★2007年10月1日(月) 「小江戸 川越」
引っ切り無しに乗降客が行き来する、東武東上線・川越駅改札口に集合したのは、庄司、滝澤、初参加の左近、山岡、田幸、村谷の6名。
本日より郵政公社になったATMがあるマインの横から歩道橋を織り、先ずは川越八幡宮に向かう。
境内の大半が駐車場になっていたのは、ロケーションからして止む無しの感はあるが、裕福な川越には相応しい壮麗な本殿に、一同、本日の旅の無事を祈願する。
丸広百貨店本店脇から、先般、天皇陛下が中国の温家宝首相と散策をスタートされた西武新宿線・本川越駅前を北上し、川越七福神のひとつ、連馨寺に参拝する。
子育ての呑龍上人の像が安置されていたが、境内には出産とは無縁の中高年ばかりとは、どこのお寺も同様だ。
同じく七福神の一つ、妙昌寺に参拝した後、広い墓地の先から新河岸川に出た。意外に細い流れだが澄んでいて、大きな鯉が泳いでいた。
黄金橋を渡り返して、中央通に向かう。左手に西洋風な星野学園があったが、確認はしていないが、後で 星野山無量寿寺喜多院に縁がある名門校だと推測することになる。 ← 管理人付記:推測の根拠は?”星野”??
仲町の交差点からは、蔵の町並みが続く。国道であるにも拘らず、道の両側の高さが統一され、電柱が地中に埋設されているのは、パリのシャンゼリゼと全く同じで、伝統を守り抜く姿勢は万国共通であると一同感じ入った次第。
休日明けで、美術館・博物館などの休館が多い月曜日だが、我ら同様、中高年のウォーカーが、店先に溢れていた。
時の鐘から懐かしい 第八十五銀行→埼玉銀行→埼玉りそな銀行・川越支店のレトロな店舗は、未だ健在だった。
蔵の町並みから路地を左折して、菓子屋横丁へ向かう。
明治の初め、鈴木藤左衛門が、江戸好みの気取らない駄菓子を製造したが、大正12年の関東大震災で都内の神田・浅草・錦糸町の業者が被害を受けたため、盛んになったという。
現在では、10数軒が手作りの生菓子や飴菓子が売られていて、思わず買い込んでしまう。
札の辻交差点に戻ったところで、正午の時報が鳴ったので昼食休憩場所を探しながら進む。
少し先の太田道灌像の建つ市役所前の、市役所職員ご用達の中華料理店に入り、六人六様の注文をして足を休め、料理を平らげた後、出発。
残念ながら、市立美術館・博物館・本丸御殿は休館だったが、初雁球場の秋の高校野球の歓声を励みにして、小高い富士見櫓跡に登頂した後、本日のメイン・喜多院へ進む。
七福神のひとつ、成田山別院を先に参拝してから、星野山無量寿寺喜多院へ。
五百羅漢と共通になっている入場券、金400円也を購入し、打ち揃って入場する。
過去数度にわたり火災で消滅したがすぐに再建されたという歴史が物語る趣深い建造物で、特に川越初体験の滝澤&村谷は強い感銘を受けたようだ。
奥深い庭園には、初秋の草木と花々が落ち着いた風情を漂わせている。とりわけ、入り口近くに展示されていた関東地区の各街道の図は、当時の文化・人物・物産の交流状況がよく表されていた。
地元埼玉ケーブルテレビの取材の邪魔をしないように、早々に退散し、仙波東照宮から中院に向かう。訪れる人が少ない分が、静寂さを良く保っていた。
江戸初期に絶大な権勢を誇った天海僧正が出現するまでは、こちらがメインだったとは、いつの世も変わらぬ勢力の興亡が窺われる。
2時半を過ぎたので、駅方面に路地道を急ぐ。レンガ造りの真新しい豪邸や、高層マンションが目立ち、活気が感じられた。
道の先に、山岡が1軒の暖簾「焼き鳥 居酒屋・大 (Big) 」を発見し、午後3時の開店までにはまだ少し時間があったが無事に入店を許される。
先ずは生ビールで乾杯、本日の労苦?を慰労しあう。
売り物の焼き鳥ほか、各種のつまみは文句のつけようがなく、さらに、札幌や横浜など同時期に勤務した思い出話で大いに盛り上がり、楽しい時を過ごして、散会した。(村谷 記)
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コース
JR川越線、東武東上線・川越駅〜川越八幡宮〜丸広百貨店〜連馨寺〜妙昌寺〜新河岸川〜法善寺〜蔵づくり一番街〜菓子屋横丁〜札の辻〜初雁公園〜成田山別院〜川越城本丸〜喜多院〜東照宮〜川越駅
<歩行距離 約5km>
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