正午を少し過ぎた曇天下の浅草雷門前には、足元の路上が見えないほど大勢の人たちで賑わっていた。道の反対側にある「亀十」でどら焼きを求める行列も元に戻っている。ようやく、「お祭りみたいに賑やか」(島倉千代子の名曲の一つとされる「東京だよおっかさん」の一節)な浅草に戻りつつあるようだ。
仲見世通りの一本東に延びる裏道を北上する。若者に人気なスイーツ店が軒を連ねていて、特に二店舗ある「浅草そらつき」の店頭にひとだかりができていた。各店ではいずれも店先に椅子席を設けたり、別途に空き店舗をお休み処に提供するなど、歩き食いを防ぐ策を講じているのは、老舗観光地ならではの知恵だろう。
久しぶりに旗を手に持ったガイドさんに案内されている外人団体客に遭遇した。本日は個人を含めて2,3割が外人観光客と推定。
村谷は、最初に江戸三十三観音一番札所である浅草寺に参拝する。早くも大化元年(645)年に観音堂が建立された江戸最古の名刹だ。長い行列の横から素早くお賽銭を投入して退出する。広い境内にはいくつもの屋台が出ていて、いずれもなかなか忙しそうだ。
久々に西参道を歩く。頭上にはアーケードが設置され、足元は木製という風情ある道で、両側の店もかなり個性的。
WINDSに突当り南下する。ロック座のチケット売り場前には、午後からの開演を待つファンが数人並んでいた。
行列ができていない浅草東洋館前を右折して国際通りを横断した(地下にはつくばエクスプレス・浅草駅の構内が広がる)。
ここから町名が浅草から西浅草に変わる。
渡った正面に明治28年(1895)創業のすき焼き「今半国際通り本店」があり、その少し先にはその7年後の明治35年創業の「どぜうの飯田屋」と老舗が続く。村谷が珍しかったのは眼鏡クロス200円を売っている小さなお店だ。
四種類のカツサンドがセットされたのが人気の栃木屋精肉店の先が合羽橋交差点。都電歩きでお馴染みになった合羽橋通りへ左折し南下する。人・人・人で溢れていた浅草からようやく解放されてマスクを外した。合羽橋道具街は予想以上に空いていて、飯田屋の店先以外は買い物客・冷やかし客の姿は少ない。
交差点のすぐ西側歩道にぴかぴかの黄金のカッパ像が設置されていて、若い女性二人がスマホで撮影していた。
隣接する二番札所・清水寺(せいすいじ)に参拝した。門扉が少しだけ開いていて、本堂は階段を上がった二階にあり、千手観音が鎮座している。天長6年(829)創建の古刹で、明暦の振袖火事(1657)で現在の場所に移転したという。
菊屋橋交差点で浅草通りを横断し、引き続き新堀通りを南下する。通りの右手は元浅草、左手は寿に町名が変わり、左側歩道を歩く。「喫煙可」と看板が出ているのは「酒蔵駒忠浅草店」、時流に迎合するのを良しとしない気風の良さに感動する。
三筋2丁目交差点で春日通りを横断する。町名は右手が三筋、左手が蔵前に変わった。交差点すぐの店先に「川柳発祥の地」の碑がある。江戸期に川柳を確立した柄井川柳(1718〜90)は当地名主の出で、その辞世は「木枯らしや 後で芽を吹け 川柳」とされている。菩提寺は以前のYSC散歩でも参拝した春日通りに面した
天台宗の金剛山薬王院龍王寺で、偶々現在の住職様とは平成初期の村谷の現役時代に面識があり、幾度も杯を交わしたことを思い出す。
すると柄井川柳のお導きなのか、蔵前橋通りに突き当たる蔵前4丁目交差点で、本日最初のマスクなし美女に遭遇した。金髪・色白の白人女性で、ふっくらとした体形に大きめのサングラスがよく似合っている。
気をよくして江戸通りを南下する。日差しが出てきて青空に変わったが、夏場ほどではない。町名は西側が浅草橋に変わり、東側もやがて柳橋になっていた。
右手歩道に移り、本日は観音霊場以外は立ち寄らないつもりなので須賀神社は遥拝して通過する。
浅草橋駅近くに行列ができている店があった。当地に数多い中華店の中でも人気No1の「水新菜館」で、とりわけ小籠包が評価が高いという。故塩路兄らと訪れた台北の人気店「鼎泰豊」や「杭州小籠湯包」などを思いだす。
JR総武線を潜り抜けて、柳橋で神田川を渡る。橋の両側には屋形船が数席停泊中。コロナ禍の初期には気の毒にも悪役扱いされていたが、その後はお客が戻ってきているようだ。
江戸通りと分かれて靖国通りを東進し、両国橋で隅田川を渡った。スカイツリーが青空にくっきりと映えている。
橋を渡った袂にある享保3年(1718)創業のしし鍋の名店「ももんじ屋」は、無事に営業が復活していた。店の壁面にはサンプル?の猪三頭がぶら下がっているのが懐かしく感じられる。
続いて、四番札所・回向院に参拝する。明暦3年(1653)の振袖火事で亡くなった人たちを弔うため、徳川五代将軍綱吉が建立した。重い扉を開けて本堂に向かうと無人だったので、ゆっくりとお参りしてから退出する。
京葉道路へ戻り、少し東進してから右折、南下する。
塩原橋で堅川を渡る。頭上には首都高速7号線が走っていて、右手にある一之橋との間に遊歩道ができていた。橋の名前の由来は、講談や浪曲にその名を遺す立志伝中の炭商・塩原太助と愛馬・青の物語で広く知られている。
その先で同好の志らしい街歩き姿の数人のグループと遭遇、こちらの方が若いのでお先に失礼した。
新大橋通りに突当り右折、隅田川を渡り返し、隅田川テラスに沿って浜町公園に入る。
YSC散歩でしばしば昼食に利用していたテラス上のベンチの入り口に鎖が張られていて、本日はバーベキュー場として貸切中。肉の焼ける匂いとアルコールの香りが漂ってきて、ここにも日常が戻っている。
浜町公園を通過して甘酒横丁に入る。店先に置かれたお洒落な木製のベンチに、スマホをいじっているマスクなし美女を発見。プラチナブロンドの髪にとび色の瞳の白人女性で、すらりとしたプロポーションは、まるで女優さんのようだった。
さらに進むと道端の椅子や手すりに座り込んで何やら食している人たちが十人近くいる。麻布十番の「浪花家総本店」、四谷の「わかば」と並び、東京三大たい焼きの名店の一つとされる「柳屋」の店先だ。1916年の創業で、人形町にふさわしくノスタルジックな外観が江戸情緒を醸し出している。広くない店舗の通路にも、出来上がりを待つ長い行列ができていた。お客が注文してから焼き始めるスタイルのため、どっしりとした小豆の存在感とぱりっとした皮の存在感との組合せが絶妙だ。
人形町通りを一旦横断し、一本右手の小路まで寄り道してから右折北上する。
親子丼の行列店「玉ひで」の北側に当たる通りに、昨年6月のオープンながら一躍人気店となった和風居酒屋「寅次郎」がある。昼間は一夜干定食屋「寅次郎食堂」として「大あじ開き880円」など1,000円以下の定食を、夕刻からは「お刺身・名物もつ鍋・焼き鳥など全6品3,500円」などの割安なコース料理を提供している。
その先に残された狭い芸者新道を右折する。江戸期には芳町花町といわれ歓楽街・飲食街として栄えた場所を通る道だった。人形町通りとの合流点の手前に、三番札所・大観音寺(おおかんのんじ)があり、階段を上がって広くない本堂に参拝した。創建は明治13年(1880)ながら、鎌倉期に北条正子が創立した扇ケ谷新清水寺の本尊で、高麗の名工が作ったという五尺の青銅製首像を廃仏毀釈から守りご本尊として護持している。また、東日本大震災が発生した直後に、真正面を向いていたご本尊の仏頭のみが、右25度の東北方面に傾いていたという事象があってからは、17日に加えて毎月11日を開帳日としている。
人形町通りを北上し、小伝馬町交差点で再び江戸通りを横断した。
五番札所・大安楽寺(だいあんらくじ)に到着したのは午後1時50分、本日の所要時間は110分だった。明治15年に、小伝馬町牢屋敷跡を明治政府から払い下げられた大倉喜八郎と安田善次郎が、不浄地を浄地にするため建設した寺院で、寺の名前は両財閥の頭文字を一つずつ取り入れたもの。繁華街に新設されるため、火災防止の観点から土蔵造りが条件とされた。また、四百坪の境内には、運慶作とされる弁財天像が安置されていて、仏像とは思えない生々しい表情が人気になっている。
弘法大師様にお礼を申し上げてから、目の前の十思公園で遅めの昼休憩。まだ、冷えた缶チューハイがおいしく、レモン入りベビーチーズとチョコナッツをつまみに大30分間のリフレッシュ、第一回の札所巡りを終了した。
次回は、「上野・谷中エリア」にある七寺院を歩く予定。(村谷 記)
。
このページのトップへ戻る
前のページへ 次のページへ
.
.
.
.
.
.
★2022年10月15日(土)「江戸三十三観音札所巡り 第1回(浅草寺〜清水寺〜回向院〜大観音寺〜大安楽寺)」