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 中山道・姫街道(信濃追分〜藤岡宿)
    …日本橋から高崎宿までは、同行の吉田さんのページです。


<11月7日(土)高崎宿〜松井田宿>

 午前9時、JR高崎駅2階改札口に、久々の街道歩きに参集したのは、吉田・西・清水・村谷の4名。
  ホテルメトロポリタン側の西口1Fに降り、ロータリーから前回の到着点・
新町(あらまち)交差点に着く。
空は真っ青で暖かく、絶好すぎるほどの散歩日和だ。

 交差点西側にぽつんと残る小さな土蔵造りの社・
諏訪神社に参拝する。隣に立派な神輿の収納庫がある。朝の散歩に来たらしい老人男性がその謂れを説明してくれたが、スタートしたばかりなので先へ急ぐ。

 街道からは外れるが、東門などが残る
高崎城跡を訪ねる。歩兵第15連隊の記念碑がある高崎公園になっている。
 連雀町の交差点に戻り、右手にある
大信寺へ参拝。三代家光将軍の弟・忠長の墓がある。下の方が出来が良くて親に可愛がられるのは昔からか?と話題になる。

 
本町3丁目から旧道になる。
明治天皇が通過されたという
君が代橋は、古い橋脚が一部残っていた。烏川に架かる今の橋の上からは、昭和11年に完成した高さ42mの高崎観音が見える(村谷は前回訪問済み)。
 右手には、本日一日中お付き合いする妙義山が見える。
旧中山道を示す標識に従って、これから長い付き合いになるはずの
国道18号を横断し、八坂神社付近から再び旧道へ入る。

 上豊岡信号で再び国道と合流し、土手沿いの道に上がると川風が心地よい。
片側だけ残る群馬県唯一の
藤塚一里塚を通過。
朱色の大きな鳥居のところで国道と合流する。八幡宮は700mも先なので立ち寄りは省略して先へ。八幡太郎義家が奉納した甲冑があるらしい。

 早めの昼食をラーメン屋でとる。ドライバー向けのメニューらしく、値段の割にはボリュームたっぷりでこってりスープだった。
 
 安中市の標識が出てきて
板鼻宿に入る。信越本線の踏切を越えると昔の宿場跡で、公民館の裏側に皇女和宮が宿泊された木嶋本陣跡の資料館がある。
左手に
古久家旅館があり、想像以上に立派な建物だ。
右手に鷹巣城跡の高台を見ながら碓氷川を渡ると左手にJR線・安中駅。

 久芳橋で再び碓氷川を渡るといよいよ
安中宿入り。
本陣跡は郵便局で石碑と案内板が立っていた。
伝馬町信号を右折して
旧碓氷郡役所跡を見学する(入場無料)。豊富なパンフレットや展示物があり、ボランティアの老人男女が親切に説明してくれた上に、かわいらしい手製の人形と爪楊枝セットをプレゼントしていただく。
村谷は、別室に展示されていた四国八十八箇所+百観音霊場参拝記念に製作した大きな瓢箪に目が移る。

 隣接する
安中教会を外側から眺めて、再び旧道へ戻ったが脇本陣跡などが見当たらず再び坂を上り返して武家屋敷を外から見学(市外者は有料)。

 今度は同志社大学創立者である
新島襄旧宅へ寄り道する。見事な庭園を見ながら縁側で一休み。ここにもボランティアの男性がいて、丁寧に説明をしていただく。広い駐車場があるが、今日はがら空きだった。

 今は少ししか残っていないが、かっては7百本以上あったという杉並木を通過した。国道を越えた原市の方がやや見ごたえがあった。
 原市集落には
茶屋本陣跡など立派な門構えのまさに邸宅が続く。
国道に合流した地点に常夜燈があり、かっての妙義道との分岐点だが、今は通行不能らしい。

 まもなく松井田町(今は安中市)。かっての
松井田宿は規模こそ大きくなかったものの、妙義山詣での人々で賑わい、隣の安中宿が城下町で飯盛り女が置けなかったため、対照的に人気があったという。
久々にコンビニを発見。
夕方の気配が漂ってきて、国道と分かれて県道33号線に入る。下町信号で、一旦中山道と分かれて今夜の宿に向かう。坂を下り橋に差し掛かるとジョギング中の男性が立ち止まってくれて、
松井田駅への近道を教えてくれた。

 急階段を登り、何もない駅の歩道橋を越えて、ほどなく
妙角旅館に到着したのは午後5時前だった。
宿泊客は我ら4名だけだったので、夫々個室の和室を用意してくれてほっとする。
順番に入浴し、一番広い部屋に集合し、食卓を囲む。
先ずはビンビールで乾杯。旨い。
3人の子供とその母および義理の妹が、次々と料理を運んでくれたので、焼酎を追加したところ、町まで買いに行ってくれた。清水が先ほど頂戴した人形を三女にあげて喜ばれた。母がエレクトーンを弾いてくれて少し清らかな気持ちになってから、就寝した。


<10月8日(日)松井田宿〜軽井沢宿>
 くっきりと妙義山が浮かび上がった好天気の中、午前6時半に部屋出しの朝食を摂る。お櫃にたっぷりの新米は昨夜と同じ。
豊富なおかずに誘われて夫々常の倍近く?のお替りをする。
日曜日朝にも拘わらず、家族(ご主人は?)総出で見送られていざ出発。昨日の分岐点・
下町交差点から先ずは街道沿いに松井田宿を散策する。
妙義山登山口の古い看板が残るかんべやの先から古い家並みが続く。

 町外れには日光東照宮に似た権現造りの
松井田八幡宮があり、本日の無事を祈った。
本日も快晴・微風の好天気で、昨日の疲れも見せず一同好調な足取りだ。
 
西松井田駅入り口の先から信越本線と並行して進む。そこに朝からジョギング中の男性が通りかかり、昨夕の人でお互いにびっくり。
安中名物の安政遠足(あんせいとうあし)というマラソンの練習だという。江戸時代、当時の安中藩が碓氷峠の県境まで藩士による駆け足を奨励し、今も行われている行事だ。われらのコースとほとんど同じ。

 第十中山道踏切で、珍しく遮断機が下りていた。列車が通過しお互いに新幹線開通前の経験を思い出す。
 国指定の史跡になっている
茶屋本陣に立ち寄ったが、時間が早く豪華な建物と庭園を外から見学した。
 榎木踏切からは急な登り坂になる。行程が進むにつれて妙義山の形が変わっていくのが面白い。

 踏み切りを2度越えるとまもなく
横川駅。
日曜午前中ということで、大勢のハイカーが屯している。
峠の釜飯・
おぎのや本店とその前のテントや駅売店が、大勢の中高年男女で賑わっている。
 西が昼食用に懐かしの釜飯を買い込み背中のザックに収納したが、吉田・清水・村谷の3名は碓氷峠越えに備えて、その先の坂本宿のコンビニで弁当を仕入れた。

 
碓氷の関所跡は、箱根と同格ながら想像以上にこじんまりしていた。
 新幹線開通で廃線になった跡は、遊歩道となっていて、起点にはあのアプトが少しだけ残っている。

 
碓氷峠鉄道文化村の横からは急な坂道だ。「スピード注意」や「チェーン着脱所」の表示があり、冬場の厳しさが想像される。
 短い薬師坂を登ると国道に合流、上信越道を潜ると
坂本宿に入る。
両側の家々には夫々昔の屋号が板に書かれていて、わかりやすい。
この付近の標高は500mほどなので、最高地点まで700mは登ることになる。
多くの女郎を抱えて繁盛したという2kmほどの宿場の町外れにある八幡宮には芭蕉句碑があり、その句、
 「ひとつ脱いで うしろにおひぬ 衣かな」と峠越えの覚悟が窺われる。

 一旦国道と別れて、草ぼうぼうの急坂を上り、再び合流した地点が
中山道口のバス停兼休憩所だ。
いよいよ、
碓氷峠越えが始まる。

 峠の頂上・
熊野神社(標高1,200m)までの旧道は緩やかながら距離が5.5kmあるので、何度も休み休み行くことにした。
 最初の目標・覗(のぞき)で昼食休憩と決めて山登り開始。横川関所の出先である
堂峰番所跡付近に始まる刎ね石坂は、足元にも石がごろごろしていて、峠一番の難所に相応しいが、まだ出足がついていたので何とかクリアーし、見晴らしの良い空き地に出たので、荷物を軽くするため昼食とした。

 峠の釜飯はじめ結構な量だったが、一同無事に平らげる。
直ぐに坂本宿が眼下に広がる
(800m)に到着、山場は越えた。弘法の井戸があり、その足跡の広さに感心する。
 道の随所に、安政2年(1855)に安中藩主板倉勝明が心身鍛錬のため始めた「安政遠足」の看板が出てくる。

 
碓氷関所跡で休憩中に太った外人男女に追いつかれたが、先へ進む。
 
栗が原(900m)を通過。明治天皇が明治11年に北陸行幸の際に完成した巡幸道と合流する。
寛文年間(1661−73)には13軒の民家があり、明治天皇巡幸時に山中小学校に児童が26名もいたという
山中村茶屋跡(1,000m)を通過する。

 
陣場が原分岐で皇女和宮道&明治天皇巡幸道と分かれて、我らは本当の旧道へ転進。
草叢を掻き分け、谷川(小川)を越えて斜面を上り詰めた辺りが碓氷川の源流で、長野県と群馬県の県境かつ分水嶺だった。

 標高1,200mの
熊野神社にゴールイン。道中無事のお礼にお賽銭を弾んだ。
ここは、安政遠足のゴール(折り返し地点)でもある。
 坂を下ると
見晴らし茶屋。クエン酸の効いた飲み物で、甘い団子などを食す。甘露、甘露。

 10数名の外人グループが入ってきたのを汐に外に出る。
この先の旧街道は寸断されているので、4kmのウオーキングコースを下ることとした。
適度な傾斜、落ち葉でふわふわの地面、爽やかな谷川に今盛りの紅葉が加わり、嘘のように快調なペースで1時間、
旧軽井沢奥の別荘地に降り立った。

 舗装道路を下って、
旧軽銀座に着くともう夕方の4時を回っていたのに、新宿並の人出。
これも1,000円の高速料金とアウトレットモールのお陰らしいと、浮いた服装の我らは駅に向かう。

 午後5時、本日の宿舎、
アパホテル軽井沢駅前にゴールイン。
シャワーを浴びて碓氷峠の汗を流し落としてから、再び駅前に戻って
和食&居酒屋・関所茶屋へ入店。
ホテルでもらった生ビール1杯引換券を使い乾杯、本日の労苦を称えあう。
その後はお定まりの焼酎で明日の英気を養ってから帰館した。


<11月9日(月)軽井沢宿〜岩村田宿・相生の松>
 午前7時、朝食バイキング開始。昨朝に引き続き、常に倍する?ボリュームを摂った我らは8時前にスタートする。
旧軽井沢の
聖パウロ教会の分岐点まで2km戻ると、旧中仙道がお待ちかね。

 本日のお供は浅間山。すっきりと晴れ上がった空に雄雄しく聳えている。
先ずは別荘地を縦貫する車道歩きだが、昨夕の喧騒とは打って変わって車もほとんど通らない。

 直ぐ右手には、離山(1,256m)への登山口があり、村谷はまだ現役だった数年前の夏に汗をかきかき登ったことを思い出す。
皇女和宮下向の際には、縁起が悪いので名前を改めたそうだが定着しなかったようだ。
雑木林が続く道を、
雲場池脇も通過。東部小学校・軽井沢高校を過ぎて、離山バス停先から しなの鉄道&長野新幹線と並行して進む。

 
軽井沢民族資料館横、市村資料館脇を通過し、軽井沢中学校信号を左折して、踏み切りを渡って旧道に入る。
浅間山の景色が刻々と変わっていく。

 湯川を渡り、
中軽井沢駅脇の宮之前一里塚をみてから国道に戻り長倉神社へ入る。
長谷川伸原作の
沓掛時次郎碑はなかなか見つからなかったが、吉田が発見。
ここからは国道と度々合流はするものの、基本的には旧道歩きになり快適だ。
直角に曲がった松の木や、一箇所に集められた道祖神・馬頭観音などを眺めながら歩を進める。また、浅間山の形が変わって見える。なかなか裏側は見られない。

 右手に
遠近宮があり、伊勢物語の在原業平の歌が残っていた。休憩中に神社を清掃していた地元の老人がきて、この先は下りばっかりだと励ましてくれた。
 
軽井沢西部小学校があり、使われすぎと意見が一致する。

 
追分宿に入った。日本橋から40番目の追分一里塚付近の国道は標高1,003mと表示されていた。
この宿も飯盛り女が大勢いたらしい。
 
浅間神社に、「ふき飛す 石も浅間の 野分かな」の句碑がある。ここでは流石に「あさまじんじゃ」と詠む。
  
 
昇進川という目出度い名前の川を小ぶりな昇進橋で渡る。年金暮らしにつき、もう今更昇進は、と一同一致した。

 
追分本陣跡が、堀辰雄記念館になっていて、目の前が油屋旅館
北国街道との分去れ道標群から再び旧道へ。

 国道脇で純手打ち
蕎麦・ほうとう「きこり」を見つけて入店する。造作に引けをとらないおいしい蕎麦に、西提案の蕎麦饅頭がぴったり。満足して店を出ると、態々高崎から車で来たという中年夫婦連れに遭った。

 緩やかな下り坂を快調に飛ばす。
西軽井沢病院先で薬師堂前を通過、どんどん下り御代田一里塚を通過し、御代田駅脇を地下道で潜り抜け龍神の杜公園で一息入れる。

 浅間山の形がまた随分変わった。
塩名田・追分の表示距離がどんどん変わり、宝珠院先からは
小田井宿、咬月原、鵜縄沢一里塚を快調に通過し、岩村田宿に入る。

 相生町交差点を右折し、線路を越えて、浅間総合病院先の
相生の松にゴールイン。
佐久平駅から帰途に着きました。

 ※吉田さんの「旧街道餐歩」へ(⇒「中山道餐歩記」へ、日本橋〜岩村田宿のレポートはこちらでお読みください)

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街道

★2009年11月7日(土)〜9(月) 「中山道、高崎宿〜岩村田宿・相生の松」

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