※2014年1月14日にも浦賀湾あたりを歩きました。
※2010年1月17日にも浦賀湾あたりを歩きました。
<7月21日(火)梅雨明けの浦賀散歩(浦賀駅から周遊)>
文字通り雲一つない京浜急行・浦賀駅改札前に、小林・田幸・清水・村谷の4人が集合した。
駅前には夏休みを迎えた女子中学生の一団が、ビーチに向かう姿で15人近くがピーチク・ガヤガヤと大集合して何処かへ出発。
残された我らは蝉しぐれに背中を押されながら出かける。心地よい海風がお出迎え。
絶壁が住宅街のすぐそばまで迫り、対照的に海岸が急に深くなっている地形は神戸によく似ているとは詳しい清水からの指摘だった。広大な 浦賀ドック の敷地が広がる。
まずは 浦賀道 に沿って南進すると、右手に 大衆帰本塚の碑 。ペリー来航に伴う浦賀開港に際して、撤去を余儀なくされた村々の社を、当地の奉行が江戸の漢学者に依頼して篆書で残した遺跡とのこと。幕末でも住民の心を思いやる為政者が存在した事実に心を打たれる。
参考:160年前の黒船来航の足跡を探しに浦賀訪問の(「Dakusai's Blog」さんのページ)
その先の郵便局脇から 旧道・浦賀道 に入る。
東西両社にお参りするとご利益あらたかとのことで、先ずは (西) 叶神社 へ。平日でゆっくりとお参りできるかと思ってきたが、何やら人だかりができている。外人男性と日本人女性の婚姻の儀式が執り行われていて、親族や友人の方々で狭い境内が一杯だった。
リーダー?仲人?の男性から、「参拝の皆様のために少し中断しましょう」との言葉があって、我らもお祝いの言葉を述べながら、本日の好天と適温・微風をお願いして退出する。
回船問屋の跡という商店のご主人に入り口を確認したのち、右手の 愛宕山公園(浦賀園) への階段を上る。
この港から明治維新をリードした数々の人材を送り出した 咸臨丸出航の碑 を読んでから山頂に登り、トイレと水道が近い木の下で休憩とする。
初の猛暑日に近かった東京とは異なり、キンキンに冷やした缶ビール・田幸提供の地元産トマト・清水持参のミント一杯の冷やしタオル・絶好の海風に感謝して乾杯。
その後はお決まりのヘルシーなつまみを冷やして、村谷が温めたりして平らげる。大正生まれの親世代の頑健さが今回の主な話題だったが、及ばずとは言いながら我らも近づきたいもの?と締めくくった。
蚊取り線香の効果は今回も十分のようだ。
急階段を慎重に下山して、さらに西進する。八丈島に流された源為朝をまつる 為朝神社 に参拝。
その少し先には、江戸の入り口を監視した 浦賀奉行所跡 との掲示物があった。
海岸沿いに戻ると眺めの良い場所に東屋があったが、当地の男性たちが昼休み中だったのですぐ先の 陸軍桟橋跡(「神奈川県立横須賀高校OB 1956年(昭和31年)卒業 八期会 」さんのページ)に進む。先の大戦後には南方方面を中心に56万人の引揚者が帰還した地との標示があったが、あまりにも狭くて、「岸壁の母」知られるで舞鶴との落差を感じてしまった。
少し先には浦賀奉行所が開設された享保5年(1720)当時に開設された 浦賀の渡し がある。
当時は「入鉄砲・出女」を厳しく詮議したそうだが、今は150円で絶好の涼風が楽しめる。
乗船時間が短すぎて残念だが下船。
(東) 叶神社 にも参拝して、4人とも大したお願いはないので今後の無事だけお祈りする。
吉田松陰が長州から、そして佐久間象山が信州からそれぞれ当然徒歩で当地に来て、黒船を見るために訪れたという 徳田屋跡 を見て、維新を支えた若者たちの熱情を受け止めて進む。
右手のいくつかの寺社は訪問済みのため省略して、暑い日差しをドックの塀の影で遮りながら浦賀駅にゴールイン。
駅前に、大阪の串焼きの店も開店済みだったが、電車で三浦海岸駅に転進する。
午後2時過ぎにいつもの 「海鮮」 に入店。海水浴シーズンが始まっていたので、若者たちで込み合ってはいたが程なくボックス席が空いてラッキー。
先ずはそろって生ビール。続いてまだまだうまい生サバ中心に、タコや貝類などを心行くまで堪能して締めました。(村谷 記)
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コース
京浜急行本線・浦賀駅〜大衆帰本塚〜浦賀ドック横〜愛宕山公園〜西叶神社〜愛宕山公園〜為朝神社〜浦賀奉行所跡〜陸軍桟橋〜浦賀の渡し(対岸に渡る)〜徳田屋跡〜東叶神社〜浦賀駅
<歩行距離:5km、歩行時間:1時間30分>
※京浜急行電鉄・三浦半島きままに散歩「浦賀駅周辺」を参照して歩きました。
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★2015年7月21日(火)「開国の港 浦賀」