湾岸地域には にわか雨の予報が出ているので、村谷は短時間で回れる足立区最北部の伊興七福神巡りを行った。
この七福神めぐりが始まった時期は不明だが、伊興および東伊興の4寺を巡る。
午前11時40分、東武スカイツリーライン・竹ノ塚駅に到着、西口から出発した。曇天・微風という絶好のコンディション。
七福神ながら1寺で1or2or3福神をお祀りしているので、参拝は4寺のみ。
尾竹橋通りを北上し、埼玉県との境を流れる毛長川に近い法受寺に向かう。
正歴3年(992)に現荒川区下尾久に創建された古刹で、関東大震災後に浅草安養寺、下谷法受寺と合併して当地に移ったという。布袋尊が祀られている。通り沿いは広い墓地で、その間を抜けて本堂にたどり着く。
何故か徳川綱吉の生母・桂昌院の供養塔がある。京都の八百屋の娘として生まれ、その美貌で徳川家光の側室となり、元禄15年(1702年)には女性最高位の従一位の官位を賜るほどに上り詰めた。その前年の12月に松の廊下の刃傷事件が発生したのだが生母の昇進朝廷工作の真っ最中で発生したため、怒りに駆られた綱吉が赤穂家に過酷な処分をして、忠臣蔵を招いたものだとすれば、結果として罪作りな人だったのかもしれない。供養塔は他の墓よりは立派だが、豪華なものではなかった。
尾竹橋通りを少し南へ戻り返し、東武バス竹の塚車庫手前を右折、舎人公園北通りを西進する。
東伊興小前交差点で、YSC散歩で歩いた赤山街道を横断する。
伊興中北交差点で左折し、南下する。
右手に児童公園があったのでベンチに座り、チョコナッツ&お茶休憩。先ほどのお寺からここまでまだだれ一人ともすれ違わない。
伊興小学校の先左手に大きなお寺が出現、大黒天・毘沙門天・弁財天の3福神を祀る実相院だ。天平年間(929年−949年)に行基上人が創建したとされ、源頼家・義家父子が奥州征討の戦勝お礼に寺領を寄付したという。
参拝を終えて交差点を渡った目の前が、寿老人と福禄寿を祀る福寿院。境内は全面的に幼稚園の敷地となっている。入り口の扉は手動で空いたので園内に入った。ちょうど昼食時なので、園児たちが手洗いなどで走り回っていた。入ってすぐ右手に、まだ木の香も漂いそうな弘法大師堂がありお参りする。その先の小ぶりな本堂の前には修行大師像があり、再びお参りした。
その足元に木製のベンチが2台設置されていたものの、この雰囲気では腰を下ろして休憩するわけにもゆかず、退出した。
さらに南下する。道が急に左右にうねるように曲がっていて、電信柱の住居表示を見ると「七曲り」と記載されている。
伊興学習センター交差点の右手先に4番目の源正寺があるはずだが、道が入り組んでいて見つからない。その時、反対側からベビーカーを押しながら散歩中らしい若いママさんが出現。地図を見せて尋ねたら「そういえば、この先の美容院を曲がったところにお寺らしい建物がありますよ」と教えていただく。
四国遍路の時には何回も経験していたが、ここ江戸の遙か郊外の住宅地で出会えたのも御大師様のご加護だ。
鎌倉時代創建とされる時宗の古刹で、天文20年(1551年)に真言宗に改宗し、現在の名前になったという。恵比寿神が祀られている。
時刻は午後12時40分、1時間の行程だった。
ここから竹ノ塚駅までは1キロ未満の距離だが、歩き足りないので舎人公園を目指すこととした。
さらに住宅街を西進すると、昼食を終えて下校時らしい西新井第二小学校の生徒の一団とすれ違う。昭和の時代とは異なり、大きくて立派、カラフルなランドセルがまぶしく映る。
広々としてほとんど人の姿が見えない諏訪木東公園、諏訪木西公園前を通過、正面に日暮里舎人ライナーの高架線が見えてきたので右折北上する。
舎人公園の一番南側にあるCゾーンに入った。
あちらこちらに散歩や昼休みの人たちがいたが、広大な敷地で休み場所には困らない。芝生の一角に腰を下ろして昼休憩。帽子・背中のタオル・靴下・ベストを脱ぎ去る。冷えた缶チューハイがのどにしみて、一気に疲れが解消。
帰途は、舎人公園駅から日暮里舎人ライナーに乗りました。(村谷 記)
このページのトップへ戻る
前のページへ 次のページへ
.
.
.
.
.
.
★2021年11月18日(木)「伊興七福神巡り(竹ノ塚駅〜舎人公園駅)」