村谷は一昨日に引き続き、梅雨の合間を使い旧都電路線28系統路線散歩を行った。(旧都電路線27系統は旧都電路線32系統とともに荒川線の一部として現役路線)
28系統は旧都電路線の中でも屈指の人気路線で、最盛期の昭和35年ごろには1日で200回運行されていた。
隅田川の東部地区は鉄道の便が悪く、北部にJR総武線と京成本線が走っていただけで、総武線にしても明治後期に建設されたときに、住民の反対で千葉街道を中心とする市街地からかなり離れた北側に線路が引かれたという経緯がある。昭和42年に東西線が中野〜東陽町間に開通して次第にその役割が減少してゆくが、住民の支持は根強く、最後まで残っていた7路線の一つだった。道路の幅員も広く熱心な存続運動が行われたにも関わらず、都電荒川線(27系統+32系統)とは異なり専用軌道がなかったため、昭和47年(1972)11月12日に廃止された。
本日は四ツ目通りを南進し、東陽町駅前から永代通りを西進する。予報とは相違して日差しがなく、海風が正面から吹いてくれている絶好のコンディション。
100円玉の値打ちが十分に発揮される魚寅本店で買い物を済ませてから、正午に雑踏の錦糸町駅前を出発する。現在は地下には東京メトロ半蔵門線が走り、当時は東陽公園前までが「猿江線」だった。
始発からすぐ100m先の京葉道路を渡った場所が二つ目の錦糸堀車庫前停留所だった。いくつもの路線が集中する錦糸町駅前には、広い都電の車庫が必要だった。現在はその一部が都バスの江東車庫として使用されている。以前は停留所横に城東電気軌道の本社ビルがあった。
停留所間の間隔が短いのも28系統の特徴で、主な交差点付近には必ず停留所があった。毛利2丁目交差点で人の流れが少なくなったのでマスクをしまい込む。日を追うごとにマスクをしていない人が増えてきた感じがするものの、依然として少数派だ。
住吉2丁目交差点で新大橋通りを横断する。通りの下には都営新宿線が走っている。
猿江2丁目交差点の左手にあるライフには、買い物客がひっきりなしに出入りしている。ノーマスクは1割弱だ。
小名木川橋で小名木川を渡る。2019年10月、加瀬兄の肝入りで船旅を行ったことがあった。
扇橋2丁目交差点で清洲橋通りを横断し、半蔵門線もそちらに右折する。右手前には4月22日にオープンしたばかりの元祖豚丼屋TONTON住吉店がある。本場帯広の店が、長野・愛媛・大阪に続いて北海道外に4店目を出店した話題店だ。30分内完食無料のてっぺん盛り(3,980円)が注目の的。
千田、千石2丁目交差点を通過し、豊住橋で仙台堀川公園を跨ぎ超える。
イースト21の手前で横十間川を越えた。ここまでの流れはいずれも人工河川で、それゆえに深川を「東洋のベニス」と呼ぶ人もいたようだが、5年ほど前の上海・江南旅行で訪れた 蘇州 や 同里に失礼にあたるかもしれない。
都立深川高校からは、グラウンドでのサッカー部員たちの掛け声や校舎からの楽器演奏の音が聞こえてきた。
右手のコンビニで麦茶のペットボトルを購入し、すぐ先の東陽公園に入った。時刻は12時30分、広い園内は家族連れがそれぞれ昼休憩を楽しんでいる。空いていたベンチに腰を下して、チョコナッツを二齧り。隣で、祖父・娘・孫の3人が「バスなら一本だから、これから豊洲のイタリアンのお店にいきましょうよ」と相談中。
東陽公園を抜けて永代通りに出て右折西進する。ここからは「洲崎線」だった。車の往来は平日の3分の1程度か。
沢海橋で大横川を渡ると、木場駅前。左手奥にある洲崎神社は遥拝した。神社東側の東陽1丁目一帯には明治20年に根津から移転した洲崎遊郭があった場所だ。
木場5丁目交差点は、いつもの通りの長い信号待ち。首都高速9号線の出入り口にあたるためで、本日はトラックよりもマイカーが優勢のようだ。平久川を渡る付近で、再び車列が少なくなる。
富岡八幡宮に立ち寄る。例の事件以来、参拝客が少ない状態に変わりがない。村谷は子供たち・初孫にかかわる諸々のイベントはすべてここで済ませており、その後何らの不祥事も生じてはいない。
境内の一角で江東区の観光資料を配布していたので、最新版の「江東区イラストマップ」 ・ 「江東区観光周遊MAP」 ・ 「江東区の七福神めぐり」の3種類を頂戴した。
続いて深川不動尊に行くと、本殿の正面の階段下に弘法大師と興教大師の祭壇が祀られている。それぞれの誕生日が6月15日と6月17日でそのお祝いも兼ねているという。長年この不動尊に参拝してきたが、初めて知った次第。丁重にお参りしてから、参道に引き返す。
門前仲町の地名の由来となった古刹・永代寺にも参拝した。不動尊とは異なり、他に参拝客はいない。
西参道に右折すると、角にある酒場は昼のみ客で込み合っていた。
深川公園のはずれにあるイタリアンレストランも、店の外の席まで埋まっている。
清澄通りに突当り左折し、門前仲町交差点で永代通りに復帰した。
永代2丁目交差点で葛西橋通りを横断。
永代橋を渡る。ここからは「千代田橋線」だった。この橋は江戸前期の元禄11年(1698)に大川に架橋された数少ない橋の一つ。元禄15年(1702)の忠臣蔵で有名になった赤穂浪士が渡った時は、今より100mほど上流に架橋されていた。1804年の富岡八幡宮祭礼時に大勢の参拝客が詰め掛けたため、落橋して「永代と かけたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼」と言われた。その後1897年に日本初の鋼鉄製の橋となり、1904年に路面電車が敷設されたという歴史がある。
新川1丁目交差点先で霊岸橋を渡る。
午後1時半、茅場町交差点を通過する。甘いたれがかかった大ぶりのかつ丼(1,300円)がおいしかった蕎麦屋・長寿庵は明治40年(1907)創業の老舗で、もちろん今も健在だ。
都心環状線を潜り抜け、江戸橋1丁目(昭和通り)、日本橋(中央通り)、呉服橋(外堀通り)の各交差点を渡り、JR各線を潜りぬけて、丸の内1丁目交差点で永代通りとお別れする。ここから先は「丸ノ内線」だった。
線路と東京駅の駅舎に沿って南下する。中央線高架下の商店街は、なか卯だけが営業中。
丸の内北口、丸の内南口へ進む。南口改札から出てきた人たちが、信号を渡って次々にKITTEへ向かっていく。全国の様々なグルメの名店が入っていて、村谷は「回転寿司 根室花まる」が気になっているが未訪問。
線路沿いに南下する。はとバス乗り場はすべて盛況で、バス到着待ちの列ができていた。対照的に自衛隊東京大規模接種会場行のバス停は無人で、係員たちが手持無沙汰だった。
鍜治橋通りを渡って、東京国際フォーラムへ午後1時50分に到着した。
線路を潜り抜けて外堀通り出て右折、銀座1丁目交差点を左折し、都心環状線の南側を東進し、ホテル西洋銀座前で中央通りを横断した。
目指す昼食休憩場所である京橋公園に向かう途中で、水谷橋公園を発見、エレベーターで屋上に出ると、近隣住民のご家族・土曜日出勤を余儀なくされている勤労者の皆さんが休憩中。 2020年4月にリニューアル開園された人工庭園で、中央部には芝生がたっぷりと確保されている。石の椅子にシートを広げ、芝生に足を投げ出して大休憩。いつものリラックスした服装で、よく冷えた缶チューハイを一口、汗も足の疲れも一気に吹き飛んだ。チョコナッツ・はつみつカリントウ・バナナをつまみに、じっくりと文庫本を読み、本日の歩きを締めた。
次回は、29系統(葛西橋〜須田町)を歩く予定。(村谷 記)
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★2022年6月18日(土)『旧都電路線巡り「28系統(錦糸町駅前〜旧都庁前)」』