街道

ホームへ

★2008年1月18日(金)~20日(日)「旧・東海道、静岡駅~磐田駅」

2004年6月20日に日本橋を出立した「東海道中膝栗毛」 下記●印のアンダーライン上をクリックしてお読みください。

 ※「旧東海道」検索結果ページ

 
※吉田兄の 「旧東海道餐歩旅」のページ 
 ※吉田兄の 「旧街道餐歩」のページ 

 ●日本橋~大森町 2004年6月20日     ●大森町~神奈川新町 2004年7月10日 

 ●神奈川新町~戸塚  2004年9月12日   ●戸塚~茅ヶ崎 2004年10月10日 
 ●茅ヶ崎~二宮 2004年11月13日      ●二宮~箱根湯本 2004年12月25日 

 ●箱根東坂 2004年3月7日          ●箱根西坂~三島 2005年3月26日 
 ●三島~静岡 2007年5月17日~19日
    ●静岡~磐田 2008年1月18日~20日 
 
●磐田 ~岡崎 2008年4月18日~21日   
●岡崎~名古屋 2008年10月3日~5日 
 
●桑名~関 2008年10月24日~26日     ●関~京都 2008年11月14日~17日 


 ●東海道五十七次・大阪街道=京街道 2012年6月8日~10日

  ●東海道姫街道(東海道 追分宿~御油宿) 2012年3月13日~15日  
  ●美濃路(東海道 宮宿~中山道 垂井宿) 2013年10月11日~14日 

  ●伊勢街道、前半(東海道 日永の追分~高茶屋駅) 2011年4月6日~9日 
  ●伊勢街道、後半(高茶屋駅~伊勢神宮) 2011年7月8日~10日 


では、今回の道中記


 =第一日=(府中宿・丸子宿・岡部宿・藤枝宿。20.6km


 JR東海道
新幹線・静岡駅改札口に集合したのは、吉田・滝澤・清水・村谷 の東海道四人男。
 本日の天気予報は、東京と同様に、晴れ・最高気温7度と肌寒いそうだが、気合を入れて8時15分、3日間の行程を消化すべく旅立つ。

 引っ切り無しに行き交う通勤客とすれ違いながら、長い地下道を潜り抜けると、
江川町の交差点に出た。
 右手には、前回、三島から3日がかりで辿り着 いた西郷・山岡会見の史跡
松崎屋源兵衛宅跡)がある。慶応4年3月9日に江戸城の無血開城が決まった場所だが、詳しくはNHKの連続ドラマなどを参照ください。
 
 続いて
呉服町交差点へ。左手には旧安田生命ビル、静清信金本店ビルの陰に仄見える。
交差点を左折し、さらに伊勢丹前から
七間通りへ出た。

 この辺りが、江戸から44里26丁、京へ80里半12丁の地点、
府中宿の中心地だ。徳川家康の晩年の地とあって、広い通りが今でも残っている。
 幕府の威令を示す高札場があったため、札之辻町と呼ばれ、商家が軒を連ね大変な賑わいだったという。

 
人宿通りから新通りに入る。少し判りにくいが、交差点に手書きの案内書があって助かる。散歩中の男性からも教えてもらった。
左手に
秋葉神社があり、江戸・日本橋から173kmになる。
明後日通過する袋井宿の近くにある秋葉山は、火除けの神として江戸時代には深く信仰されていた名残だ。

 道が斜めに右折して、
安倍川会所跡がある公園に着き、本日最初の休憩とした。
直ぐ先の安倍川の渡しを管轄する役人の詰め所があった。
公園内には、 三代将軍家光の死に乗じて幕府転覆を企て密告により露見し、府中宿の旅籠で自害した
由比正雪の墓もある。
 橋の袂にある新幹線や東名ドライブインのお土産でお馴染みの安倍川餅の元祖・
石部屋(せきべや)は、時間が早いためかまだ開店前だった。

 
安倍川橋(日本橋から、以下同じ、174km)を渡る。安藤広重の浮世絵には、広い川幅を蓮台・担ぎ・手引きなど様々な方法で人足に運ばれている人々が描かれているが、今は、渇水期のためか実感が沸かなかった。

 
手越原交差点で、一旦国道1号線(以下R1と略す)と合流する。
直ぐ先の佐渡 交差点から旧道に入ると、万葉集にある佐渡の手児の歌碑を過ぎると、
丸子宿(まりこ)だ。
バスセンター(176km)、一里塚跡、本陣跡(177キロ)などが残り、往時を偲ばせる。
 
丸子橋のたもとには、芭蕉が「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」と詠んだ旅人に人気のとろろ汁の老舗 丁子屋があるが、10時前とあってまだ暖簾が出ていない。
 格好の休息地点だったため、十返舎一九など文人・歌人の碑が目立つ。
今も広い駐車場があり、休日には賑わっているようだ。

 
元宿山登り口(178km)から次第に坂道になってきた。
R1とほぼ平行に進み、
赤目谷公民館(179km)、ドライブイン東海道を過ぎ、歩道橋でR1を横断する。

 空は晴れ渡り、風は全くなく、歩いたので身体が火照る。

 
赤目谷西バス停(180km)を過ぎると、本日最大の難所・宇津ノ谷峠が近い。
峠手前の
道の駅でトイレ休憩し、掃除のお姉さまに昼食場所を尋ねると、この先の集落に美味しい蕎麦屋 があるという。
 この峠が広く知られるようになったのは、豊臣秀吉が小田原征伐に際して、20万の軍勢を通過させるため道を大幅に広げたため。
それでもなお広重の絵にある通り、由比の薩捶峠と並ぶ難所だったので、明治・大正・昭和・平成の夫々の時期に、ト ンネルが掘られている。
また、旧東海道と平行した
蔦の細道という険しい山道もあり、伊勢物語の主人公・在原業平が都落ちの途中詠んだ歌も残っている。

 集落に入ると、古い
宿場町が我らをお出迎え。
北条攻めの秀吉に縁起の良い話をして陣羽織を貰い、後に家康から茶碗を与えられたという祖先を持つ
羽織陣屋は拝観有料のため通過した。

 その直ぐ先を右折すると、お目当ての手打ち十割そば・ 「
蕎麦処 きしがみ」が、ちょうど開店したところだった。
時刻は11時、待望の昼食休憩だ。
店内は、広々としていて、天井が高く、窓から見える山並みが疲れを拭い去ってくれる絶好の環境が整っている。
掘りごたつで足を伸ばし、先ずは、蕎麦掻をツマミに、クロモジ入りの蕎麦焼酎を注文する。
水分が抜けきった身体の中に、アルコールが染み込んで行く。
締めは、当然 十割蕎麦だ。
冷たい派2名と暖かい派2名に分かれたが、更科風の色合いながら香りが高くて、 全員合格点を出した次第。
ボトルが無くなったのでみ輿をあげる。

 石段を登り、明治のトンネル方面の分岐を過ぎて、急な
登り坂を懸命に行く。
この道が参勤交代のルートだったため、大名街道と呼ばれたそうだが、お供の苦労が偲ばれる。
崖下に
椎茸栽培地がある地点が、日本橋から181kmになる。
 参勤交代の道を下りきったところで四阿があり、
蔦の細道入り口と合流し、休憩とする。

 182km地点の先で、
R1と合流、元禄13年に再建された坂下地蔵尊が、旅人の安全を今も見守っている。

 
宇津ノ谷峠道の駅(西側)の先から再び旧道に入る。
十国坂観音堂(184km)、西行の笠懸松を過ぎ、岡部宿に入る。
もう、難所は過ぎて、今夜の宿が近い。
 
 ここ、岡部の位置が、東に宇津ノ谷峠、西に大井川の難所を控えて、早くから宿場として発達し、東海道膝栗毛にも、「
豆腐なる おかべの宿に つきてげり 足にできたる 豆をつぶして」 と描かれている。

 
光泰寺(185km)は、聖徳太子が祀られている珍しいお寺だ。
狭い坂道の途中に、あの小野小町が橋の上で水面に映った自分の老いて旅に疲れた姿を見て嘆き悲しんだという
小野小町姿見の橋があったが、淋しく小さな流れとわれらの年代を重ね合わせてしまった。

 役場の先で、阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・阿しゅく如来・宝生如来の五智如来像を発見して、お参りした。
会話の不自由なお姫様を治したそうだが、我らには不要だった。
岡部宿松並木(186キロ)は、右側に
黒松が13本続き、背が高くて立派だった。

 
バイパスを越えて、朝比奈川(187km)、鬼島一里塚跡(188km)を快調に通過して、鐙ヶ淵の観音堂(190km)を横目に、R1を最短距離で横断して、藤枝宿に入った。
 右手に、静岡県内では唯一の成田山があったが、千葉・成田のご本尊に参拝済みの我らは先を急ぐ。
商店街に入り、ゴールは近い。

 蓮華寺商店街
を横断、千歳交差点(191km)を通過した 左手には、700年前に日蓮上人が京都比叡山からの帰途にお手植えされた久遠の松が、見事な枝振りを保つ大慶寺があり、本日の無事を感謝して参拝した。

 午後3時15分、本日の宿、
冨岡屋旅館に到着した。
静岡駅から7時間、21キロの行程だった。吉田が代表して宿帳を記入し、夫々部屋で旅装を解く。

 入浴は午後5時からなので、それまで幹事部屋で明日の打ち合わせを兼ねた慰労会を開く ことで衆議一決、缶ビール片手に活発な意見交換を行った。

 夕食後も余韻覚めやらず、十分に明日への鋭気を養い床に就いた。(村谷 記)

  

  

  

 =第二日=(島田宿・金谷宿・日坂宿・掛川宿。26.4km)

 いよいよ この3日間では最長距離歩きへの挑戦だが、4人とも足に不安はない。

 本日も快晴・無風、絶好の歩日和に恵まれて、神仏のご加護があることを確信し、元気よく歩き始めた。

 
瀬戸川橋を越えて直ぐ先には、江戸から50番目の志太・稲川一里塚(192km)地点だが、今は残っていない。
そういえば、昨日も4人皆で
一里塚跡を探したが見つからなかったが、道路拡幅工事などの影響かもしれない。

 
志太交差点を越えて直ぐ右側の建物の入り口に、まだ8時前なのに、中高年男性が数名、列を作っていた。バス停が、志太温泉入口となっていて、本日が土曜日だったことに気がつく。女性の姿は全く見かけない。

 
青木の五差路で、車が引っ切り無しに行き交うR1を斜めに横断する。
ここから数kmは、路が左右にうねっていて
旧道らしさが味わえる。また、松並木も所々に保存されていて、いかにも旧東海道らしい眺めだ。

 右手に
鏡池堂六地蔵尊(194km)が見えてきた。知証大師作の金色の本像は、33年毎のご開帳であり、めったに拝見できない。
我らは、路傍に安置された六体が一つの石に刻まれた石像に手を合わせて、延命長寿・家内安全などを欲張って祈願した。

 右側に丘の上を通る
古東海道、その先の左手には我々が歩いている旧東海道との分岐点・東海道追分を通過する。川べりの季節外れのコスモスが咲き揃っていた。

 かなり大きな敷地の延命地蔵尊の先に、
瀬戸の染飯茶屋跡(195km)がある。強飯をくちなしで染めて薄く小判型にして旅人に売ったという。
くちなしは足腰が強くなるそうで、昔から知恵者がいるのには感心させられる。

 直ぐ隣は、明治7年に開校した公立小学校・育生舎の跡だ。
造り酒屋「
喜久酔」を過ぎると、やがて上青島一里塚跡(196km)だ。
ここは、きちんと保存されていたので、写真を取った。

 
松並木が切れたところで、R1に合流した。

 
岸の信号(197km)を過ぎ、左手にJR東海道線・六合駅があったので、トイレ休憩とした。街歩きの場合には、トイレ探しは意外に苦労するものだ。階段を上がり、駅員の許可を貰い中に入って済ませた。
心ばかりのお礼に、改札口脇にある自販機で缶コーヒーを購入した。

 駅前の
阿知ヶ谷交差点R1を横断すると、直ぐに198km地点だ。一旦、R1と再合流、御仮屋交差点(199km)から旧道に入るとほっとする。

 日本橋から52番目の
島田宿一里塚跡(200km)から、町並みが賑やかになるが、目の前のジャスコが撤退していたり、「街道一の名物・鯛焼」が西側に移転していたりと町並の変容が激しいようだ。

 真新しい
静岡銀行前にある芭蕉の句碑は、真跡を写真模刻したものだという。
元禄7年に4日間、大井川で足止めされた時の容子が、「
さみだれの 雲吹きとおせ 大井川」に見てとれる。

 なお、その先の
島田信金の角には、有名な「するが路や はなたち花も 茶のにおい」の句碑が残っていて、当地との縁の深さが偲ばれる。

 道沿いに広大な境内がある
大井神社が見えたので、休憩を兼ねて立ち寄った。
大井川の度重なる氾濫に苦しんだ里人が創建したもので、今なお参拝客の足が途絶えることがない。
初孫誕生が真近い村谷が、特に念入りに安産の像に祈っていた。

 
大善寺(201km)も立派な構えだったが先を急ぐ。
左手に高い煙突がモクモクと煙を上げている
東海パルプルの工場(202km)が見えてきた。
吉原宿と同じ匂いが漂ってきて、銘酒「左冨士」を思い出す。

 
大井川の川べりに出た(203km)。1km近い川幅は、壮大な眺めであり、橋がなかった時代は、越すに越されなかったことが実感できる。
今でも夏場には、肩車と蓮台による川渡しが実演されているそうだ。当時の料金は、股通48文から脇通94文までの8段階で、それ以上深くなると人足の顔まで水に浸かっててしまうので川留めになったという。

 現代の我らは橋で渡ったが、それでも15分間を要し、その長さを体感した。橋を渡りきった地点(204km)から振返った風景も、山並みが浮かび上がっていてなかなか捨てがたい。

 堤防沿いに200mほど南下し、右折したところに
小公園があったので休憩にした。

 まもなく昼が近いので、電柱に広告が出ていた菜飯田楽の有名店・
よし善に行く。

 かわいい娘さんが申し訳なさそうに予約なしだと待たされますよというので、諦めて大井川鉄道・
新金谷駅に向かう。

 ちょうどSLが出たばかりで空いていた
記念館兼休憩所に入り、2個残っていたSL弁当やおにぎりを買い、畳敷きの休み処を独占して寛いだ。長い歩きには、靴を脱ぐのが効果的だ。
本日は長丁場なので、アル中?ぎみ?の1名以外はノンアルコールと自重する。

 大休憩の後、神輿を上げる。
清水橋(205km)の先には、山口本陣・佐塚本陣・柏屋本陣の跡が続く。
JR東海道線・金谷駅手前(206km)で、
金谷一里塚跡を左折し線路を潜る。
坂を登り、
国道473号線を横断すると、旧東海道石畳入り口だ。

 この
金谷峠の最も高い地点に、歌枕として名高い小夜(さや)の中山があることで知られる。
右手の
石畳茶屋の前の案内によれば、江戸時代にあった石畳を、平成になって町おこしのため住民が勤労奉仕して復元させたそうだ。430mほど登りつめる

 と、一旦
自動車道に出る(207km)。右手には、武田領の最前線基地として、馬場氏勝が築いた諏訪城跡が残り、牧の原台地が一望できる要害だったことがわかる。
 駐車場前にある製茶場は休みのため、工場見学とお茶の試飲はできなかった。

 
その左手から、700mほどの菊川坂の石畳の下りが始まる。結構きついが、一部自動車道と平行しているのでやれやれだ。
高麗橋の先が、間の宿・
菊川の里(208km)だ。いわゆる五十三次の中間になるので、宿泊や本格的な食事が提供できないため、その代替品として菜飯田楽が発達し、特に下菊川のおもだか屋は評判だったらしい。
正中の変で敗れて捕らえられ、鎌倉に送られる途中に詠んだ日野俊基の歌碑が残っている。 「
いにしへも かかるためしを菊川の おなじ流れに 身をやしづめん

 
四郡の辻を左折すると、箱根峠・鈴鹿峠と並ぶ東海道三大難所の一つ、小夜の中山に差し掛かる。火剣山への分岐から青木峠が始まる。雑木林に囲まれた急坂が、短い距離ながら足に効き、汗を掻かせる。茶畑が見えてきたらやや平らになる。
右手に瓦が山積みになっている地点で、たまらず休憩とした。
青い空に心地よい微風により癒されたので最後の登りに挑む。

 右手に小夜の中山を有名ならしめた阿佛尼
十六夜日記の歌碑(209km)が出現した。「雲かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ 有明の月」。流麗な言葉の並びが、今でも新鮮さを失っていない名歌だ。

 坂を登りきった右側には、山号を小夜中山という
久延寺があり立ち寄る。徳川家康公がお手植えされた五葉松は代替わりしていた。
掛川城主・山内一豊が家康公をもてなした茶亭跡や、広重が描いた夜泣石の伝説が残されている。

 滝澤&清水が中国伝来の名物
子育て飴扇屋の店先で堪能している間に、吉田&村谷は生涯二度目の難所越えに挑んだ西行法師の歌碑の撮影に余念がない。円筒型の巨大な建造物は他には珍しい。
23歳と69歳の年輪の違いを今改めて感じさせる秀歌だろう。「
年たけて また越ゆべしと おもいきや 命なりけり 小夜の中山
 
扇屋には103歳まで長生きした名物お婆さんがいたが、今はボランティアの主婦に代替わりしていた。

 しばらくは、緩やかな
下り道が続く。西行に刺激された芭蕉らの歌碑が次々に現れる。
右手の山に 杉の木で書かれた 巨大な、「
」 の字が段々と見えなくなる。
R1方面への分岐(210km)の先にも、馬頭観世音、妊婦の墓、涼み松、夜泣石跡と伝説の地が続く。

 いよいよ
の曲がりに差し掛かる。青木坂とは違って一度も平らな地点がなく、ひたすら急勾配を下るのみ。
登りでは高をくくっていた村谷は、西行法師は西から登ったということに思い当り、歌意を改めてかみ締めた次第。
昔の旅人が、急な坂道に差し掛かるこの付近で沓を履き替えて古い沓を木の枝に掛けて旅の安全を祈願したことから、
沓掛という地名が残っている。

 やっと山道を終えて、
R1を潜り、日坂宿に入った。安政3年建立の秋葉山常夜燈がお出迎え。

 家々には、屋号が書かれた木札が掛けられている。700mほどの町並みだが、大井川の川止めには大変に賑わったそうだ。

 
古宮橋(211km)で逆川を渡り、その先でR1に合流する。
事任(ことのまま)八幡宮(212km)という珍しい名の神社は、大同2年、坂上田村麻呂が東征の際に現在の場所に遷座され、願い事が思うままに叶う有難い言霊の社として、枕草子にも紹介されている。
特に急ぎの願い事がない我らは、入り口で一礼して先を急いだ。

 
八坂橋で、再び旧道に入り伊達方一里塚跡(213km)で、散歩中の老人男性から声を掛けられた。地元の歌人・石川依平の墓に参拝するよう熱心に勧められたが、信号を横断しなければならなかったので、先に進んだ。

 何やら売っている
白子観音もそのまま通過し、またR1と合流。歩道橋が多く、岩橋(214キロ)、中橋、溝橋、本村橋(215km)を過ぎて、如来堂の先から旧道に。
西山口村道標(216km)、葛川橋を越えると、新町七曲り(217km)に差し掛かる。城下町に容易に敵を進入させないよう、道がかぎ型にいくつも折れ曲がっているのが名前の由来だそうだ。

 直線道路に戻ると、
掛川の中心地になる。連雀橋を渡った先の右手にある掛川信金の造りは、いかにも城下町に相応しい。

 掛川城と逆方向に左折し、
駅前通を南下する道の両側には、思い思いに飾りつけられたイルミネーションが鮮やかだ。
 
 漸く、本日の宿、
ターミナルホテル掛川にゴールイン。
27キロ近くの長旅だった。

 外は既に夜の帳が降りかけていたので、早めの夕食と決め、チェックイン後直ぐにフロントに集合。

 隣接する
牛角に繰り込んだ。高カロリーの焼肉になるが、この日ばかりは長距離を歩いたことに免じて、飲み放題つきのコースを堪能した。
十分に元を取ったため、岩風呂大浴場に入りそこなった者も若干名居たようだった。(村谷 記)


  

  

  


 =第三日=(袋井宿・見附宿。18.2km)
 本日は、今回の旅の最終日。
磐田駅までの18km強を歩く予定だ。浜松宿は、さらに16km先なので次回のお楽しみとした。

 午後から天候が崩れるかもしれないという朝の予報を受けて、早立ちとした。
幸い、250円できちんとした朝弁当が食べられたので、感謝して出かける。

 先ずは、
掛川城へ。静岡県西部(遠江)を支配する今川氏の拠点として、築城されたものだが、初めて天守閣を作った山内一豊で有名だ。平成5年に古記録を元に木造により復元された、風格がある城だ。入場は9時からなので、外回りを散策して、旧東海道に戻った。

 
仲町交差点脇の清水銀行の壁には、名馬に乗った山内一豊と千代夫人の浮彫刻があり、賢婦人揃い?のわれらは、内助の功を改めて確認した次第。

  その名も
円満寺(217km)の山門は、明治5年に廃城となった物を買い受け、この場所に移設したが、後ろの近代的な建物と対照的で可笑しかった。

 道が右手に湾曲した辺りに、
十九首塚があり立ち寄った。天慶の乱に敗れた平将門とその家臣の19名の首級を持ち、藤原秀郷がこの宿まで来て、勅使の首実検を済ませ埋葬した場所だという。現在の地名も十九首町となっていて、死者を丁重に弔うという日本的な美学の名残だと感じた。

 旧道に戻り、
逆川橋(218km)を渡る。掛川城が朝日に輝いていた。

 一路、
R1を直進し、大池橋を渡る。この先9里の道程で、火除けの神として信仰された秋葉山へ通じている。

 天龍浜名湖鉄道・
西掛川駅を左に見て、鉄橋(219km)を潜る。左右には、白山神社、宗心寺、津島神社、蓮祐が続く。
信心深い吉田は、門前に書かれた夫々のお言葉を丹念に写していた。

 
細田公民館(220km)、曾我鶴造酒屋、高松神社を過ぎて、R1および東名高速を潜り抜ける。221km地点を順調に通過した。

 松林の先にある
垂木川善光寺橋で越える。
右手に、
仲道寺・善光寺が見えてきたので本日最初の休憩とする。
元は、伝教大師が彫刻した阿弥陀仏を安置した善光寺で、その後享保年間に市内高御所の正法寺から和尚を招き、境内に堂を建立し夏涼山仲道寺と号したそうだ。
東海道のちょうど真ん中になるため、その名をつけたという。

 この先は
松並木が断続的に続く上に、石碑も多い。
一旦、
R1と合流、同心橋(222km)で原野谷川を渡り、また旧道へ入る。

 
松並木の右手に富士浅間宮赤鳥居(223km)が残り、江戸時代には木々の間から社殿が見渡せたという。

 江戸から丁度六十里になる
久津部一里塚(224km)は、昭和47年に袋井東小学校創立100周年を記念して復元されたものだ。

 真言宗の古刹・
油山寺への分岐(225km)を過ぎ、R1を左折し、袋井市内に入る。右側に瓦屋根で彫刻がされた常夜灯があった。

 
市役所前を左折し、天橋を渡った小さな公園に、「日本一小さな歩く道の駅・東海道どまん中茶屋」があり、休憩とする。
お茶をサービスしてくれたので、「静岡茶」と訊いたら、袋井茶ですとの答えが返ってきた。本日の行程は磐田駅までだというと、時間が早いので天竜川まで頑張るよう勧められた。
園内には、広重の「袋井・出茶屋の図」が掲げられている。

 
白髭神社(226km)の先に、東本陣跡が残る。奥行き31間、間口13間
半、建坪288坪と立派なもので、入り口の見取り図にもその壮大さが窺われた。

 左にJR東海道線・袋井駅に通じる交差点の左側に、立派な休憩設備つきの
袋井宿場公園がある。
少し先の
御幸橋の袂にも同様に立派な公園が続き、袋井市の意気込みが窺える。

 
津島神社(227km)の先でR1と合流、一旦旧道に入ったところに木原一里塚跡(228km)が出てきたこの辺り一帯は、武田信玄と徳川家康の偵察隊が衝突した古戦場木原畷で、石碑の後ろに徳川家康公腰掛石が残っていたので、吉田が当時を振り返って着座した。

 
須賀神社(229km)境内にあるの大楠は、樹齢500年で樹高9m余りのた
 め目立つ存在だった。

 そろそろ昼近くになったので、
太田川の堤防を越えた先にあるはずの食事処・なぐらかあさひ食堂にするつもりだったが、両方とも閉鎖されていて、やむなく先へ進むことにする。

 江戸から平成まで7本の道が複雑に入り組んだ
三ヶ野七つ道(230km)に差し掛かる。
結構な
急坂だったが、こんもりしたに囲まれた夏涼しげな場所だ。

 坂を登り詰めると一転して新興住宅街だ。当然ながら食堂の影も無く、空腹をかかえて緩やかな
坂道を下る。

 服部病院の交差点で、左手にコンビニを発見したが、右手に並行する
R1際に、ラーメン店・車侶夢(シャロム)があったので、やれやれと入店した。
12時過ぎで混み合っていたが、丁度座敷が空いていたので靴を脱いで上がりこむ。
 先ずはビールだ。餃子も旨い。締めは、具沢山の山海ラーメン。すっかり元気を回復して再び
旧道に戻る。

 
磐田学園(231km)、見附の名木を過ぎてまたR1に合流し、さらに旧道
 入った右側の高台に、
遠州鈴ヶ森刑場跡(232km)があった。

 
見附宿木戸跡からが、昔の宿場に入る。本陣跡の交差点で反対側の歩道を見ると、我らと同様に街歩きを楽しむ一団を発見した。今日は日曜日だった。
明治風の建物・
旧見付学校跡のそばに、真新しい いこい茶屋 を発見して入場する。
 ボランティアの中年夫人とお茶をいただきながら四方山話を交わす。地元の大手ベアリングメーカー等の寄付でできたそうだが、広々してよい休憩所だった。

 直進すると
姫街道だが、われらは本街道を岩田駅方面に右折する。
加茂川交差点は歩道橋を渡った。

 磐田郵便局
そばの公衆トイレは、人が入ると音楽が流れるというので試してみたが間違いなかった。

 奈良時代の建立とされる
府八幡宮は、広大な敷地で遠江国司の威光が偲ばれる。
 
NTT(233km)、磐田市役所を過ぎると長いジュビロード商店街だ。
 
 1時半過ぎ、
JR磐田駅(234km)にゴールイン。18km強の第三日の旅を終えた。お疲れ様。

 戻りはいつもの通り、 こだま で飲みながらのパターンでした。

  

  

 
                               このページのトップに戻る
清水兄の作品を発表します(*^_^*)

 ◆
丸子(まりこ)宿はとろろ汁、丁字屋は開店前でした。


  
広重が 描いた丁字屋 今もあり

 ◆宇津之谷峠は味な登り道、途中の蕎麦屋が良かった!

  
宇津之谷の 十割そばで 元気出し


 ◆
藤枝の長い商店街がシャッター通りでした。

  
サッカー魂 商店街に 吹き込もう

 ◆大井川の鉄橋はまっすぐ1キロ、歩いて15分掛かりました。

 
  名にし負う 大井の橋は 15分

 ◆
金谷峠・菊川坂は石畳、下り終えれば小夜中山峠、きつい!
  
名はやさし 小夜の中山 足重く

 ◆ど真ん中の宿場は27次・袋井宿、いろいろ工夫しています。
 
   どまん中 袋井宿は 町おこし

 ◆磐田市(見付宿)で今回は終了

 
  富士山を 見つけて名にす 見付宿


            このページのトップに戻る

                   前のページへ  次のページへ 
.
.
.
.