街道

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 中山道・姫街道(信濃追分〜藤岡宿)
    …日本橋から高崎宿までは、同行の吉田さんのページです。



<10月11日(木)中山道・姫街道歩き第一日目(信濃追分〜和美峠〜本宿〜下仁田=24km)>

 旧中山道の脇往還として知られる姫街道(追分宿〜本庄宿89kmのうち、今回は75kmを踏破する予定)に挑戦する吉田・滝澤・清水・西・村谷・山内の6名が、軽井沢駅からしなの鉄道で西へ2駅の信濃追分駅に集合した。駅構内には今がちょうど盛りのコスモスの花がお出迎え。

 本日は山の中歩きが多いため、駅前の自販機で飲み物を調達してから10時過ぎに出発する。
借宿(かりじゅく)を走る中山道に合流し、以前にも参拝済みの伊勢物語にも登場する遠近宮(おちこちみや)で、道中の無事を祈った。
 姫街道の起点となる「女街道入り口」の立て看板前からいざ出発。畑の中の道をどんどん下ってゆく。本日の出発地点は標高955mの信濃追分駅なので、距離は長いが下りが大半と励ましあう。
 主要地方道43号下仁田軽井沢線が、本日のメインコースで、所々に旧道が残る。
しなの鉄道を横断して暫くは頭上が木々に覆われた涼しい道歩きだったが、行く手に軽井沢72コースの広い敷地が出現すると一転して強い日差しが我らを待ち受ける。広いコースでパラパラとプレーしているのは男女2人連れが目立った。

 川にある石の固い岩盤に円形の穴があいた「甌穴(おうけつ)」を鑑賞していると、両手にストックを突きながら歩く東京の老人男性と出会ったのが本日只一人の街道ウオーカー?。
 ゴルフ場の敷地の外れに立つ「治安の礎」の草むらで昼食休憩とする。昭和47年の浅間山荘事件の殉職者を讃えた記念碑だ。パンやオニギリ、豚丼など思い思いのメニューを平らげて出発。まだまだ先は遠い。

 緩やかな坂道を登りつめた先が、長野県と群馬県の県境にある和美(わみ)峠。標高は975mと本日の最高地点。上信越道のインターとの分岐点からは、トラックの往来がほとんどなくて歩きやすいが、傾斜がきつい。
 ガードレールの取替工事中の男性たちが、この道を歩く人を見たのは初めて!と驚いていた。
頭上の上信越道を潜り、延々とくねくね道を過ぎて、やっと畑や人家が出てきたのが、上州電鉄・下仁田駅に通じるバス停がある初鳥屋集落。ここから本日の歩きのゴール地点・本宿までは途中でもバスが捕まりそうなので安心して?進む。

 今後2日間雁行することになる鏑川(やぶかわ)沿いには所々に水場があって嬉しい。川の中の巨岩の上に、丸い2個の岩が並ぶ夫婦岩は、雌岩と雄岩の間に微妙な距離があった。
15時40分過ぎに、やっと本宿に到着する。追分宿からここまでの24kmは全く宿場がなく、江戸時代のお姫様は大変な健脚揃いだったようだ。バス停前には当初宿泊予定だった旅館(一昨年で廃業)の建物がそのまま残っていた。

 15時52分初のバスに乗車、スクールバスの帰りの時間のため、無料とは有難い。乗客は我ら6人だけだった。
20分ほどで下仁田駅前終点に到着し、酒屋で焼酎1・地酒2本を買い足してから、徒歩5分の本日の宿・割烹旅館下仁田館に入った。
 2人ずつ3部屋に分かれて荷物を解く。早速幹事部屋のテーブルに、ツマミと瓶ビール数本を整えて、先ずは無事の到着を祝い、2人ずつ入浴する。本日の客は我らのみ。

 6時からの夕食は食堂で、冷酒を人数分+αを頼む。地元特産の蒟蒻煮始め、味が濃い野菜やきのこが盛りだくさん。目玉は地元の釣り人が富山県の三面川で入手した天然鮎が各二匹。すっかり満腹になり、購入済みの4合ビン3本には殆ど手をつけず、早々と床に就いた。


<10月12日(金)姫街道歩き第二日(下仁田駅〜本宿〜下仁田宿〜一宮宿〜宮崎宿〜富岡製糸場まで29km)>

 すっきりと目覚めて、7時におかずたっぷりの朝食をしっかりととる。ご機嫌の女将さんに見送られて8時前に出発。
駅前から8時10分発のバスに乗車した。今朝はスクールバスの時間を過ぎていたので各200円を支払い、9キロの坂道を15分で上り返し、再び本宿で下車する。

 昭和50年代にバイパスができたため、古い町並みがそっくりと残っている。
昨日に続き雲ひとつない青空で、吉田&村谷は早くも日傘を取り出す。
 左手の長楽寺に立ち寄って、道中無事を祈願した。
昨夜の飲み残した瓶3本は、村谷&山内が分担して背負った。

 国道に合流した先に西牧(さいもく)関所跡。旅人のみならず、佐久から米などを市場があった本宿や下仁田へ運ぶ重要な通路だったという。
続いて永楽寺に立ち寄ったが、本堂裏の丘の上に立つ芭蕉句碑「涅槃会や 皺手合いする 珠敷の音」は重い荷物を背負った長距離の歩きが残るため省略。

 旅の駅「下仁田こんやく観光センター」で最初の休憩。全員が蒟蒻入りアイス(230円)を食べたが、ヘルシーで甘味が程よく、東京でも売れそうと感想が一致した。

 高台にある下仁田歴史資料館(100円)に入館した。下仁田の繁栄を支える蒟蒻が3年がかりで作られていること、葱の美味しい食べ方や、水戸天狗党と高崎藩士との下仁田戦争の歴史、島崎藤村が千曲川旅情の一節を揮毫した詩塚の由来など盛りだくさんの勉強ができました。

 ようやく下仁田の街中に戻ってきたが、まだ行程の3分の2が残っているので、先週祭りが終わったばかりの諏訪神社に参拝して、食堂をさがしたら直ぐに蕎麦処・福田屋があったので入店する。
 町興しで売込み中のカツどんはなかったが、夫々熱い&冷たい蕎麦で腹ごしらえして12時前に出発する。

 ここからは、国道254号線と出たり入ったりの道中になる。
国定忠治の妾の墓がある霊山寺と水戸藩士2名の墓がある本誓寺を過ぎると、旧道になる。
 最高地点までは標高差80m弱と緩やかな登り道で、ごみ処理場と火葬場があるだけで、行き交う人はだれもいない。

 長い下り道を降り立った場所が、上信電鉄の千平駅。ホームで休憩する。
この先では関東ふれあいの道と何度か交差したが、直ぐにわかれてしまうのが面白い。

 非常に立派な山門が残る最興寺の本堂は意外に簡素だった。

 面白い名前の南蛇井(なんじゃい)駅前を通過。自販機で飲み物を補給する。
鳥居脇の表示と本殿の額の文字が異なる鳥房(總)神社では、芭蕉句碑「華に遊ぶ 虻なくらひそ 友すずめ」を見落としてしまった。
 上信越道を潜り抜けて、一転して坂道になる。途中の旧茂木家住宅がある宮崎公園は省略して、上りきった先にある宮崎神社に参拝して一息入れる。
 広い自動車道に復帰して、左手にある上野国一ノ宮・貫前(ぬきさき)神社へ参拝する。長い階段を上りきり更に下りきる難行だが、その珍しい構造から「下り参りの宮」とされる。本殿・拝殿・楼門が国指定の重要文化財だが、修復中で一部しか見られなかった。
 この付近の城主だった前田家御宝塔は禄高1万石を想起させるつつましい造りだった。

 広い境内に車が所狭しと駐車している蛇宮神社を通過すると、富岡製糸場の広大な塀が見えてきた。本日の宿は直ぐ傍なので、明るい色に塗り替えられたレンガ塀の工場をバックに記念撮影を済ませた。

 午後4時、本日の宿である富岡・福助屋旅館に入る。
前の酒屋で購入した缶ビールでカンパイし、交替に入浴する。
 本日の宿は朝食のみなので、5時半に近くの北海亭に繰り出す。生憎下仁田葱は旬前だったが、野菜サラダを皮切りに山・海の珍味を次々に注文して満腹で戻り、幹事部屋に集合して昨日から持ち越した酒瓶をきれいに片付けてから就寝しました。


<10月13日(土)姫街道第三日(富岡宿〜福島宿〜吉井宿〜藤岡宿まで22km)>

 最大の長丁場をクリアーして、本日は家族の下に戻れると張り切って早起きした面々は、昨夜料理人が作って置いたらしい朝食としてはかなり品数が多い和食を平らげて、8時前に宿を出た。

 本日も好天で、吉田&村谷は朝から日傘姿だ。
市街地の一角にひっそりと立つ成田山不動堂に参拝して、道中無事を祈る。見事な漆刻彫刻で飾られていたが傷みが少しでも防げるように、二重の屋根で覆われていた。
 続いて小舟神社に参拝。境内には注連縄で結ばれた夫婦松があるが、間の距離が微妙な具合で却って現実的だという感想があった。
鏑川に架かる橋の袂に小さな「おのれの滝」があり、昭憲皇太后の御製「作りなす 瀧にはあらで面白く おのれと落つる 音の涼しさ」の歌碑が残る。

 富岡大橋を渡り福島宿に入ると間もなく、左手奥に寶勝寺があり立ち寄る。傍を流れる三途川は行基命名とされるが、それを三途橋で渡った。
傍らの姥子堂には行基作の奪衣婆像が残されていた。

 順調に国道を通過して、高崎市の標識が出てきて、ここは旧吉井町
住宅街の裏手に吉井陣屋跡を見つけた後、陣屋の表門を保存している吉井町郷土資料館(無料)に入館する。学芸員の方から立派なガイドマップを頂戴し、丁寧な説明をしていただく。火打石の付け方まで実演してくれた。

 旧道に入ったり出たりしながら、今でも馬庭念流道場が続いている、馬庭駅入り口信号を通過する。
国道が上りに差し掛かる手前にある梨の売店横の草むらで休憩する。自動車で立ち寄った老人男性が我らが軽井沢方面から来たと聴いて、絶句していた。
 代官の過酷な年貢に講義して犠牲になった義民2人を祀った光心寺にも立ち寄る。
藤岡市に入ると吉良上野介が産湯を使ったという陣屋跡

 いよいよゴールが近い。どんどん歩を進めて、1時に里程標がある四丁目四差路にゴールイン。
そのまま群馬藤岡駅に向かい、吉田が調査済みの駅の真ん前にある炭豚亭に入る。
遅い昼食を兼ねて上州豚や上州牛をメインのオカズを、愛想のよい高校生のアルバイト嬢のテキパキした態度に気持ちよく平らげる。酒は生ビール・八海山・芋焼酎など不足なく、お互いの労苦を讃えあいました。

 次回の再会を約して、群馬藤岡駅から南北に分かれて帰宅の途につきました。
吉田兄の周到な計画の下、ハードでしたが充実した3日間を過ごすことができました。

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★2012年10月11日(木)〜13日()「中山道・姫街道(信濃追分〜藤岡)」

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