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 中山道・姫街道(信濃追分〜藤岡宿)

   …日本橋から高崎宿までは、同行の吉田さんのページです。

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<11月3日(祝)中山道・美濃路(鵜沼宿〜加納宿)>

 前回(9月)の最終地点・岐阜県美濃加茂駅前のシティホテル美濃加茂に前日夕刻に集合して、たっぷりと鋭気を養った清水・西・村谷の3名。

 8時過ぎの高山本線に乗車、祝日で空いた車中で、前回の半日分の行程を10分もかからずに通過し、JR鵜沼駅に下車する。
 ぴかぴかの好天が3日間続くという予報だが、前回とは異なりひんやりとした空気が駅前広場を覆っていた。

 先ずは、この度で終始雁行するはずの国道21号線を横断し、赤坂神社で旧道に復帰したが、直角に曲がるはずの道角が不明。折りよく散歩で坂を下ってきた男性にご教授いただくのも通例になった。
最近の町興し活動で、施設が充実しているので立ち寄るようにとのお勧めに従って、鵜沼宿町屋館を訪問すると、休日を利用した茶会が催されるらしく、和服の女性や袴姿の男性が早くも詰め掛けていた。美濃路17宿に関する諸資料が詳しく展示されていて、まだ9時の開館時間前なのに、ボランティアの男性から説明とパンフレットをいただく。

 芭蕉が度々駐在した宿場ながら、明治24年の濃尾大地震で1軒を除き全ての建物が倒壊した歴史から、地元の熱意が伝わった。唯一残った
坂井家・脇本陣跡の芭蕉句碑には3句があり、おなじみの「送られつ 送りつ果ては 木曾のあき」の他に、「ふぐ汁も 喰えば喰せよ 菊の酒」と「汲留の 水泡たつや 蝉の声」がある。

 鵜沼町公民館の左手には、長良川河畔に聳え立つ
国宝・犬山城がくっきりと見えた。
 宿はずれには
弘法大師堂と並んで県内最大の円形古墳・衣装塚古墳があり、われらより少し年齢が高そうな夫婦連れが写真を撮っていた。

 本日の前半はR21歩きが続くためややうっとうしいが、幸い休日で車の流れが少なくて助かる。日差しは強いが、気温が20度未満、そよ風も吹いていてピッチが進む。
 単線の高山本線を立体交差で跨ぎ超えた辺りの馬場病院付近に、本日最初の各務原一里塚あったらしい。江戸時代は大草原だったので、この名になったという。

 川崎重工の広大な敷地と自衛隊航空基地を左右に見ながら、名鉄三柿野駅を歩道橋で超える。
ここから岐阜駅までは、JR高山本線、名鉄各務原線およびR21の3本がほぼ平行して進む。国道と分かれて旧道に入るとすぐに本日2番目の
六軒一里塚。かつて茶屋が六軒並んでいたからこの地名がついたらしい。

 「信長町」バス停があり、当然に関係があるはずだが、何も資料が見当たらない。
各務原市役所が出てきて中心街のようだ。右手に名鉄各務原飛行場駅を通過。広々した市民公園があったので、最初の休憩とした。
 1枚脱いで、ベンチで水を飲む。今回も西夫人から差し入れしていただいた松山市の一部でしか入手できない小豆入りの飴を1袋ずつ頂戴しており、各々喉を潤した。

 公園正門付近の芝生では、全員自転車で集合した同年輩の男性だけの一団が、何やら懇談中。
 そろそろ昼食の時間だが、旧道にはなかなか見当たらないのはいつものこと。JRと名鉄が並ぶ那加駅付近は、自動車学校はあるが食堂はなし。次の新加納駅も無人駅で何もない。ちなみに、新加納には、鵜沼と加納の宿間の距離が4里2丁もあったため、皇女和宮一行も休憩した間の宿が作られたそうだが、今の我らのほうが不自由とは3人とも苦笑い。
 新加納一里塚の先で、東海北陸自動車道を潜り抜ける。

 高田橋駅そばのかっぽう太郎はまだ営業していなかった。
 県道77号線の交差点にも何もなかったが、ふと左手を振り返ると喫茶店を発見、12時丁度だ。
 法事帰りらしい家族連れが食事中。奥の席に腰を下ろしてランチメニューを見ていると、水を持ってきたママが、困ったような顔で「焼きそばしかできません」というので有無をいわず注文。
 出てきたのは焼きそばとライスだけで、味噌汁も売りきれだった。すっかり平らげたところで、常連男性が一人来店、「ラーメンしかできません」とのこと、それも良かったかしらと水を追加。
 勘定を済ませたところで、予約済みらしい男性が入店し、21名が19名に減ってしまったという。
 てんやわんやの店に飛び込んだらしいが、申し訳なさそうにあやまるママの声に送られて店を出た。

 腹ごしらえ十分で歩き出すと、織田信長の信仰が厚かったという手力雄神社の鳥居が見えてきて商店街になる。岐阜信用金庫前の「切通」の由来を勉強する。

 昔の面影が残った細畑一里塚は江戸から104番目。
 秋葉神社の先で東海道本線の橋梁を通過する。旧中山道はこの先ずっと、この本線とお付き合いだ。
 名鉄名古屋本線・茶所駅踏切を通過すると、
「東海道いせ道」と「江戸木曾道」の分岐点。袂に 江戸時代の相撲取り・鏡岩浜之助の碑がある。素行が悪かった2代目が、反省の念を込めて初代の十三回忌に建立したという。

 新荒田川を横切った先から、美濃路最大を誇った加納宿。道路がカラー舗装されていて、標識も多く、まちづくりの意欲が高いようだ。城下町特有の枡形の路をたんたんと進む。往時を偲ぶ建物は少ないが、豊富な説明版が随所にある。中山道開設当初は、尾張に近い要衝の地として、家康の長女・亀姫の婿の奥平氏10万石の領地だったが、泰平の世が進むにつれて石高が減少し、それを補うために有名な和傘(美濃傘)の大産地に変貌したという。岐阜駅近くにある加納八幡宮で、七五三参りの家族連れに混じって
「傘祖彰徳」碑に参拝した。

 本日の行程はここまでとし、JR岐阜駅に向かう。
 繊維問屋が軒を連ねていた駅北側はすっかり変貌し、金色に輝く信長像はすっくと空を見上げていた。
9年振りの訪問になる村谷は、デジカメのシャッターを盛んに押す。
  
 信号に邪魔されずに名鉄新岐阜駅前を通過し、午後3時前、本日の宿・岐阜ワシントンホテルに到着した。

 荷物をおいて直ぐにタクシーで岐阜公園に移動。ロープウエーで金華山へ登る。昭和31年に復元された天守閣に上がり、斉藤道三・義龍親子や一時占拠した竹中半兵衛、そして織田信長が眺めた伊吹山等の山並みと長良川を堪能した。

 次々に上ってくる家族連れを尻目にホテルへ戻る。
 まだ4時過ぎとあって、開店していない柳ケ瀬のスナック街や南口へには向かわず、運転手から聞いたホテル横の50軒余の飲み屋街の中から、威勢の良い串焼き屋に入店、安くて新鮮な串焼きに地元産の地酒などを堪能し、6時前に帰館。部屋でテレビを見ながら明日に備えて早寝しました。


<11月4日(木)中山道・美濃路加納宿〜赤坂宿>
 本日は平日。岐阜駅に向かうサラリーマンの群れに揉まれながら、旧中山道に戻る。
駅前通を横断し、
加納宿西番所跡を通過すると、静かな住宅街。いつのまにかカラー舗装がなくなっていた。

 本日最初の
鳥屋の一里塚は標識だけ。
天候は昨日にまして青空と微風と絶好調だ。
 わずかながらR21に合流し、すぐに東海道本線を潜って旧道に入り落ち着く。
 
本荘地区を通過する。立派な家並みの庭先に、日露戦役でお国に尽くした若者を慰霊する碑が続く。悲しい経験が暫くはなかった昭和後半の良さを実感する。

 
鏡島(かがしま)集落に入り、「お弘法さん」として親しまれている
乙津寺(おつしんじ)へ参拝する。よく見かける「南無大師遍照金剛」ではなく「南無弘法大師」の幟が珍しい。
 お手製の弘法大師像や行基作の千手観音像など国の重文が少なくない。境内には四国八十八箇所を模した参拝路があり、娘さんが同行した老女が八十八歳までの長寿を祈っていて、我ら3名はそこまでは望まず?夫々家内安全と長寿をお願いした。

 本来の中山道は1キロ先の河渡橋を目指すのだが、柔軟な我らはそれにはかまわずかつての「
小紅の渡し」を使うことで合意済み。参拝に来ていた若奥様?に近道を教えていただき、長良川河畔に向かう。結構、標識が整備されていて利用者が多いと推測する。

 対岸の小屋に待機する船頭さんに合図すると、本日最初の客だったらしく、艫綱を解き放つところから始まって、ちょうど良い休憩を取ることができた。
 エンジン音を少し響かせながらも、岸近くでは熟練の艪捌きで着岸したのは明らかに我らより年長の男性だった。県営につき料金無料にもかかわらず、親切に説明をいただく。

 渡しがある上下の川面は鮎の絶好の休息地で、今も落ち鮎を捕捉する漁師や、そこからこぼれて疲れて死んだ鮎を狙う魚が多いという。そういえば上空にはさっきからトンビが目立つ。

 昨日登った金華山をくっきりと遠望しつつ、鮎の漁場と渡しの共存に感心しながら、お礼を述べて土手路を上がる。
右岸にグリーンが何段階にも傾斜していてボールの回収が容易な仕組みのゴルフ練習場脇を通過する。

 
河渡橋袂の土手道の先には、河渡宿の入り口だった愛染堂
すぐ先には106番目の
河渡の一里塚の碑がある。
 この宿の名物は、当然に鮎だったらしい。そういえば、前の加納宿付近には、長良川の鮎寿司を将軍に献上する鮎街道があったともいう。鵜飼の発祥は1300年前だそうだ。
  
 旧道ながらやや殺風景な駐車場等のブースが続くが、やがて
生津(なまず)地区。低地で鯰が多かったらしい。
左手には
サボテン村の看板。全国的にも有名なミニサボテンの産地だ。

 江戸から56番目の宿場・
美江寺宿の入り口に、五六川五六橋がお出迎え。そろそろ昼飯の時間だ。
 樽見鉄道・
美江寺駅横の踏切を通過。107番目の美江寺一里塚先の美江寺観音に参拝する。
当時の美江寺にあった千手観音が兵火で焼かれて、斉藤道三によって岐阜に移されてしまい、江戸期に中山道の宿場として復活した栄枯盛衰いの歴史が残る。

 旧地に残る観音堂で、数十メートル先の
喫茶店を教えていただき、11時半、店先に当地名物の富有柿が5個100円で売られているのを眺めながら、入店する。
 広い駐車場に車を停めていた同世代の農業従事者の男性諸氏が、名古屋より豪華?なモーニングサービスで歓談中。
たっぷりのおつまみをコーヒーで平らげて、12時直前に一斉に引き上げた。
 残された我らも夫々名古屋の色彩が強い鳥や豚肉を使用した熱々のスタミナランチを堪能する。
デザートの柿がたっぷりなのは当然ながら嬉しい。

 ここも明治期の地震で遺跡は少ないが、旧本陣など町並みはかってを偲ばせる。
直進すると
墨俣道
「ジパング倶楽部」2010年7月号“いざ、城へ参ろうN墨俣城”で紹介されていた、懐かしいTさんが経営する一夜城そばの茶房には向かわず右折。

 
犀川新月橋で渡り、急に立派な庁舎や中学校脇から揖斐川を目指す。
11月なのにいまだに田んぼの稲がちらほら残っていたのは自家米なのだろうか?。
 長い
鷲田橋をうまく近道を見つけて渡る。
呂久の集落では広大な柿の敷地が続いていた。
 和宮の時代には幅広だったらしい
呂久川は、「
落ちて行く 身と知りながらもみじ葉の 人なつかしくこがれこそすれ」という歌を想起させ、船で渡ったという川幅は残っていなかった。

 しかし、すぐ先には和宮を偲ぶ
小簾(おす)庭園が整備されていて、歌碑が鎖で保護されていた。
昭和時代に皇族が参拝された歴史も残っていて、街道随一の待遇だった。
  
 
平野井川を渡った先にあるはずの大嶋の一里塚は不明。
聖観音横の分岐は「右ぜんこうじ道;左谷汲山ごうど・いび近道」との道標があった。
 神戸(ごうど)がルーツの清水や、北国街道踏破を待望する村谷には興味深い。
 赤坂宿が近づいてきてきて、中山道七回り半の標識。大名行列の長さを誇った記念碑だともいう。
横浜在住で単独で中山道歩きをしているという同年輩の男性が写真撮影していた。

 右手にR21号線が近づいてきた。
近鉄養老線の
東赤坂駅横の踏切を通過。
 今度の日曜日(7日)に行われる赤坂祭りのポスターと、地元企業が後援する
赤坂宿の幟が目立つ。
白山神社先で108番目の青木小金橋の一里塚跡を通過。
 和田大理石は移転していた。

 
多賀神社の先・赤坂大橋杭瀬川を渡る。江戸期には更に200m西側を流れていて、揖斐川の本流で、水量が豊富だったため桑名からの水運が盛んだったという。現在は赤坂港会館にその歴史が残っているが、休館中。

 旧東海道本線の延長線跡を通過し、大垣方面に左折すると粋な黒塀沿いに400mで
美濃赤坂駅だった。
支線のためか1時間以上あるので、再び赤坂港会館方面にとって返す。Y大理石寄贈の日光時計などを鑑賞し、3時過ぎのバスに乗車、
大垣駅にゴールイン。
  
 3時過ぎに
大垣駅前アパホテルに入る。
夕食まで間があるので市内を散策。駅前通を大垣共立銀行本店方面に向かい、大垣城横から商店街を往復し、
大垣駅ビル内で早めに夕食を済ませ、当地の酒を堪能して早寝しました。

<11月6日(金)旧中山道(赤坂宿〜垂井宿〜関ヶ原宿)>
 すっきりと目覚めた我らは、めずらしく女性運転士乗務のJR東海道本線支線に乗り、8時過ぎに再び美濃赤坂駅に到着。
車内の地元男性から、山際まで伸びた両側の支線は貨物線とご教授いただく。
10分後には折り返す2車両を見送って旧道に復帰する。
街道沿いの右手の山々は、2億5千年前に海底が隆起して作られた石灰岩の塊で、今後も長く採掘可能だという。
 昨日も立ち寄った
本陣跡公園を通過し、緩やかな上り坂を行くと東海道本線貨物線を横断する。

 宿場を外れるとまたさびしい街道が続くが、本日は午前中のみの行程なので昼食の心配がない。
右手には石灰工場が続きいささか風情がないというのは老人の贅沢か。
 こんどは東海道線の本線を横断する。
昼飯青墓などの面白い名の集落を通過する。

 国の重要史跡・
美濃国分寺跡がはるか左手にあるが訪問省略。
119番目の
青野の一里塚を通過。
あるはずのコンビには なかったが今日は余裕がある。

 
相川を渡って垂井宿に入った。
左手に
垂井駅を見ながら先へ進む。
 大垣共立銀行の支店を見つけて何やらほっとする。
 本陣跡を超えた左手には、垂井宿が栄える源だった神武天皇の時代に創建されたという南宮大社があるが、2キロ先のため大鳥居の参拝で、「
葱白く 洗い立てたる 寒さかな」の芭蕉句碑とともに省略した。

 明治天皇小休止跡及び芭蕉句碑「
作り木の 庭をいさめる しぐれ哉」がある本龍寺を過ぎる。
R21を超えた先で散歩中の高齢男性に声をかけられる。江戸からというと感心され、この先の国史跡・
垂井の一里塚は見落とさないよう忠告していただいた。
  
 一里塚に隣接する
弘法大師堂で休憩。112番目の垂井一里塚は、志村一里塚と並ぶ中山道の双璧と言われている通り立派だった。
 
野上集落近くには貴重な松並木が続くが、猛暑のためか入り口の2本が立ち枯れていた。
六部地蔵尊付近は公園化されていて、長距離運転らしいトラックが1台停車していた。
  
 再び東海道線を超えるとすぐにR21に合流、
関ヶ原宿に入る。名物の一つだった、たまり醤油を宮内庁に納めていた老舗の看板を過ぎるて、今回の終着地としたJR関ヶ原駅到着。

 次回は、12月中旬で調整中です。

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街道

★2010年 11月2日(火)〜5日(金) 「中山道、鵜沼宿〜関ヶ原宿」

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