<9月9日(金)中津川宿〜大井宿>
2ヶ月ぶりにJR中央西線・中津川駅に集合した清水・西・村谷の3名。
東海道新幹線で名古屋駅経由し、快速電車で到着したが、改札口までのホームで、地元の男性からいただいたアドバイスに従って駅前の観光案内所で木曽路のガイドブックを入手した。
恵那山を後ろに見て、残暑が厳しい駅前ロータリーから、旧中山道に復帰。
先ずは街道沿いの老舗「すや」で江戸末期からの名物「栗きんとん」を購入する(6個入りで1,365円)
直ぐ先にあるお休み処「往来庭」で食したが、文豪・吉川英治の言にあるように、まったく山栗の味そのままだった。残念ながら夏場の消費期限が2日間のため、お土産の購入は見送った。
枡形の宿場道を進み、宿の名前の中津川を通過するともう宿はずれ。
午後1時の出発のため、空からの熱気がすさまじくなかなか足が進まない。
それでも本日の約12キロの行程はほとんど旧道なので、車の往来が少ない。
本日最初の上宿の一里塚を通過、あと三つ?
次第に上り坂になる。
中津川インター入り口付近からは、JR中央西線としばらく並行して進む。
眼前に姿が富士山に良く似たきれいな山を発見、道端の畑に居た男性から笠置山と教えてもらう。
人間の死後の6つの行く先を示す?という六地蔵は、常夜燈に彫られていて珍しい。
本日二つ目の三ツ家の一里塚跡を通過する。ここまでの二つの一里塚は、ほぼ片側しかなかったが、この後は両側とも残っていたのが今回の特徴だった。
坂本立場跡の直ぐ先に尾洲白木番所跡があった。木曽を所有していた尾張藩が、特産品の檜製品の持ち出しを厳重にチェックしたらしい。
随所にある明治天皇御休所は、明治10年代初期のこととはいいながら、大変な行程だったろうと推測される。
岡瀬沢集落の外れが甚平坂、いよいよ汗だくだ。安藤広重の「大井宿」石碑があるベンチで休憩。先着の男子高校生が場所を譲ってくれた。
西が持参の乾した梅干と水で元気を取り戻して、三つ目の関戸一里塚を通過。
中央高速道路を跨ぎ越えて、菅原神社へ参拝する。今回の中山道に沿った寺社が街道筋から遠いため、本日初めての参拝になる。
急坂を下り大井宿に入る。
国指定の文化財になっている本陣跡から右折し宿場町に入る。直ぐ左手のひしや資料館は庄屋家跡で、老婦人が清掃中だったが通過。
旅館いち川前から市神神社経由の枡形を通過すると、阿木川に架かる大井橋。結構な流れだが、錦鯉が泳ぐ清流で今夜の酒が期待できる。
振り返ると今夜の宿・恵那プラザホテルの看板があったので、川沿いにとって返す。午後4時過ぎに到着した。
フロントで川沿いに見つけた居酒屋を推薦されたので、シャワーを浴びて午後5時半に訪問したが、人気がない。暫く待ってやっと入店。
なかなか広く飲み物も豊富。ご自慢の焼き物に、瑞々しい冷奴で先ずは生ビール。地酒「笠置錦」は木曽路と同様に名水に恥じない味でした。
明日に備えて早めに帰館し、早めに就寝しました。
<9月10日(金)大井宿〜大くて宿〜細久手宿まで20キロ>
昨日の猛暑に懲りたし、難所13峠を控えているので出来るだけ早めの出発とする。
午前7時前に、ホテル1階にある喫茶店で簡単なモーニングを摂って直ぐに出かける。
駅そばにあるらしいコンビニで昼食を買い整えるべく、昨夜は堪能した店が川べりにある阿木川を再び越える。
学校へ行く途中の女子高生にコンビニの在処を尋ねたが、なかなか答えが返ってこないので、取り敢えず恵那駅まで来ると、待合室そばに小さなコンビニを発見、ささやかな品揃えの中から三人三様の昼食と飲み物を調達できた。
東銀座商店街にある旧道に復帰して本日の旅が始まった。
駅から150mの安藤広重美術館が見られなかったのはやや心残りだが、本物の街道を体験できるので由とする。
高札場跡から一旦国道21号線(R21)に合流するが、程なく旧道に入る。次の大くて宿までの間には、通称「十三峠」、実質的に20箇所の峠越えが待ち構えているので、一同気を引き締める。
最初が西行坂。西行法師が大井宿付近で亡くなったという伝説があることからその名がついたという。小高い丘の上には西行塚があるが、先が大変なので省略した。
本日はアップダウンの連続ではあるが、山道のため両側から木々が覆いかぶさってくれていて、終始、強い日差しが避けられたのは幸運だった。
桜の名所でもある西行の森公園で最初の休憩。槙ケ根一里塚が両側に残っている。この後ずっと両側に一里塚が健在だったが、いかに開発されにくい山の中を通っていたという証左だ。
伊勢・名古屋道との追分に着く。今回の中山道部分は、川沿いの平坦地を敢えて迂回して山道を行く「上の道」だが、ここから下る「下の道」の方が距離も短く歩行が容易なため、江戸期にも禁を守らず通行する人々が多かったらしい。西からの防備のため、大久保長安が設定したとされているが、結果は有栖川親王軍の阻止に至らなかったのは歴史にある通り。
坂を下ると左手に首なし地蔵。
続いて大きくカーブした乱れ坂。あまりの旧坂に女性の裾も乱れたという。清水の小説の材料が増えたと冷やかす。
一旦舗装道路に出て暑いが、沢沿いの旧道に入ると深萱・紅坂の一里塚。当然両側に残る。
下り坂の途中に何故か佐倉宗吾郎碑があるが、由来は不明。
右手の神明社には芭蕉句碑「山路きて なにやらゆかし すみれ草」があるが省略。
そういえば今回の4日間は、寺社が街道筋から遠いところにばかりあった。
東海自然歩道と合流すると途端に厳しいのぼりに変わる。深萱立場・大久後立場が続くのも当然か。黒すくも坂、三ツ城峠、観音坂といくつ越えたか判らなくなってきたが、頭上の木々の天井には感謝して進む。
「一番苦しい所」とあった坂の横に新道が作られていてやれやれ。
駐車場があるベンチで休憩していた地元男性の脇に座り込む。こんな日に歩いているとは呆れ顔だったが、「頑張ってね」と坂を下りていった。
鞍骨坂、吾郎坂を越え、樫ノ木坂の頂上で江戸から90番目、権現山一里塚。3分の2を踏破できた。次の大くて宿までは2キロと近い。
西国巡礼に縁の三十三観音は、道中無事祈願とお参りと同じご利益を求めたもので、格子の扉の中に観音像が安置されている、続くは、中仙道ゴルフ場を縦断するコース。
高いネットや大木があるのに、何個もボールが転がっていて、お互いに苦笑い。
山之神坂を越えていよいよ下り坂。眼下に大くて宿の集落が見えてきた。途中で1箇所しか自販機がなかったため3人とも水不足。
宿入り口に酒屋を発見して飛び込んだ。
先ずはアイスクリームで喉を潤してから、水分補給。やっと人心地がついた。
まだ11時には少し前だったが、公民館前のベンチで昼食休憩。コンビニで買ったおにぎりが旨い。
清水が今夜の宿・細久手宿大黒屋に確認の電話をすると、「これから買出しに行くので午後2時半ごろに着くように時間調整してほしい。こちらには殆ど見所がない」との回答だったので、目の前の公民館(コミュニティセンター)に入り、居合わせた職員の方に暫しの休憩をお許しいただく。
図書館を併設した館内には、中山道の詳しい資料が展示され、2台の扇風機の心地よい風にも甘えて2時間近くの長居をしてしまった。
隣接する小学校(本陣跡)のグラウンドにある皇女和宮の歌碑「遠ざかる 都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり」と「思いきや 雲井の衣 ぬぎかえて うき旅衣袖しぼるとは」を拝見する。
5千名といわれた行列でも、生まれ育った都からの下向は心細かったと推測される。
続く神明神社に聳える樹齢1300年の大杉のご神木は、最近の落雷でも枝の一部が落ちただけという見事なもので、8月下旬に見た群馬県の榛名神社のご神木にも負けない立派な立ち姿だった。
坂を登る観音堂にある芭蕉句碑「花盛り 山は日ごろの あさぼらけ」は省略。
直ぐ先の高札場跡から左手に下る立派な舗装道路は、今では僅か2キロの行程でJR高山線・釜戸駅に通じている。
日差しの強い舗装道路沿いに陰陽二つの大岩がある。
旧道に入り本日最後の登り坂・琵琶峠。大きな石畳が続くが、幸いにも好天続きだったので、 西を先頭にすいすい登る。途中のベンチで本日同宿の八王子からきたというタバコが離せない男性が一服していた。
お先に失礼して、琵琶峠頂上へ。「住みなれし 都路出てて けふいくひ 急ぐともつらき 東路へのたび」を鑑賞した。
ゆったりと下り坂。日差しが強いが残り少ないので足は軽い。
91番目の八瀬沢の一里塚もきちんと両側が残っている。
草に埋もれてしまった石畳を下る。
舗装道路に出ると右手に大きな養鶏場、その先には警察犬を対象とした本格的な犬の訓練所、ブランド卵の農場などが次々に出現した。
天神坂を下りきったところにある弁天池のベンチで最後の休憩。村谷持参のウエットティッシュと西常備の梅干が汗を拭う。
奥之田一里塚を通過し日吉小学校跡地を下ると細久手宿に入った。
午後2時過ぎに、公民館の真ん前にある本日の宿・大黒屋に着くと、中山道レディに選ばれた大女将がお出迎え。先ずは荷物を預けて、坂道を下って本陣跡・脇本陣跡を見学し、宿に戻ると板前を兼ねる若主人が帰宅していた。
国の登録有形文化財に指定されている、尾張藩本陣跡が本日のねぐらだ。黒光りする木の階段を上って、2階の宿所へ。
三方が網戸の二間続きの和室に荷を解く。温いお茶とたっぷりのカステラが心憎い。
外人客にも対応した風呂に入浴し、夕食までの繋ぎにはビール。一日の汗と疲れが吹き飛んでしまった。
夕食は1階の上段の間で、料亭旅館に恥じない献立。当然に地酒を追加し、鯉こくで締める。
テレビも新聞もないが、「住まいは夏を旨とすべし」との吉田兼好の言葉そのままの造りに、爽やかな眠りにつくことができました。
<9月11日(土)細久手宿〜御嶽宿〜伏見宿〜大田宿>
難所の十三峠は無事に越えたが、本日も晴天下での24キロとあって早出を決める。宿の方は手馴れたもので、6時45分には朝食の案内。
昨夜と同じ上段の間に下りる。
朝とはいえ、なかなか凝ったメニューが並び、若女将が熱々の具沢山の味噌汁をてきぱきと運んでくれ、熟睡した我らもすんなりと胃に収めた。
玄関前で3人そろっての記念撮影。
まだ地平線から顔を出したばかりの柔らかな日差しに見送られて、緩やかな坂道を順調に下っていく。
宿外れで東海自然歩道と分かれて、田んぼの間の舗装道路を行くが、早朝にもかかわらず何台ものトラックとすれ違う。下を走る国道の抜け道に利用されているらしい。
土岐方面に続く県道352号線と分かれてからは大型車通行禁止なので、のんびりと歩ける。
平岩橋を越えた交差点脇の酒屋の自販機で、飲み物を購入。旧道筋ではなかなか置いていないので、あれば必ず入手するのが大事。
猛暑のせいなのか、どこでもスポーツ飲料が売り切れだった。
「左・中山道西の坂」の道標から、待望の山道になった。深い緑に包まれているのがありがたい。
鴨之巣(こうのす)の一里塚は、両側に残るが左右が10m以上ずれているのが珍しい。ここで瑞浪市から御嵩町に入った。
急坂を下り終えると津橋の集落。早くも朝日が空高くなってきている。
集落を抜けて緑陰の諸ノ木坂を上り詰めた峠が、5軒の茶屋があったという物見峠。皇女和宮の休憩所が設けられた見晴台があり、今は御殿場という。
坂を下った左手に、「唄清水」や「一呑みの清水」が続くが現在は飲用不可。
これまた両側に残った十本木一里塚を順調に通過する。江戸から94番目。
松並木が続いた茶屋が多くあった場所で、共同洗い場だったという池も残る。
続いて謡坂(うとうざか)の石畳を下る。右手に聖母マリア像入り口があり、当地に隠れキリシタンがいた史跡があるが省略。
耳が悪いひとのための耳神社や、あまりに急坂で牛の鼻が欠けてしまったという牛の鼻かけ坂など、おもしろい名前が続く。
急に開けた田園地帯に降り立つ。国道近くで自販機を発見、万屋もあった。
道路際にあった平安歌人・和泉式部の廟所に参拝する。「ひとりさえ 渡れば沈むうき橋に あとなる人は しばしとどまれ」との歌碑がある。
国道と分かれて御嵩宿に入る。柏森一里塚跡を通過。
商家「竹屋」で休憩。土間に上がりこんで足を伸ばす。町職員という若い娘さんから、戦前は亜炭で栄えた町で映画館も数軒あったが、今は唯一の交通機関である名鉄・広美線が廃線の危機にあると聞いた。
教えていただいた今春できたばかりの交流館に入り、冷房の効いたテーブルで地元産の食材だけでできたという抹茶氷小豆(300円)を賞味する。壁には、我々が歩いてきた細久手〜御嵩間のハイキングのポスター。
外に出ると町役場のボランティアらしい同年代の男性が、テレビ局の取材や観光バスの案内で飛び回っていた。
駅手前にあった蟹薬師・願興寺の国重文の本堂を外から拝んで、観光案内所が併設された御嵩駅前を右折する。
交差点前に立つモダンな建物とは対照的な旧道を下る。
一旦国道に出た。鬼の首塚に祀られていたのが関ノ太郎という悪党だそうだが、蟹薬師のお告げの霊験を示すものらしい。
ここからしばらくは日当たりの良い道が続き、村谷はたまらず日傘を開く。
平成13年に廃線になった名鉄八百津線を横切ると伏見宿。
早めの朝食だったので、空腹を覚えてきた。
国道の右手にカレーCOCOを発見、一もなく飛び込んだのは11時半過ぎ。
ロースカツカレーと冷たい水のお代わりで元気を取り戻した。近隣の中華店や焼肉屋が淘汰されたため、ひっきりなしに来店がある。
交通量が激しいので、反対側の子規の句碑「すげ笠の 生国名のれ ほととぎす」は省略。
まだまだ延々と国道歩き。
可茂公設地方市場脇からようやく旧道に入る。
JR高山本線を通過し、品揃えが豊富なバイク店横を通る。右手に木曽川が見えてきた。大井宿だ。
勇躍して太田橋を渡る。眼下は日本ラインの船着場。誰も客の姿はないが、下流からトラックに積まれた舟が運ばれてきたところだった。
対岸に渡り、化石の森公園沿いの堤防を行く。日差しは依然として強いが川風が心地よい。
文化会館の庭に、一里塚の碑だけが残っていた。
神明水神前のベンチで最後の休憩。大田稲荷の手前で本日の行程は終了。24キロ、お疲れ様でした。
広い車道を駅前に向かい、まだ午後2時前に本日の宿舎 シティホテル美濃加茂にゴールイン。
とりあえずシャワーを浴びて夫々個室の広いベットで夕食まで休憩とする。
午後6時、8階屋上テラスに集合。6月11日オープン、本日終了のスカイビアガーデンに参加。バーベキューセット+2時間呑み放題3,400円を注文する。渋皮の向けた大学2年生のアルバイト嬢が、遅れがちに注文の品を持ってきてくれる。
茜色に染まった山並みと町のシルエットが浮かぶ。市内最高地点の建物を目当てに、続々とお客が詰め掛ける。3名とも久々のビアガーデンを堪能し、明日への英気を十二分に養ってから、床につきました。
<9月12日(日)大田宿〜鵜沼宿>
今回の木曽路の旅も最終日。残りは10キロと短いし、昨夜は十分に疲れを抜いたので張り切って出発する。
午前7時に3人とも洋食のモーニングを平らげる。
昨日の大田稲荷に戻り、本日の道中無事を祈願した。
立派な表門が残った本陣跡や国重文の脇本陣林家住宅、芭蕉句碑・白秋歌碑・地元生まれの逍遥歌碑など流石に見所が多い。
本日の最高気温予想が37度とあって、早くも蒸し暑い。しかも宿外れからは暫く国道歩きだ。
難読地名の坂祝(さかほぎ)町に入る。木曽川沿いの堤防3.5キロほどがロマンチック街道。暑いが眺めが良い。
99番目の取組一里塚碑を見下ろして通過。行幸公園脇の自販機で飲み物を追加し休憩。
行く手正面の小高い山の上に、猿啄(さるばみ)城が見える。標高240mだそうだが随分高く感じられた。
堤防が切れて国道に戻った先に、コンビニがありアイス休憩。
広い駐車場の片隅で、これから街道歩きするらしいグループ数名が打ち合わせ中。
右手の斜面にある小ぶりな岩屋観音に立ち寄った。ほんの少し山道を登っただけだったが、木曽川の全貌が見下ろされて信心に感謝する。
通行量が多い国道を何とか反対側に渡り、営業していないレストランの脇から階段を下る。川沿いの国道下のトンネルを潜り抜けてようやく緑陰の旧道に入ることができた。うとう峠だ。
結構急な上り坂だが、これが最後とがんばって花と記念樹の森の休憩所にたどり着く。地元の植木業者が草刈の最中だった。
日のあたらないベンチを選んで四方山話。例によって東京からというと、不思議そうな顔をされたが、新鵜沼までは残り30分と教えてもらいやれやれ。
坂を下り終えた所のうとう峠一里塚が100番目。
団地の間の坂道を下り、中山道が直角に右折した地点にある赤坂神社で打ち止めとした。
買い物帰りの男性に確認し、国道21号線の交差点からすぐ先のJR線鵜沼駅・名鉄新鵜沼駅に10時半過ぎにゴールイン。
11時2分の特急・新名古屋駅で30分、買い物・衣替えを済ませ12時10分発ののぞみで帰京しました。
次回は、11月2日(火)に集合し、3日(水&祝)から5日(金)の3日間で、鵜沼宿から加納宿(岐阜駅前)、赤坂宿を経て関が原宿まで歩く予定です。
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★2010年9月9日(木)〜12日(日) 「中山道、中津川宿〜鵜沼宿」