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※中山道・姫街道(信濃追分〜藤岡宿)
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<7月9日(金)中山道・木曽後半歩きへの移動日=新宿駅〜上松宿>
中山道11宿の中間点=北からも南からも6番目の上松宿に向かうべく、14時新宿発スーパーあずさ19号に、清水・西・村谷の3名が乗車した。週末ながら時間が早いためなのか、車中は空いている。
缶ビール片手に明日からの行程について協議。梅雨の真っ最中とあってできるだけ早くスタートし、前半で距離を稼ぐ作戦で一致した。
塩尻駅に停車しないため上諏訪駅で下車、10分間待って各駅停車に乗車するとちょうど高校生の下校時間。年長者に席を譲ってくれたのでご厚意に甘える。
次の下諏訪駅のホームの端に、1枚だけ御柱祭りのポスターが残っていた。
塩尻駅での30分間の待合わせを利用して地元産ワインを購入。
1時間弱で前回のゴール地点・上松駅に到着。同じ駅前の酒屋で奈良井産の杉の森4合ビンを購入して、駅そばの田政旅館に午後6時入館。
週末で常連客も帰宅したため本日は我ら3名だけ。清水&西と 村谷1人だけの2部屋に分かれるのもいつもの通り。
江戸期創業の老舗で、昭和20年に火災で再建したそうだが、すっかり近代的な設備が整い使い勝手が極めて良く、長野県で最上級と評価した。
軽く汗を流して夕食。昔のままの小部屋で供された夕食は、海産物中心にバランスが良く、質・量ともに十分で、村谷もご飯2膳で終わってしまう。
部屋での打合せに村谷が持参したツマミも大半は残して、早々に就寝した。
<7月10日(土)上松宿〜須原宿〜野尻宿=24キロ>
6時半、たっぷりオカズがついた朝食を平らげて出発。玄関に19足のスリッパが並んでいて、昼の宴会でご機嫌な女将に見送られた。
まだ、空は晴れているが、蒸し暑い。
江戸期に尾張藩の材木役所だった陣屋跡を通過。今も上松は木曽ヒノキの一大集散地だ。
下町交差点から旧道へ。中央アルプスの主峰・木曽駒ケ岳への登山道入り口がある。
諏訪神社は上松小学校のグラウンド奥にあった。道中無事を祈願していると、早くも野球部員がランニングを開始する。最後尾の4名は新入部員らしく背番号がついていない。
駅からちょうど2キロで、古来からの名勝として知られる寝覚の床の入り口だ。街道沿いの越後屋は、続膝栗毛に描かれた建物が保存されていて、「名物の 蕎麦切りよりも 旅人は娘に鼻毛 伸ばしやすらむ」という狂歌が浮かぶ。現在は、国道19号線沿いの立派な建物で営業中。
我らは国道を横断し、臨川寺に入るが早朝のためか受付がいない。正直に200円×3人分を投函して境内に入ると、担当の女性が出勤してきてパンフレットを貰う。「左手の自販機の先から下りると写真と同じ景色が見られます」との指示に従い、急坂を下る。数々の旅人を楽しませた絶景は、激しい流れが花崗岩を彫刻した天然の造形の美だった。
名の由来は、竜宮から戻った浦島太郎がある日当地で玉手箱を開け、300年の時を目覚めたからだともいう。
境内の芭蕉句碑には、「ひる顔に 昼寝せふもの 床の山」とあり、弟子の李由に宛てた当地に立ち寄れなかった手紙に書き添えられた句だという。
自販機でお茶を買い足し、再び旧道へ戻ったが、結構な高低差で汗がびっしょり。まだ20キロ以上ある。
国道で同年輩の自転車の街道歩きの男性が追いつく。今日中に中津川に戻るそうだ。
左手に小野の滝が現れる。今も広重の絵と変わらぬ水量を維持するが、鉄道線路がやや余計?
地元の男性が明日の祭りに備えて芝刈りの真っ最中。何と八王子から獅子舞がやって来るそうだ。
江戸から73番目の萩原の一里塚址碑を通過。木曽路の後半は、街道と川筋が近接しているため、しばしば迂回路が設けられている。木曽古道もそのひとつだ。
昔の立て場跡が、立町という地名で残っている。
JR倉本駅先から旧道へ。すぐに74番目の倉本の一里塚跡。
その先のうどん屋は午前10時ではまだ開いていない。
少し先のコンビニで、麺、おにぎりなどを購入した。
須原宿入り口にある須原駅の待合室で早めの昼食。日陰が嬉しい。靴も脱いでしまう。
駅前には、75番目の須原一里塚碑と、名物の桜の花漬を今も売る大和屋。
明治22年に当地に滞在し「風流仏」を執筆した幸田露伴の文学碑にも「ご覧くだされ 是は当所の名誉花漬 今年の夏のあいさつも越して 今降る雪の真最中 色もあせずに居りまする」と記されている。
また、丸太をくり抜いた水飲み場「水舟」があちらこちらに置かれていて、我らも飲み干したペットボトルに詰めた次第。
宿はずれの浄戒山定勝禅寺は、桃山風の山門・本堂・庫裏が国の重要文化財で趣がある。枯山水の庭が印象的だった。
JR線の第九踏切を越えると、のどかな山里が広がる。立ち話をしていた主婦二人と挨拶を交わし、かって保育園があった曲がり角を下ると左手に天長院。山門入り口に置かれた乳房がついていて子供を抱くマリア地蔵が有名だ。我らが立ち去る後からカメラを抱えた男性が入っていった。
大桑駅前を通過。76番目の弓矢(または長野)一里塚跡は遠いので省略する。豊富な物産の道の駅大桑でトイレ休憩。すぐに旧道へ入る。
今夜の宿・フォレスパ木曽への最初の分岐点から反対側が、野尻宿になる。
くねくねとした野尻七曲がりを辿り、野尻駅に到着。本日、何本目かの水を補給する。お茶は飽きたので、クエン酸系に集中する。
熊が出ているので気をつけるようにとの村内放送が流れる。そういえば、先月、上松駅手前の木曽の桟で遭遇した小熊は、猟友会の手で処理されたようだ。
駅前の広い駐車場で車を止めて、シートを抱えてヨガ教室に通うご婦人たちが次々に通り過ぎる。
ゴールまで残り3キロ弱、神輿を上げて先へ進む。
木曽川が堰き止められて湖状になっていて、水上バイクが1台行ったり来たりしている。
赤い鉄橋からは、風光明媚が謳われる阿寺渓谷の入り口が見えた。
橋上で孫娘と祖母らしい二人連れとすれ違う。
後背のとんがり山を模した建物が今夜の宿・フォレスパ木曽。午後2時前に到着した。
早速24時間入浴可能な温泉に飛び込む。真っ白に吹きだした塩を洗い流しほっとする。
ロビーの自販機で調達した缶ビールで本日の健闘を讃えあった。
広大な村営施設ながら、我ら以外の本日の宿泊客は外人男女2名と老女7、8名グループ 及び 常連らしい女性一人客だけだった。
駐車場の客は大半が露天風呂や体育施設を楽しむ日帰り組らしい。
時間があるのでフロントで新館の入浴券を貰い、露天風呂に出かけた。快晴ならば中央アルプスが正面にどっと鎮座するのだが、生憎の曇り空。それでも、電柱も広告もなく、深い森林が生み出してくれる空気を吸い込みほっとする。
帰りに売店で飯田産の麦焼酎を購入。
夕食はヘルシーコースを予約して、ちょうど適量だった。
部屋に戻り、村谷持参のクルミ小女子などを消化しながら、明日の「昼から雨」という予報に対しての策を練ってから就寝した次第。
<7月11日(日)野尻宿〜三留野宿〜妻籠宿〜馬籠宿=18キロ>
開けっ放しの窓から入ってくるそよ風のおかげで熟睡し、揃って6時前には起床した。
7時から昨夜と同じ食堂でお決まりのメニューの朝食を摂った。
午後からの雨予報に備えて、出勤してきたばかりの運転手さんに15分繰り上げてバスで送ってもらう。
7時50分、昨日の続きからスタート。空気は湿っぽいが前方の山並みはくっきり。木曽川とJR中央西線に挟まれた静かな道は、車も通っていない。この道幅は江戸期そのままのようだ。
14号踏切で線路を横断すると新茶屋集落。名前のとおり昔は賑わっていたのだろうが、今は人家がちらほら。
国道を横断する地点から、長野県最後の南木曽町。ようやくここまで辿り着いた。既に標高489mで、今回の最高地点・馬籠峠(801m)まで残りは少ないと励ましあう。
左手の土手では草刈している人が時折いる。田植が終わり、お盆前にきれいにするようだ。
十二兼駅を通過。一里塚碑があった。
木曽川が再び右手に迫ってきて、南寝覚と呼ばれる絶景が広がる。
柿其橋の上から渓谷美を鑑賞する。この付近は、木曽路屈指の難所で、所々に桟が架けられていた「羅天の桟道」だった。島崎藤村の「夜明け前」の書き出し部分は、明治期までの険しさを現している。
左手の山側には、迂回路・与川道が残っている。
難所を控えて32軒もの旅籠があった三留野宿に入る。今は、卯達がある家が数軒あるのみ。
山津波を防ぐために作られた水路・蛇抜沢を横断する。当時から土石流に悩まされていたことが窺われる。
南木曽駅が近づくと、参院選に行くらしく、かなり人出がある。
宿場はずれの見事な和合のしだれ梅は、庄屋を務めた酒造家・遠山家のもので、大田南畝が誉めた銘酒は今は売られていない。
妻後宿まで3キロの表示が出現。この先からはほぼ200m置きに設けられていて、歩く人が多いことが判る。
傍らの小公園にD51型SLが置かれていたが、雨風に吹きさらしのままで、薮原一里塚脇の良く整備されたSLとは対照的だ。
急な神戸(ごうと)坂を上りきると、中央アルプスが一望できる。木曽駒ケ岳がぼんやり見えた。眼下の中学校の広いグラウンドでは、2組が野球の試合中。木曽路では、サッカーよりも野球が盛んと判定した。
珍しく両側に塚が残った上久保一里塚は、日本橋から80番目。
少し先には中山道で2つしか詠まなかった良寛の「この暮れに もの悲しきに わかくさの 小鹿なくも」との歌碑がある。
妻籠城址で妻籠宿まであと1キロだ。
宿入り口にある巨石・鯉岩まで来ると急に人の数が多くなる。生憎の天候ながら、やはり人気が高い。
3人とも時期こそ違え再訪になるが、少しは見覚えがある町並みを夫々撮影に余念がない。
十返舎一九が「続膝栗毛」を書き上げたという旅籠屋が「上丁子屋」で、飯盛り女が大勢い居て賑わっていたようだ。
奈良井宿と同様に、電柱がなく昔の家並みが保存された町並みは外人客にも大変な人気で、地元の話では20%というが、本日はもっと多いように感じた。
馬籠峠で昼時分になるので、宿はずれの唯一の商店で何とかパンを発見。
右手に水量豊富な蘭川(あららぎがわ)の流れを見ながら徐々に上って行く。
大妻橋を渡ると馬籠宿6.5キロ。
続く大妻籠の集落には、少ないながら風情のある建物が残っている。眼下に妻籠宿を見下ろせる絶景地だ。
大妻籠一里塚跡を通過すると急な石畳の上り坂になる。馬籠方面から下ってくるハイカーの3組に1組は外人勢。
庚申塚の脇から男滝・女滝を見物するため寄り道する。宮本武蔵とお通の出会いの場として有名になった。
横浜方面から車できた家族連れを追い越す。我らが日本橋から歩いていると説明したら絶句していた。
峠入り口のバス停付近で雨がぱらついてきたので、傘を取り出す。幸いにも、足元が草叢で頭上を木々が覆う山道になりやれやれ。
旅人を厳しく詮議した白木番所跡に到着。往時そのままに保存された立場茶屋で昼食休憩。
休日に常駐しているらしい地元男性が、囲炉裏で沸かした湯で、お茶を出してくれた。
梅干と牛蒡の醤油煮までいただく。12時の古時計の音を聞きながら、持参のパンを平らげる。
雨も小止みになったので、もう一踏ん張り。馬籠峠頂上に到着した。
峠の茶屋と正岡子規の「白雲や 青葉若葉の 三十里」の句碑を撮影して下山に掛かる。残りは2キロだ。
一九の「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物」という狂歌碑がある休憩小屋にも立ち寄らず通過。
小雨にもかかわらずランニングで妻籠宿を目指す大勢の一団とすれ違って、馬籠宿が一望できる陣場峠に到着した。
馬籠宿の入り口に酒屋があることを確認して、午後1時半、本陣資料館横にある唯一の宿屋・岩たけに投宿した。
日曜とあって客人は我らだけ。
先ずは上から下までそっくりと着替えて、ビールで水分を回復する。
一息入れて、熱いお茶で身体を温めていると、俄かに強い雨が降り出した。
合間に、夜の酒を買出し、順番に熱い風呂に入る。本場らしく総ヒノキ造りで、3年ごとに浴槽を取り替えているそうだ。
不動女子プロの優勝を確認したところで夕食の案内がある。
内容はなかなかのもので、またビールを注文したため、折角の美味しいご飯も少しで終えてしまった。
部屋に戻り選挙速報をツマミに軽く杯を傾けているうちに眠くなり、本日も早めに床に着きました。
<7月12日(月)中山道木曽路 馬籠宿〜落合宿〜中津川宿=9キロ>
昨夜も早めに就寝し5時起きした朝、未だ雨は降り出してはいない。
岐阜県全域に大雨洪水警報が出されていて、馬籠の小学校は登校見合わせと女将さんが教えてくれる。
我らは昨日に引き続き早めに朝食を終え、手付かずの四合ビンは、村谷のザックに括り付けて7時30分に出発する。宿場には全く人影がない。
アスファルトに黄色と白の細かな石をはめ込んだ坂道を順調に下っていく。
この道は中津川駅近くまで延々と続いていて、地図を見る必要がない。
宿はずれの案内板に、「江戸に八十里半、京へ五十二里半」と記されていて漸く峠を越した気になった。
馬籠城址の先の諏訪神社で、本日午前中の天候無事のみを祈願した。
山の端はまだはっきりと見えるが、随分湿度が高くなってきたのが判る。
鍛冶屋バス停先で一挙に見晴らしが開けて中津川の市街地が一望できる。
正岡子規の句碑「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」が立つ四阿付近で雨がポツポツ、傘を取り出す。
芭蕉句碑「送られつ 送りつ 果ては 木曽の穐(あき)」の句碑と、「是より北木曽路」の碑が出現して、新茶屋の一里塚に着く。現在の長野と岐阜の県境は馬籠峠だが、江戸期の信濃と美濃の国境はここだったという。
JR中津川駅まで6キロの標識の先から十石峠(十曲峠)になり、つづら折りの急坂=落合の石畳が続く。昨夜の雨でたっぷりと水を含んでいるため、慎重に端のほうを下る。草鞋で歩いた当時の旅人にはありがたい設備だったに違いないが、近代的な靴には不向きだ。
石畳が終わった先には、芭蕉句碑「梅が香に のっと日の出る 山路かな」がある医王寺。雨が小降りになり、一旦傘を閉じた。
まだ続く急坂に、西側から上った人々の労苦が偲ばれる。何故か中山道の峠道は、西が急で東が緩やかなようだ。
堂々たる流れの落合川を渡ると、美濃の最初の宿・落合。
本陣跡には、加賀藩からおくられたという門が当時のまま残っている。
枡形を直進すると平坦な国道だが、旧道は急な登り坂だった。堪らず村谷は自販機でお茶を購入。
一旦国道を潜り抜けて、与坂バス停脇からはまた急坂。与坂立場跡をピークに、漸く下りに入った。左側に子野(この)の一里塚、あと2キロ。雨はすっかり上がった。
中津川高校前の旭が丘公園内には芭蕉の門人達の碑があったが省略。分岐点横の「山路来て 何やらゆかし すみれ草」という著名な芭蕉句碑の意味する処が、木曽路を終えた実感として理解できたようだ。
国道を横断歩道で渡り、高札場跡を通過し、中津川駅に9時30分にゴールインした。
駅で濡れた上着をすっかり着替えて、10時過ぎの松本行きに乗車する。車窓から木曽路11宿を振り返りながら12時前に塩尻着。
駅横のビル内の食堂で、餃子・ラーメン+生ビールの昼食を摂り、前回と同じ13時過ぎのスーパーあずさで残った酒とツマミを片付けながら帰途に着きました。
木曽路のキーワードは「水」と村谷が独断で判断した次第です。
次回は、9月9日(木)午後に中津川から3泊コースで再開する予定。
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★2010年7月9日(金) 〜12日(月)「中山道、上松宿〜寝覚の床〜妻籠宿〜馬籠宿〜中津川宿」