★2010年12月17日(金)〜19日(日)「中山道、関ヶ原宿〜武佐宿」
<第一日目、中山道・美濃路から近江路へ(関が原宿→醒井宿)>
東京駅発10時10分発のぞみ博多行きに乗車した清水・西・村谷の3名は、名古屋・大垣と乗り継いで午後1時前に、前回の終着地・関が原駅に到着。
空は晴れていて幸先が良い。車中では昼食を摂らずに来て、駅前で思案していたら、同じ電車で下車した男性から「自分も時間がないときに始終利用しているからご案内しましょう」との有難いお誘いに従い、小型スーパーにお供する。
1時近いのに、7個のおにぎりが残っていて、「歩く皆さんと違って1個で充分です」とのお言葉に甘えて、2個×3人分=6個+コロッケ3個を購入していざ、中山道に向かう。
50m先にある本陣跡でもあった八幡神社の境内に入り、本日の無事を参拝してから、外れの石段に腰を下ろして遅めの昼食に取り掛かる。東京で見かけるすらっとしたコンビニのお握りの3倍はありそうなころころしたお握りと、いまや高値のはずのジャガイモが一杯詰まったコロッケで腹ごしらえを済ませた。
本日は、午後の出発ながら見所が多くかつ14キロの行程、何とか午後4時半には、醒ヶ井駅に着くことを確認して出発する。
この八幡神社も関が原の戦場のまんまん中で焼失したとのこと。街道からは外れるものの史跡探訪、東海道本線を越えて東首塚まで向かう。
敵味方の区別なく鄭重に葬られた形跡に、日本の潔さの伝統を確認した。
宿外れの西首塚にも参拝し、国道21号線と分かれて旧道に入る。
松尾山の小早川陣地や福島正則陣の跡を左手に見て、意外に近かったことに気がつく。
程なく不破の関跡。約1,300年前の壬申の乱の最終的な決戦の跡地として知られる。芭蕉が「秋風や 藪も畑も 不破の関」と歌った戦いの虚しさが響く。
蜀山人は、「大友の 王子の王に点うちて つぶす玉子の ふわふわの関」と両軍の勢いの差を表している。
すぐ先の藤の川を挟んで両軍が対峙したそうだが、今の川幅では想像すら難しい。
左手には敗れて自害した弘文天皇(明治期に追贈された)の御陵候補地があるが、遠く関東の大山の麓にも、大友皇子の墓と伝えられる場所があった。
激戦の名を残す黒血川を越えると、源義経の母・常盤御前の墓がある。都から遠い陸奥に落ちたわが子を追って、都からここまで従者とたどり着いたものの、土賊に襲われて息を引取ったそうだ。平清盛の側室から大蔵長盛卿に嫁いだという我らの常識とは相容れないが、芭蕉の「義朝の 心に似たり 秋の風」の優しさが勝るようだ。
緩やかな上り坂で、今須峠に差し掛かる。昨夜降ったばかりの初雪が日陰に残っていて、伊吹山から吹き降ろす寒気が冬場に新幹線を止めるのはこの付近だと実感する。
峠越えにはすっかり慣れてしまった我らが下り付いたのが、今須の一里塚跡。
この宿場で名物だった合羽を模した看板が残っていた。
R21とJR線が並行する手前には、車返地蔵尊がある。15世紀に荒れ果てた不破の関を京都から二条良基が見に来たのだが、関守が屋根を葺き替えてしまったため、「ふきかえて 月こそもらね 板びさし とくすみさらせ 不破の関守」と歌って牛車を返してしまったという。
すぐ先が寝物語の里。細い川が美濃と近江の境で、隣の部屋同士で寝ながら話し合えたからその名がついたという。源義経を追ってきた静御前が家来の江田源蔵と声を頼りに遭遇できたそうだ。
芭蕉句碑「正月も 美濃と近江や 閏月」は、月齢ベースの太陰暦では1年365日には不足するので、調整用の閏月で前後を埋める様を巧みに織り込んでいる。
長久手集落の先には、珍しい楓並木が出現する。わずかに残った紅色がこの時期に旅した我らへのご褒美だ。
続く柏原宿の名物だったのは、「伊吹もぐさ」。蓬の葉で作ったお灸で、旅の疲れを癒す必需品だったらしい。現代の我らは、アミノサプリやサポーターで代用しているが、健脚だった先人もいろいろと工夫していたようだ。
最澄大師が開き織田信長・豊臣秀吉の宿舎になったともいう成菩提院など史跡も多いが、長丁場なので極力省略する。
宿を出ると左手に今回3日間雁行する名神高速道路が出現する。
江戸より115番目の柏原の一里塚。復元されたかわいらしい松並木の先に、けばけばしいホテル群が出現して興ざめ。
山の際のオレンジ色が目立ってきて、醒井宿に入る。居酔の清水始め、中山道屈指の名水の里として著名だ。若き西行法師の伝説を伝える西行水や、水の中に白い小さな梅の花に似た花を咲かせる「梅花藻」や、20度以下でしか生きられない絶滅危惧種のハリオが生息する場所を見ながら、午後4時半、近江鉄道線・醒ヶ井駅にゴールイン。
全く、人に会うこともなく、車も少ない静かな半日でした。
折りよく11分後に着いた電車に乗車して少し先の米原駅へ向かう。西口から徒歩数分のホテル・ナレッジインに投宿し、直ちに夕食を摂るべく、徒歩数分の酒食工房「べんてんや」へ入店する。瀟洒な外見とは一転して庶民的な店で、座敷に上ってほっと一息。先ずは生ビール。長丁場の労をねぎらいあう。
30歳前なのに2歳と8歳の子供がいるという小柄で明るいママさんのお勧めに従い、肉系中心のツマミと焼酎ですっかり疲労を回復した。帰りにホテルの真ん前の平和堂で夜食と寝酒を買い込み、部屋で軽く仕上げて就寝しました。
<12月18日(土)中山道・醒井宿〜愛知川宿まで24キロ>
乗換駅の宿命?なのか、土曜と日曜はホテルのレストランが営業していないため、昨日、目の前の平和堂で購入したパン&飲み物&ヨーグルトを平らげた清水&西&村谷の3人は、昨夜来の雨が上がった、近江鉄道・米原駅から、予定より1本早い8時4分発に乗車、8時25分には、昨日の終着駅・醒ヶ井駅で下車した。
清流が足元に見える地蔵川を横断し旧道に入る。
茅葺屋根がトタンに変わってしまったかっての六軒茶屋跡を過ぎて、一旦、国道21号線に合流する。傍らには、70歳過ぎて行き倒れになった老人が、この世のお別れに乳児を抱えた母の乳房をくわえて70両ものお金を残して往生したという、一類孤魂等衆の石碑がある。博識の清水によれば、同様の説話が欧州にも伝わるそうだ。
R21号線と分かれると、番場宿に入る。上空は依然として曇っているが、我らの行く手は青空が見えて足も軽くなる。
左手には名神高速道路。しかし、右手のR21からはすっかり遠くなってしまったようで、狭い旧道なのに、バイパス代わりに利用する車がひっきりなしで、悩ましい。
この付近からは、やや濃紅色のベンガラ色の家が次々に出現する。雪が多い土地柄からか、腐食防止に鉄分が豊富な染料を利用するのが定着したという。
番場宿の名刹・蓮華寺には、鎌倉末期に京都・六波羅探題だった北条仲時一行が戦に敗れて自刃したり、昭和の長谷川伸の戯曲で著名な番場の忠太郎の墓が残る。300円の入場料を節約して、門から参拝した。
宿場はずれから程なく、名神高速脇の上り坂。我らより少し若い、快足の一人歩きの男性にあっという間に追い抜かれてしまう。ぱらぱらと雨が降ってきたが、もとより装備が充分のわれらには傘は不要。
道の両側に昨夜の雪が残る小摺針峠付近には、何の標識もない。
一旦峠を下った両側は田圃ばかり。
すぐに急な上り坂が待ち構えていて、ここが摺針峠。
名の由来は、石で斧を磨いていた老人に青年僧が尋ねると、「針になるまで磨く」と答えられ修行に至らなさを悟ったからという。ちなみに僧は後の弘法大師とされる。
すぐの頂上は、皇女和宮、明治天皇が休息された望湖堂跡。われらも眼下に琵琶湖を確認できた。跡地が民家ながらトイレが設置されているのがありがたい。
中山道では、何故か東側より常に厳しい傾斜の西坂を降りきると鳥居本宿。
多賀神社の鳥居が昔はあったからその名がついたというが、神社自体ははるか先になる。
「下痢・食あたり・腹痛」の万能薬だった赤玉神教丸は今でも販売されているという。
江戸時代の道中歩きには不可欠だった合羽も名物で、今もその看板が残っている。防水性を高めるべく楮を原料にしたわしに柿渋をコーティングしたのがミソだった。
右手には、彦根市外に続く道が次々に出現する。豊臣秀吉の「朝鮮侵攻」で悪化した関係を修復すべく、朝鮮通信使のみが城下に立ち寄れたものの、通常の参勤交代は入れずに中山道に限定された歴史が残る。
「昼顔に 昼寝せうもの とこのやま」と暑い時期に詠まれたらしい芭蕉昼寝塚が残る八幡神社で休憩する。立派な社殿の脇で、この旅の定番・西差し入れの大豆入り飴玉で疲れを癒す。
そろそろ昼時だが、食堂は見当たらず、R21号線はかなり右手にありそうだ。
正法寺町交差点横にあるはずのフレンドマートは、500m先の新興住宅地に移転していた。
小雨が少し強くなってきたので入店し、まだ暖かさが残った弁当とあつあつのお茶を購入し、店内のベンチで昼食とする。気温6度のコンディションの長丁場なので、暖かな椅子に座れてラッキー。
食事を終えて店外に出ると雨はあがっていた。
近江鉄道の踏切を越え、左手に高宮駅を見て通過。
右手に見えるはずの伊吹山は雲のかなた。高宮神社には、芭蕉の「折々に 伊吹を見ては 冬ごもり」の句碑が残るが、今は同じ境遇のようだ。
多賀神社の高さ11メートルの鳥居が出現する。高宮の名もこれに由来するという。30丁先なので、省略する。 芭蕉由来の紙子塚がある小林家や明照寺を通過。宿はずれには橋銭を取らなかった犬上川 にかかる無賃橋=高宮橋。
ケヤキ並木がしばらく続く。
左手に、わが国で初めてコンクリートで作られた豊郷小学校旧校舎群がある。当地ゆかりの丸紅専務・古川鉄治郎氏が昭和12年に寄贈したものだが、先年某市長が建て替えを企画して猛反発され、美しく整備されたもの。何かイベントがあるらしく、カメラや人で賑わっていた。
日本橋から120番目の法士の一里塚跡を通過。
伊藤忠と丸紅の生みの親、伊藤忠兵衛屋敷跡を見学する。近江商人の贅を尽くした中庭の見事さには感服。
京都でも一般的な江洲音頭発祥の地碑を確認したのは、清水。
大分疲れてきたが、愛知(えち)川宿に入る。小学校手前でバイクで郵便配達中の女性に近道を教えていただき、近江鉄道・愛知川駅に午後2時半、ゴールイン。
近江商人発祥の地・豊郷夢街道を踏破しました。
身支度を整えて、彦根行きの電車に乗車し、午後3時前にはホテル・サンルート彦根に投宿できました。
長丁場と、狭い街道をひっきりなしに往来する車との応接の疲れを2時間で回復し、午後5時の開店と同時に「築地直送仲買人・目利きの銀次」に入店し、新鮮な海産物を美酒で賞味し、熱々のもつなべ&締めラーメンでエネルギー補給して明日に備えました。
<12月19日(日)愛知川宿〜武佐宿>
朝食は、ホテル・サンルート彦根B1の和食どころ。朝とは思えない充実したメニューを堪能して素早く身支度を終え、予定より1本早い8時1分発の近江鉄道線・彦根駅発電車に乗車できた。
クラブ活動に行くらしい少々元気すぎる男子高校生の一団に圧倒されつつも、愛知川駅に到着する。
当地の名産品であるびん手まりを模したポストがお出迎え。
昨夕は、行き場が少ない?同年輩の男性諸氏が、コミュニティハウス「るーぶる愛知川」を兼ねている駅舎の 女子二人になにこれとなく話しかけていたのだが、本日は早朝のためかまだ出現していなかった。
駅から旧道に復帰して本日最初に遭遇したのは「中山道愛知川宿」の巨大ゲート。
峠から遠いのに和菓子屋さんが目立つのはなぜなのだろう。
京都に近い宿場に相応しく、宝暦8年(1758)創業とされる国指定文化財・竹平楼(日本料亭)などが続く。
上流で平将門の首を洗ったため水が濁ったという不飲川を渡る。大手町に現存する首塚との前後関係が今ひとつ判りにくい。
日本橋から122番目の愛知川西の一里塚を通過。
明治天皇が行幸されてから御幸橋になったが、以前は橋銭を徴収せず地元民に感謝されたという無賃橋を渡る。高速道路無料化の先駆者だ。
ろうそくが名物だった小幡集落をゆっくりと歩く。昨日とは異なり、日曜日のためか車の通りが少なくて助かる。
五箇荘駅横を通過。
伊勢商人を象徴するてんびんの里公園で一息入れる。清水が右手に国指定の郵便局跡の建物を発見した。
逆方向に向かう街道ウオーカーが何組も出現。
伊勢参宮道との分岐。パワースポット人気で今年はギャル中心に賑わっているらしい話が弾む。
昨日とは異なり、国道8号線が街道に近接しているので、バイパス代わりに利用する車が少ないらしい。
この地に多く設置されているポケットパークで休憩。安南(ベトナム)と交易した証の御朱印状(安南国書)が保存されている正眼禅寺がまん前にある。
われらを不審に思ったらしい老婆が話しかけてきたのを汐に御輿を上げる。
右手に西国32番観音霊場通じる小道があった。
一旦、R18を数百メートル歩き、旧道に入って清水鼻集落を通過。
アクロバティックな架線修理を行っていた電力会社員に感心伸しながら、新幹線と少し並行して進み、旧道に入ると右手に見事な森林が現れる。国指定の文化財・老蘇の森と奥石(おいそ)神社だ。織田信長が寄進した社殿は、伊勢神宮・出雲大社に近い雰囲気が残っていた。
日曜日は、どこの寺社でも信仰心が厚い地元の人々がし清掃する姿を見かけるのが通例だが、広大な社域を丁寧に清める人たちに、思わず声をかけてしまう。出口そばに、まだ赤さが強い木が残っていた。
静かな直線道路たんたんと歩み、午前11時半、近江鉄道・武佐駅にゴールイン。
10分後の電車に乗って、1駅先の近江八幡駅で今回の行程を締めました。
駅そばの中華店で昼食を兼ねて打ち上げし、東海道本線で安土城・佐和山城跡を両側に眺めながら、名古屋駅経由の新幹線で帰京しました。
最終回は、来年2月17日(木)に、武佐宿から3泊4日の行程で、京都まで行く予定です。
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