船便は11月3日までないが、名古屋港と庄内川を遊覧する舟が待機しており、丁度ついたばかりのバスから、中高年男性の一団が乗り込んでいった。
我らは協議の結果、天候悪化が予想されるため
桑名〜富田間は、次回に
早立ちして消化することで一致し、
熱田神宮
に向う。
七五三や初宮参りで込み合う中、旅路の美辞に感謝し、織田信長が桶狭間の戦勝お礼に寄贈した信長塀の抜けて、名鉄・
神宮前駅
へゴールイン。
5階の
鈴の屋
で、味噌田楽と菜飯(お替りつき)定食をツマミに、生ビールで乾杯、締めて名古屋駅から帰途に着いた。
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