★2011年2月17日(木)〜20日(日)「中山道、武佐宿〜東海道、京都」
<2月17日(木)中山道・武佐宿〜野洲駅まで(12キロ)>
いよいよ旧中山道歩きも最終行程へ。
東京駅9時33分発ひかり号に揃って乗車した清水・西・村谷の3名は、米原で東海道線に乗り換えて近江八幡駅に降り立った。幸いまだ雨が降っておらず、駅近くの御食事処・みつわに入り、鍋焼きうどんや味噌煮込みで腹ごしらえ。
駅南口からタクシーで、近江鉄道線・武佐駅に移動し、午後1時過ぎに薄日が差してきた中で勇躍出発する。
右手の愛宕神社で道中無事を祈願する。国道8号線(以下R8)に合流し、左手にめんマルナカ・TCM/ITOKIの敷地を見ながら一旦旧道に入る。
再びR8と合流する手前に、法然上人の直弟子・住連坊の首洗い池が出現。布教活動に熱心で後鳥羽上皇の女官2名を尼にしてしまった為怒りをかって処刑されたそうだが、信教の自由がない時代を想起させる。
国指定文化財になっている馬渕八幡宮に参拝する。社殿の手前に立派な舞台が設置されているのが、南近江の神社の特徴だ。
旧道に入ると田圃が続く。怪しげなホテルが両側に夫々1軒ずつ現れる。
日野川に差し掛かる。昔は2隻の船を並べて渡ったが、今は土手道を迂回せざるを得ない。
またR8と合流すると程なく竜王町に入る。かっては武佐と守山の間の宿だった鏡宿。地名の由来の鏡神社には牛若丸が東北に下向する際、当地に宿泊し元服したという伝説を裏付ける井戸や品物が残るという。
またも旧道に入るが、車の流れが相変わらず多くて歩道がない為慎重に進む。
続いて道路の上を川が流れている中山道初の天井川・新家棟川に着いたが、最近の工事で通常の川と同じく橋を渡るように改修されていて拍子抜け。
野洲市に入ると左手に国史跡の桜生(さくらばさま)史跡公園があり、看板を見ていると建物から一人の男性が現れてパンフレットをいただき、案内までしていただいた。時間の関係で、甲山古墳だけ拝見したが、中に安置されている石棺が九州・熊本産と聞いて当時の輸送力を見直しました。
街道に復帰し新幹線高架手前にある曙酒造で今晩の寝酒を買い求めたかったが、あいにく開いておらず、街道と分かれて野洲駅方面に転進し、途中の酒屋で同酒造の10年古酒などを調達した。
午後4時半、駅の反対側にあるセントラルホテル野洲にゴールイン。
休憩・身支度整備の後、午後5時半、すぐそばのごちそう酒房・善に入店。
関西大学1年生だという美形のアルバイト嬢のお勧めに従い、山海の珍味?を食してご帰館し、10年古酒や芋焼酎で初日を締めました。
<2月18日(金)野洲市〜守山宿〜草津宿〜勢田唐橋+石山寺(20キロ)>
昨夜、居酒屋からの帰りにパラついていた雨が、夜中には本降りだったらしく、まだ歩道が濡れている2日目の朝、ホテルの朝食を済ませて午前8時に玄関を出ると薄日が差していた。
新幹線高架下から、旧道に入る。
朝鮮通信使が通行した朝鮮人街道との分岐点・外和木の標のまん前が野洲小学校。丁度登校時間で、用務員らしい中高年女性から、「早い時間から中山道歩き、ご苦労様」との声がかかった。
珍しい大小2体の石像がならぶ背比べ地蔵に本日の無事と天候をお願いする。
JR東海道線の高架を抜けた先には芭蕉句碑「野洲川や 身は安からぬ さらし臼」がある十輪院堂があったが、鍵がかかっていて見られなかった。
野洲川にかかる野洲川橋の上で振り返ると近江富士・三上山(標高432m)の美しいシルエットが浮かび上がっていた。
※近江富士・三上山へ登ったときのページへ ⇒ http://tak-oh.sakura.ne.jp/04.09.14.OOMIFUJI.htm
川を渡ると守山宿。かなり道幅が狭くなり、車は一方通行になる。しかし時間が早いためか、ひっきりなしに往来するので歩きにくいが贅沢はいえない。
左手に滋賀県で唯一塚が残っている今宿の一里塚が出現する。日本橋から128番目で残りはあと一つとなった。
守山市“閻魔堂町”という珍しい地名の由来である閻魔堂が右手にあり、トイレが設置されているのに鍵がかかっていてここも入れない。
ここより栗東町の表示の先にある大宝神社で休憩する。ここも栗東市“綣(へそ)”という珍しい地名だが、重文の木造狛犬と隣の公園の芭蕉句碑「へそ村の 麦まだ青し 春のくれ」を鑑賞した。
草津市に入り、葉山川を渡ると雨が振り出したので傘を広げると間もなく小止みになった。JR線を潜り抜けて住宅街を進むと、左手にこれまた立派な舞台つきの国指定文化財・伊砂砂神社。この付近には中山道最後の大路井の一里塚があった筈だが、正確な場所は不明とのこと。
草津駅を右手に見て商店街を進むと、いよいよ天井川(草津川)が現れ、通過した地点が東海道との追分だった。
東海道歩きで、吉田・滝澤・清水の三兄と眺めた常夜灯に再びまみえることが出来ました。
※東海道、関宿〜京都を歩いた時のページへ
先ずは天井川の土手に上がり、ほとんど水が流れていない川面を鑑賞。
続いて今回の訪問の為にとっておいた草津宿本陣に入る(入場料200円)。
日本最大級の本陣に相応しく、今にも皇女和宮がお出ましになりそうな気配がした。
館内は撮影禁止なので、玄関まで係りのお嬢さんにシャッターを押していただく。
一昨年の3月に出来た休憩処・くさつ夢本陣で一息入れる。熱いお茶の自販機が嬉しい。無料のパンフレットや歩行地図も整備されていた。
御輿をあげてR1を横断する。時刻は11時30分。丁度ハンバーガーなどアメリカ食品が売り物の店が開いたので入店。アメリカンビールで中山道完歩を祝し、昼食を摂った。
これまたきれい整備された上北池公園を通過。本日のゴール・勢田唐橋までは12キロ程度だ。
全国に6箇所あるという玉川のひとつ野路の玉川跡を通過。
次の弁天池も入場できないので先へ進む。
一里山の地名が残る旧東海道120番目の月の輪一里塚跡は、碑のみ。
瀬田小学校の先で左手に90度曲がり住宅街を進むが、今回も1本早く右折してしまった。
少し迷ったものの、幸い西が道路標示を発見し無事に旧道に復して、午後2時過ぎに瀬田唐橋に到着して本日の行程を終了した。
2008年11月16日の東海道歩きと同じ宿、滋賀県青年会館「アーブ滋賀」に入り、部屋に荷物を置き、石山寺へ向かう。
すっきり青空になった瀬田川沿いの坂道を上り、入場料500円を支払い石段を上がる。
聖武天皇勅願により開基された歴史に相応しく、紫式部が源氏物語を執筆した間や、弘法大師や快慶作の仏像、芭蕉庵など見るべきものに不足はない。
丁度紅梅が咲き始めたところで、月見亭から見下ろした瀬田川の眺めも格物だった。
帰りは京阪電車で石山駅まで出て、日本海庄屋をのぞくと店長が30分開店時間を繰り上げてくれたのも、お参りのお陰だ。
日本海の魚や近江牛など気持ちよく注文し、程よい時間に切り上げてホテルに戻り、大浴場で一日の汗を洗い流し、焼酎などで明日の鋭気を養いました。
<2月19日(土)瀬田唐橋〜京都三条大橋(16キロ)+市内散歩>
快晴・温暖な朝、午前8時にスタートする。川面では男8人・女4人が夫々ボートの練習中。
京阪電車と同じ方向に進み石山駅を渡る。
NECがルネサスに変わった長い工場の塀沿いに進む。
膳所神社で本日の無事を祈願する。
次から次へとお寺や神社がひっきりなしに現れる。
前回は入場できなかった義仲寺へ200円支払い中へ進む。芭蕉直筆の句碑「行く春を あふみの人と おしみける」は、流れるような筆跡だった。
木曾義仲と芭蕉の墓が、まるで兄弟のように並んでいた。
大津一里塚跡は不明。
露国皇太子遭難地碑を通過。圧力に屈せず幾zん賭して判決を下した裁判官の勇気に、現在の上司と思い比べながら歩く。
(東近江路の)北国街道との分岐点・札の辻で左折。逢坂の関も近い。
関蝉丸神社・下社で休憩。暑いくらいの陽気になってきた。
弘法大師堂の先に逢坂山関址の碑が出てきた。トイレや休憩場所が整備されて、ここも勝手とは様変わり。歩く人が増えたからだろう。
京阪・大谷駅の先の歩道橋を渡り、どんどん坂道を下ってゆく。
名神高速道路を潜り、伏見との追分から更に下って漸く京都市内に入った。
左手に蕎麦処を発見し、早めの昼食とする。生ビールで水分を補給した後、夜との重複を避けたメニューを各々注文した。
山科駅前、安祥寺川、安政13年建立の愛宕常夜灯を通過し三条通に出る。
天智天皇稜は今回も入り口で失礼し、道路を横断して今回も親切な老人に教わって田畑の中の細い路を上る。
クネクネした山道を下りきると、広大な蹴上浄水場と都ホテルが続く。
土曜日の好天で大勢の人とすれ違いながら三条通を下って、午後1時半、三条大橋にゴールインしました。
やじきた像の前で記念撮影し、道の反対にあるスターバックスに入店し、熱いコーヒーで目標達成を祝いあった。
今夜の宿のチェックインが午後4時なので、地元通の清水の案内で、西と村谷が知らない場所を案内してもらう。
先ずは河原町御池の本能寺へ。今が旬とあって織田信長の特別展が開催中。
寺町通りから新京極通りを南下、錦市場をちらっと覗き、錦天満宮に参拝。
見事に着物を着こなしたモデルらしい女性が撮影中。
四条大橋を渡り、南座の先から白川南通りに沿って花見小路へ。舞妓さんと何人もすれ違うがまだ時間が早く濃い化粧ではなかった。
今晩の店を確認してから、建仁寺を回りこんで石塀小路を抜け、三年坂、五条坂を通過し、五条大橋を渡って、今夜の宿・枳穀荘に着いた。
岩風呂で汗を洗い流した後、再び移動し、祇園甲部歌舞練場近くの き ら ら に入店し、おばんざいを皮切りにヒレ酒などで京都料理を満喫しました。
翌日、帰京時の新幹線の車中で、伊勢街道や塩の道踏破を目指し調査することで、一致しました。
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※清水が「中山道を歩き終えました」を書きました。⇒企業OBペンクラブの「800字文学館 中山道を歩き終えました」のページへ
※吉田さんの「旧街道餐歩」へ (⇒「中山道餐歩記」へ)
村谷たちの「中山道歩き」、前回のページへ
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