★2008年11月14日(金)〜17日(月)「旧・東海道、関〜京都」
2004年6月20日に日本橋を出立した「東海道中膝栗毛」 ●印のアンダーライン上をクリックしてお読みください。
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●日本橋〜大森町 2004年6月20日 ●大森町〜神奈川新町 2004年7月10日
●神奈川新町〜戸塚 2004年9月12日 ●戸塚〜茅ヶ崎 2004年10月10日
●茅ヶ崎〜二宮 2004年11月13日 ●二宮〜箱根湯本 2004年12月25日
●箱根東坂 2004年3月7日 ●箱根西坂〜三島 2005年3月26日
●三島〜静岡 2007年5月17日〜19日 ●静岡〜磐田 2008年1月18日〜20日
●磐田 〜岡崎 2008年4月18日〜21日 ●岡崎〜名古屋 2008年10月3日〜5日
●桑名〜関 2008年10月24日〜26日 ●関〜京都 2008年11月14日〜17日
●東海道五十七次・大阪街道=京街道 2012年6月8日〜10日
●東海道姫街道(東海道 追分宿〜御油宿) 2012年3月13日〜15日
●美濃路(東海道 宮宿〜中山道 垂井宿) 2013年10月11日〜14日
●伊勢街道、前半(東海道 日永の追分〜高茶屋駅) 2011年4月6日〜9日
●伊勢街道、後半(高茶屋駅〜伊勢神宮) 2011年7月8日〜10日
では、今回の道中記
=第一日= 11月14日(金) 関宿〜土三宿
4年越しの旧東海道餐歩きもいよいよ最終ラウンドに突入した。
本日は、三重県関宿からスタートして、4人組の1人・清水のゆかりの地・土山宿を目指す。
午前11時過ぎ、東から3名、西から1名が、関西本線・関駅で落ち合った。
先月25日(日)に下った坂を上り返して旧川北本陣門前で前回のゴールと合流した。
先ずはじっくりと町屋を見学すべく、関まちなみ資料館に入場する。大旅篭・玉屋と共通で300円の入場料は高くない。
帳場の脇にザックを置かせてもらい、箱階段を上がって二階の土蔵展示室へ。
町並みの移り変わりがよくわかる絵がある。別階段からは、有栖川親王が上京に際して宿泊した部屋にも行けるし、1F奥には高札が保存されていた。
そこに、滋賀県の浄土宗のお寺の奥様ご一行60名が来場したので、押し出されるように外に出る。
江戸から百六里にあるので名づけられた眺関亭・百六里庭の屋上からは、町並の全景が鑑賞できた。これから登る鈴鹿峠方面もくっきりと浮かぶ。
関宿を代表する旅篭だった玉屋に行くと、既に60名さまが入場していたが、受付の女性から「奥の土蔵までは行かないのでお先にどうぞ」と薦められて、浮世絵展示室へ先行する。広重の浮世絵がたっぷりと展示されていて、結構な眺めだ。入り口にきっちりと遮光カーテンが設けられていて保存状態が立派だ。
国の重要文化財に指定された荘重な地蔵院本堂(桑名から43キロ地点)脇を通過し、京都からの入り口に当たる西追分に着いたのは12時近く、中に格好の和室があるので昼食とした。
吉田の指示であらかじめ持参していた弁当を開き、一息つく。
見所が多かった関宿と別れて、出発。好天・微風・やや低めの気温に感謝しながら、出発する。
ここから3kmほどは、国道一号線(R1)沿いだが、直線道路でないため、ゆっくりした気分になれる。右手の丘の上に、関宿唯一の宿泊施設・国民宿舎関ロッジが聳える。
関西口バス停(44km)の先で、しばらく並行して流れる鈴鹿川を渡る。
「地元車優先」の看板があり、国道沿いにある農道に高速運転のトラックや乗用車が乗り入れしないための表示だと滝澤が解説してくれた。
歩道が片側だけの地点(45km)を慎重に横断し、快調に歩を進める。
鈴鹿山系の両側は天候が変わりやすいので知られているが、室町時代の絵師・狩野元信が描こうとして風景の移り変わりが激しく途中で断念したという筆捨山(289m)は、今日はくっきりと見えて満足する。
新茶屋一里塚跡(46km)の先でR1と別れて、旧道に右折する。この辺りの右手には東海自然歩道が平行しているため、案内板がしばしば出る。
愛知県で極く一部を歩いたことがある村谷が、その大変さを説明した。
坂下郵便局(47km)の先からは坂道になる。
道の左脇に、東海道五十三次の宿場名を記した木の柱が立ち並ぶ場所に、鈴鹿馬子唄会館があったので、トイレ休憩とする。われらと同年輩と思しき男性が、丁寧に説明してくれる。
「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あい(間)の土山 雨が降る(以下、続くが省略)」という鈴鹿馬子唄などを勉強し、御輿を上げた。
また東海自然歩道の案内板があり(48km)、静かな山道を下る。河原谷橋をわたると坂下宿だ。
慶長6年に徳川家康の命によって、関宿と同時に宿駅に指定された由緒ある宿場だが、鈴鹿川の氾濫で壊滅的な打撃を受けて場所を移したという歴史がある。そのためか関宿の保存ぶりには遠く及ばないものの松屋・梅屋・大竹屋・小竹屋(49km)というおめでたい名前を冠した本陣跡は残る。
R1と1kmほど並行して坂下一里塚があったと思われる地点(50km)からいよいよ鈴鹿峠に差し掛かる。
右手にかっての坂下宿の朽ちた家が残る薄暗い道を上ると、正面に片山神社の参道が出てきたので、一息入れる。
紅葉が鮮やかだった。反対側から降りてきた東海道ウオーカーの男性は元気に石段を登って参拝したが、あと3日間の行程を残すわれらは自重した。
300mほど山道を上がると、いったんR1に遭遇、そして芭蕉句碑「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」を通過し「鏡石150m」の標識あたりが峠の頂上らしいと見当をつけて記念撮影した。
巨大な万人講常夜燈がある鈴鹿峠路傍休憩地から振り返ると、鈴鹿峠が一番低いことがよく見て取れた。
またR1と合流(51km)し、国道歩きになる。熊野神社入り口(52km)信号の上にあった掲示板には「大津まで50km、東京から435km」とあり、ゴール近しを実感する。
山中城跡(53km)で旧道に入る。第二名神高速道路を潜った先にある山中一里塚公園(54km)で休憩を取る。今回は4日間の長丁場なので慎重に進む。
再び国道に出て、若宮神社鳥居から旧道に戻ると、猪鼻地区だ。清水が50年前の記憶をたどり、道路沿いにある一軒の家を訪れる。折りよく知人と再会することができた。
急な坂道を登り、またR1へ出る。
蟹が石坂(55km)を下っていくと、右手には天文11年(1542年)に伊勢国守・北畠具教が甲賀に侵入した古戦場跡碑がある。
田村川(56km)には新しい橋が架かっていて、土山宿の力の入れ具合が窺われる。
坂上田村麻呂を祀った広大な境内を持つ田村神社を通過し、R1を歩道橋で横断して、道の駅・あいの土山で休憩を取る。
館内にあった無料のお茶の味が引き立つのは、茶所に相応しい。大きなかぼちゃが展示されていたので、村谷が試しに持ち上げてみた。
ここから3kmほどの旧街道が、土山宿のメインストリートだ。
ここも清水ゆかり旅籠「鳥居本屋」を発見し、記念撮影した。
土山一里塚跡(57km)を通過、その先の問屋場跡・成道学校跡に、まだ新しい伝馬館があったので入場する。大きな建物だったが、一切物品を販売しておらず、入場無料というのはなかなかの心意気だ。2階には、広重の浮世絵を陶製の盆栽風に作った作品が展示されていて面白い。
土山公民館(58km)先の交差点で本日の日程は終了とし、R1へ出て、当地で唯一の大安旅館に入る。
われら4名で独り占めにし、楽しく夕食と晩酌を済ませて、ふとんについた。
=第二日= 11月15日(土) 土山宿〜水口宿
昨夜の夕食は、地元産の漬物と暖かな松坂牛ならぬ豚肉鍋⇒おじやですっかり英気を回復した4名は、朝もたっぷりとご飯を食して出発する。
再び旧道に向かう。鈴鹿馬子唄にある通り、朝から小雨交じりとは、「あいの土山雨が降る」に相応しい。
土山宿・京口から一旦R1に出て、土山西口バス停(59km)の先で旧道に入る。
人と自転車専用のうたごえ橋で、これから2日間、付かず離れずになる野洲川を渡る。村谷がカメラを向けると、クラブ活動に行くらしい女子高校生が2名、お揃いの雨コートを着て自転車で颯爽と通り過ぎてゆく。
橋の上から左手の小高い山々を眺めると、ちょうど紅葉が右路だった。
街道の左手には次々と茶畑が出現する。清水に教えられて、茶の花を鑑賞しながら進む。
まだ、土山宿の続きになるらしく、古い屋号の家並みが続く。
二つ目の瀧樹神社道標(60km)、諏訪神社(61km)、大日川の先の松並木(62km)、篠原公民館(63km)と、傘を差しながら通過してゆくが、まだまだ土山宿の続きとは驚きだ。
若王寺前でR1を横断し、茅葺屋根の旅籠・東屋跡(64km)を通過し、再びR1と遭遇した地点に、水口宿入り口(65km)の大きな看板がありその途端、雨が上がったのは馬子唄どおりだった。
浄土寺の先に、真新しい司馬遼太郎作の「街道をゆく」碑がある。
八坂神社・岩神不動尊参道(66km)の先の県道549号線との分岐点にあった喫茶店はなくなっていた。
右手に八幡神社(67km)があったので、境内で一休みする。場所をお借りするので、入り口にあった観音堂にお参りしていたら、車で老年男性が登場、江戸から来たと告げると観音堂を見せてくれるとのこと。一旦帰宅して鍵を開けていただき、江戸時代から氏子たちが奉納した数々の絵馬を拝見できた。
一人ひとりに「新城・天水寺・馬頭観世音菩薩守護符」を賜り感謝して出発。
鈴鹿峠から大津までは基本的に下り坂だ。
すべり坂といわれる急坂を下りきった地点が、水口宿の東見付跡(68km)だった。東海道50番目の宿で京まで12里25丁、ますます残りが僅かになる。
街道沿いに珍しく和菓子・一味屋があった。前回はいたるところで餅屋や菓子屋だらけだったので、懐かしい感じがする。アーケード商店街(69km)の入り口の右奥手に、芭蕉句碑「命二つ 中に活きたる 桜かな」がある
大岡寺があるが、昼が近いため先を急いだ。
水口曳山のからくり時計がある休憩所で一休み。目の前に食品スーパーがあり、弁当類は並んでいたが、アルコール類が見当たらず先へ進む。
近江鉄道の踏み切り横に、喫茶店のランチを発見し、缶ビールも5本あることを確認してから入店した。先ずは乾杯、4日間で最も長丁場なので、頑張ろうと意思統一する。
メニューは、ハヤシライス1名、高菜チャーハン3名だったが、いずれもボリューム満点で大いに満足した。
踏み切りを渡った先に、広重の「名物瓢箪」の浮世絵があった。下野(栃木県)城主だった加藤嘉矩が水口に転封になったため伝わったそうだが、東国と伊勢への交通の要衝だったため大いに売れたのだろう。
荒れた墓地がある五十鈴神社の先から、2、3kmほど一直線の街道が続き、 「北脇縄手」と称されていたという。
柏木神社参道(71km)、柏木公民館(72km)と元気いっぱい歩く。
酒入り口という珍しい名のバス停を探したが、見つからなかった。
泉福寺横(73km)から、道がジグザグしてきた。この方が旧道らしくて趣があるし、車がびゅんびゅん飛ばせずに良い。
横田川に出る。上流でも下流でも野洲川というが、この付近だけは別名なのが面白い。
横田の渡し跡には、高さ10.5mもの巨大な常夜燈が残っていて、東海道13の渡しのひとつだったことが窺われる。
現在は、一度R1沿いに川を渡らなくてはならない。
渡りきった先のJR草津線・三雲駅前交差点は工事中だった。
荒川という小川を荒川橋で渡る。
草津線の踏切(76km)を横断、最初の天井川である大沙川に着く。堤の上に、弘法大師が杉の箸を差しておいたのが芽を吹き大きくなったという杉の木が残っている。左手は、城跡に続く遊歩道だが、我らは先を急ぐ。
夏見バス停(77km)を通過。
二本目の天井川・由良谷川(78km)の先を500mほど行った地点が本日のゴールだが、すぐ先に造り酒屋・北島があったので、当然立ち寄る。
本日の寝酒に、吟醸酒2本を購入し、甲西アートホテルに、予定より早めの午後3時に到着した。
チェックインまで間があるので、夕食場所の下見と、二次会のつまみを購入、シャワーを浴びて、ファミリーレストランに入店、ワイン・ビールで本日の労苦を労いあった。
=第三日= 11月16日(日) 水口宿〜草津宿
朝もや煙る水口宿・甲西アートホテルを出発する。朝食は、ボリュームたっぷりのバイキングとあって、元気よく北島の前を通過した。
左手900mほど先に、大正10年に天然記念物に制定されたうつくし松自生地がある下り坂(79km)を通過。
光林寺(80km)、吉姫神社(81km)を通過するが、日曜日のためか人影がない。
間口四十五間、奥行三十一間、敷地二八四五坪の壮麗な石部宿・小島本陣跡付近で、老年女性たちが集まっていて声をかけてきた。芭蕉句碑「つつじいけて その蔭に 干し鱈さく女」がある真明寺の朝参りに行くらしい。
広重が描いた浮世絵を基に再現した石部宿田楽茶屋前を右折し、石部歴史資料館へ向かう三叉路(82km)を直進すると、右手にJR草津線・石部駅が近い。
行く手に近江富士(三上山)が見えてくるはずだが、ちらと雲間から頭が出ていただけで、すぐに隠れてしまい、6年前に登頂した経験のある村谷は残念がる。
街道が上下に分かれている地点(83km)に着いた。野洲川の氾濫で通行不能となり当時の城主がバイパスを作ったが、距離が長いためやがて使用されなくなったそうだ。われらも線路沿いの近道(下道・脇道)を行く。
なお、この廃道(上道・本街道)は金山跡に通じているため、石部金吉の語源になったというのは面白い。
名神高速を潜り徳生寺(85km)を通過するがまだ小雨模様だ。
新善光寺道の道標(86km)がある付近には、昔の宿場で営業していた店の看板が残っている。
行く手の左手に、これまでの道中では見たことがないほど立派な建物が出現する。徳川家康やシーボルトも服用したという腹痛用漢方薬「和中散」を売っていた店舗の跡で、寛永年間(1624−44)の建物が保存されている。中にある大角氏庭園は国指定名勝で、隠居所は重要文化財に指定された貴重な存在である。
時間が合わない我らは先を急ぐ。
紅殻格子の家「綿屋」(87km)など、まだまだ古い家並みが続く。
高速道路(88km)に差し掛かったあたりで、ハーフマラソンの先頭軍団が近づいてきた。
雨宿りをかねて応援休憩とする。
プロ並みのスピードの数名から、参加することに意義を見出した老人パワーまで楽しく応援し、いざ出発。
室町幕府・9代将軍足利義尚(1473−89)、応仁の乱で権威を喪失し、自ら叛乱の鎮圧に向かった際に2年間も滞陣したという鈎の陣所跡には、天皇はじめ多くの貴人の歌碑が残されている(89km)。
シーボルトが植物学者としても知られた僧侶・恵教のいた善性寺(90km)を過ぎると、街道往来の旅人のために供された田楽茶屋跡が出てきた。当時の健脚と朝立ち時刻が早いことから、ちょうどよい昼食場所だったのだろう。
新幹線の高架(91km)を潜って通過する。
右手に老牛馬養生所跡の碑があった。現在とは比較にならないほど牛や馬が重要な存在だったことの証だ。
草津川橋(92km)で、草津川(天井川)を渡ると、草津市街が一望できる。
草津川隋道に到着した。中山道との合流地点だ。
吉田と村谷は先月から月1回ペースで中山道歩きを始めたので、ここにはいつたどり着けるのだろう。
⇒ ※2011年2月18日 清水兄・西兄と一緒に、たどり着きました。
⇒ http://tak-oh.sakura.ne.jp/11.02.17.NAKASENDOU.htm
草津宿本陣は現存する日本最大の本陣で国指定史跡になっている。入り口で写真を撮り、中は中山道ゴールインまでのお楽しみとした。
江戸から118里32丁、京都までは6里24丁を残すのみだ。
草津宿街道交流館をのぞいたが、あまり参考になる資料はなかったのが残念。
旅館野村屋(93km)から矢倉郵便局(94km)まで、町並みが続くが適当な食堂が見つからないので、さらに先を急ぐ。
矢倉小学校先でR1と合流、右手に中華料理屋を発見して飛び込む。運よく座敷席を確保し、ビール、ラーメン、餃子を注文する。
本日の宿泊先まで5kmほどと順調に行程を消化したため、ビールが一段とおいしかった。
店を出たときには入店待ちのお客もいたので、タイミングに感謝して進む。
古い宿駅を再現した野路の玉川跡(95km)は、千載和歌集の源俊頼の「あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり」の歌で有名だ。
月輪の立場(97km)、建部神社(100km)と順調に進み、3時前には、本日の宿「アーブ滋賀」に到着した。(村谷 記)
=第四日= 11月17日(月) 大津宿〜京都・三条大橋
昨夜の宿・アーブ滋賀の別名は、滋賀県青年会館といい、大広間では某大学のボート部OB・現役会合が開かれていて、遅くまで賑やかな声が聞こえていた。
われ等4名は、食堂から持ち込んだ氷と水で焼酎を堪能してから早めに熟睡し、爽やかな朝を迎えることができた。
大食堂を占拠してたっぷりと朝食を摂った後、午後8時を期して京に向けて出立した。
瀬田の唐橋の袂に宿泊するという貴重な機会を得ながら、近江八景の一つ「瀬田の夕照」は見られなかったが、その替わりに、黄色く色づいた銀杏の木の背後に、瀬田大橋からの朝陽をいっぱいに浴びながら元気に歩き出す。
京阪電鉄・唐橋前駅は、朝の通勤・通学客が早くも詰め掛けていて、本日が月曜日だったことに気がつく。
長徳寺前の信号を右折し、忙しそうに駅に向かう人々とすれ違いながら、商店街を北上する。京都が近いためなのか、すれ違う女性たちが上品に見える。
R1バイパスを潜り、京阪鉄道とJRとが同居する石山駅へ。ひっきりなしに忙しそうな人々が行き交う横断通路を越えて北側に抜けた・盛越川沿いに鳥居川一里塚があったはずだが、すっかり駅前が再開発されていて見つからなかった。
NECの大きな工場が目の前に広がって、しばらくは塀沿いに進む。
粟津小学校の手前に、農業試験場発祥の地碑(102km)があった。
その右手の湖畔は、琵琶湖の近江八景「粟津の春嵐」として知られ、広重の浮世絵にも描かれたとおり、美しい松並木の間から垣間見えた名勝だったが、現在では見晴らすことができなくなっていた。
京阪電鉄の踏み切りを2度横断する途中にある若宮八幡神社で、本日の行程の無事を祈願する。壬申の乱からわずか3年後に天武天皇の命で造営し、この湖辺の上下8丁の殺生を禁じた心配りを忖度した。
膳所の名工・初代菅次が金銀銅鉄器類を製作したという晴好雨碕亭址(103km)を左折して北上する。左手には膳所神社の壮麗な建物が見えたので、休憩をかねて参拝する。角にあった酒屋がコンビニに変身していたのにも、すっかり慣れてしまった。
和田神社(104km)の左手に初めて琵琶湖が見える地点があったので、右折する。犬を散歩していた老人の背後には、西武系の高層ホテルが辺りを睥睨していた。
膳所城北総門跡(105km)の先に、松尾芭蕉の墓と木曽義仲の供養塔が並存する義仲寺があったが、入場できないため「木曽殿と 背中合せの寒さかな」という著名な句を確認して先へ進む。
江戸から122番目の大津一里塚(106km地点?)は、何故かっ所在不明だった。
京町通りに入り、国の有形文化財に登録された建物を鑑賞する。
すぐ先の右手に、大津事件の現場を示す「露国皇太子遭難の地碑」があった。
今では考えられないが、当時の護衛状況が想定された。
北国街道との分岐点である札の辻(107km)を左折すると、逢坂の関が間近だ。
坂を上っていった右手には、明治期に造られたレンガつくりの逢坂トンネルが、今でもJRに使用されている。
百人一首にある「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬもあふ坂の関」の作者である蝉丸の歌碑が、京阪電鉄を横断した関蝉丸神社に残されていた。われらも参拝したものの、あまり往来がないらしい狭い滑りやすい階段には往生した。
R1との合流点(108km)から、名神高速を潜って上る。
弘法大師堂を参拝し。少し先の逢坂山関址が本日の最高点だった。
これからは、京に向かう下り坂しかないはずと、足も軽くなる。
右手には、「日本一うまい?」とのキャッチフレーズが」堂々と掲示された料亭「かねよ」があったが、開店前の掃除中とあって通過する。
左手の京阪電鉄・大谷駅(109km)の改札口には、人影がなかった。
この付近は、R1・名神高速・京阪電鉄が3本平行して走っている珍しい光景が見られる(JRは逢坂トンネルを通過)。
こんな騒音の中にも家並みが続き、驚くばかりだ。
商人の町らしく、大津算盤の始祖・片岡庄兵衛の流れを汲むという家の前に、大きな車石があった。
その先の月心寺・走井は、清冽な水で作られたごま豆腐で有名なお寺だそうだが、どこから入るのかが不思議なロケーションだ。
名神高速と別れた地点(110km)から、追分歩道橋脇の旧道に入る。
モダンな作りの交番の先で、奈良方面との分岐点(111km)がある。
そのまま国道を渡る陸橋が工事中で、手前から一旦戻って潜らざるをえないが、手前にあった大津市で2つ目の有形文化財の家と土蔵を撮影した。
幼稚園児らしい女の子を自転車で迎えに行ったらしいスタイルのよい母親と一緒に国道を潜って、また旧道に出た。
山科四宮郵便局(112km)を通過すると、程よい時間になっており、昼食休憩。
當麻寺(113km)先で、三条通り(R1)に出た。
JRの高架を潜った先の右手に、当地で不慮の死を遂げたと伝えられる天智天皇陵があり、入り口で一礼して先を急ぐ。
そこに、自転車に乗った老人男性が出現し、道が違うと親切にも教えていただいた。吉田&村谷は四国遍路で何度も経験してはいたものの、親切は何度もありがたいものだと身にしみて感じた次第。
細い道の上り坂(114km)の路傍には、車石の残骸が保存されていた。
涼しげな坂道をおり切った地点で、再び三条通に合流する(115km)紅葉が真っ盛りな蹴上浄水場の写真を撮っているうちに、都ホテル脇の蹴上交差点(116km)に到着、疎水の銀杏が鮮やかな黄色だった。
この先は、三条神宮通り、東山三条と、盛秋の京都をあっというまに通過し、午後2時前、三条大橋にゴールインした。
4年がかりの目標到達だったが、長かったのか短かったのかは夫々感慨が異なるのだろう。
健康と健脚に感謝して、旧東海道餐歩の村谷独断のレポートを終了致します。
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