猛暑が続き、しばらく間が空いたが、村谷は旧都電路線巡りの続き、30系統路線散歩を行った。
暑さ対策として、すでに歩いた部分はできるだけカットして、午前中に歩き終えることとした。
都電30系統は東向島3丁目から須田町まで歩いても6.8km、さらにそれを菊屋橋まで短縮した。全路線が廃止となったのは昭和44年(1969)10月26日だった。
久々に東武亀戸線に乗車し、伊勢崎線(スカイツリーライン)と合流する終点・曳舟駅までの乗車時間は、始発の亀戸から8分間。
改札を出て、すぐ前を颯爽と歩いていく白一色のお洒落なドレスに身を固めたスリムなお嬢さんに導かれてついていくと、出発予定地の東向島3丁目交差点に到着していた。ここから本所吾妻橋までの間が「向島線」だった。
まずは南西方向に水戸街道を下っていく。早速マスクをポケットに仕舞いこんで東側歩道を歩きだしたのが午前10時。斜め左からの強い日差しはちょうど建物が遮ってくれる。昨日よりは風が感じられるものの、汗が額から滴り落ちてくる。
東向島1丁目交差点を渡った少し先の左手奥に社殿が見えたので立ち寄った。火伏の神様・秋葉神社だった。山内・西・清水との4人で、秋葉山本宮秋葉神社まで車で行き、森町に一泊して掛川城まで歩いたことを思い出した。
当地では向島の秋葉さまと親しまれ、紅葉の美しさは「江戸名所図会」にも描かれた。特に大奥の信仰を集めたのは、秋葉権現社参拝の名目で、日帰り遊覧の外出ができたからだという。また、境内の神泉はご利益があり、社前の料理屋「大黒屋」で供される隅田川産の洗鯉として評判だったという。
参道横にあるコンビニで玄米茶のペットボトルを購入し、早速一口飲む。
向島2丁目交差点を越えた先で、左手のマンションから黒一色に着飾った若いスリムな女性が足早に颯爽と出現。本日は白と黒との若い女性のコラボレーションが楽しめた。
言問橋東交差点で水戸街道とお別れし、そのまま三ツ目通りを直進する。ここまでにすれ違った人・自転車は十数人、その中でマスクを着けていなかったのは二人だった。
源森橋で東武伊勢崎線を潜り、北十間川を渡る。右手にはスカイツリーがくっきりと聳え立つ。
吾妻橋交番前交差点で浅草通りに突当り右折する。この先は上野駅前までが「吾妻橋線」だった。
一気に人の流れが多くなり、日陰になる南側歩道を選んだ。
吾妻橋1丁目交差点は清澄通りの起点にもなっているため五差路で、横断には時間がかかる。
吾妻橋東詰交差点を渡ったすぐ先にある歩道が首都高速向島線の下になっていたので、水飲み休憩。
吾妻橋を渡り、江戸通りを横断すると行列ができている。女店員さんが列を整えていて、「 亀十 にお越しの方はこちらにお並びください」と案内中。お目当てのどら焼き(1個360円)は東京三大どら焼きの一つで、大正末期から保存料や添加剤を一切使用せず、今や一日に3,000個を手作りするという。
浅草通りは 雷門前で直角に左折する。その角に浅草文化観光センターがあるので、クールダウンを兼ねて入場する。2階に上がり、展示されていた観光パンフレットを収集した。窓越しに雷門の正面が眺められる。普段の土曜日と比べると人出が少ないようで、眼下では人力車のお兄さんやお姉さんたちが一生懸命にお誘い中。
一息入れたので地上に降り立ち、浅草通りを南下し、駒形橋西詰交差点を直角に右折し西進する。日差しは一段と強まってきたが、ゴールは間もなくだ。
寿4丁目交差点で国際通りを横断。
午前10時45分、菊屋橋交差点に到着した。
そのまま合羽橋道具街通りを北上するが、人出はパラパラ状態で、お店の人も手持無沙汰のようだ。
通りから一本西に入った所にあるYSC散歩でもおなじみの休憩場所・松葉公園に向かう。平日は近くのサラリーマンやサラリーウーマンたちの格好の昼食場所なのだが、本日は地元の人たちが二、三組だけが木蔭で休憩中で家族連れの姿もない。
村谷も桜の木の下にシートと新聞紙を広げ、早めの昼休憩。いつもの服装になり、首には保冷バックで冷やしておいた冷却シートを巻く。キンキンの缶チューハイが何よりのご馳走だ。昼食は帰宅後の予定もためつまみはチョコナッツのみ。大30分間の休憩を終えて、帰途に着いた。
次回は31系統(三ノ輪橋〜旧都庁前)を歩く予定。(村谷 記)
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★2022年7月2日(土)『旧都電路線巡り「30系統(東向島3丁目〜須田町)」のうち東向島3丁目〜菊屋橋』