<12月9日(土)第2回台東ぶらり散歩「広重の江戸百景を巡る(その2)」+「朝倉文夫の作品を訪れる」(御徒町〜上野〜浅草)」>
小春日和に誘われて家での断捨離作業は中断し、標記散歩を行いました。
午後1時に御徒町駅を出て春日通りを西進し、上野広小路交差点で中央通りに右折した。安藤広重の「名所江戸百景」には、明暦の大火(1657)を機に江戸市中に設けられた広小路の一つ『下谷広小路』として描かれている。将軍の寛永寺への参詣道として、本郷から浅草・本所に向かう道として大いににぎわったという。本日も好天下の買い物や散策を楽しむ人たちで込み合っていた。
上野4丁目交差点まで北上、正面に上野の杜が出現。常緑樹の巨木群のてっぺんに、まっ黄色なイチョウの一部がのぞいている。広重は、『上野山下』として、下谷広小路から続く見世物小屋などの娯楽施設を描いている。落語発祥の地でもあり、現在も寄席がある。
階段を上がり上野公園に入る。
右手の西郷隆盛銅像前では、何組も記念撮影中。
左手のレストランの背に、イチョウの巨木を確認した。
YSC散歩でおなじみの清水観音堂に参拝する。江戸の鬼門に当たる地に京都の比叡山にちなんで、上野の山に「東叡山・寛永寺」を開創した天海僧正が、京都の清水寺を模して寛永8年(1631)に創建した。広重は『上野清水堂不忍ノ池』として描いている。創建当初は、現在地より約100メートル北の擂鉢山上にあり、不忍池を琵琶湖に見立てたという。『上野山内月の松』もよく知られた構図である。
村谷は今からちょうど60年前の晩秋に、高校2年の修学旅行で初めて京都の清水寺に参拝した。晩秋の音羽の滝の前で、同級の女子生徒からお許しを得て写真を撮影した。「冬紅葉 音羽の滝に立つ 乙女」(12月度「こあみ句会にて)。
続いて、日本の近代彫刻家の巨人の一人、朝倉文夫の作品を巡る。東京美術学校 (現東京藝術大学芸術学部)に学んだことから、台東区の各地に多くの作品が残されている。
イチョウ並木の紅葉がまだ見ごろの中を、大勢の人たちと行き交いながら北上する。右手にある「正岡子規記念球場」では熱戦が展開中。この球場は「野球発祥の地」として知られ、子規の幼名「升(のぼる)」にちなみ、ベースボールを「野球(のぼーる)」と訳したという。
動物園方向に左折し、敷地に沿って北上する。
最初の立ち寄りは右手の東京都美術館。門をくぐり『佐藤慶太郎像』を探すが見当たらないので、門横で立ち番していた守衛さんに尋ねる。「建物内のレストランの横ですよ」と教えて下さる。佐藤慶太郎氏は明治初年生まれ。北九州の石炭王と称された実業家で、大正10年に100万円を寄付し、東京府美術館(現東京都美術館)の設立に尽力した。大正15年の開館時に設置された。
守衛さんにお礼を申し上げると、村谷が手にしていたパンフレットを目にして「私も朝倉文夫氏のファンです。頑張っていってらっしゃい」と送り出してくれた。
続いて、隣接する旧奏楽堂に向かう。東京音楽学校 (現東京藝術大学音楽学部)の建物で、コンサートホールがある。建物の左手にある瀧廉太郎像は、昭和25年に彼の故郷・大分県の依頼で制作した。
信号を渡って、東京藝術大学の構内に入った。先月下旬に新奏楽堂で開催された藝大フィルのコンサートで訪れたばかり。構内にはいくつもの銅像が設置されているが、朝倉文夫作の『大村西崖像(昭和3年制作)』と『石川光明像(大正6年制作)』が見当たらない。入口に戻って守衛室に尋ねると、いずれも新奏楽堂の中にあり本日は閉館中。次回のコンサートの際に拝見することにした。
上野駅方面に転進、続々と駅方向から人が詰めかけてくる。
東京文化会館を半周し坂道を下る。高校2年の修学旅行で初めて東京の地に足を下したのがこの場所だった。ここからクラス毎にバスに乗って、本郷の旅館に移動したのだった。
不忍口から上野駅構内に入る。みどりの窓口脇に昭和18年制作の『翼』が設置されている。戦時下のイメージが強い名前とポーズながら、のびやかな姿態は彫刻そのもののムーブメントをあらわすと評されている。
昭和25年制作の『三相』は、中央改札内の右手にあるので次回に回した。
浅草口から出て、浅草通りを東進する。一気に人出が減り歩きやすくなった。通りの右側には日陰になるためか仏具店が並ぶ。
菊屋橋交差点を左折して合羽橋道具街に入ると様相が一変し、多くの買い物客で込み合っている。外人客の姿も多く、刃物店や食品サンプル店が人気のようだ。コモディティ・イイダの店内は、通路を通り抜けるのが難しそうだった。
合羽橋本通りに右折すると、浅草方面から次々と人がやってくる。
公園六区入り口交差点で国際通りを横断、浅草寺西参道「奥山おまいり道」から向かうと、さしもの広い境内も人で溢れている。ずらりと並ぶ屋台も忙しそう。本堂手前の左脇に、昭和37年11月3日に浅草観音堂内に設置され、その後昭和40年に現在の場所に移された『鳩ポッポの歌碑』を見つけた。いうまでもなく瀧廉太郎作曲の童謡曲。
もう一つの明治41年制作の『雲』は見当たらず、次回訪問時にすることにした。
本堂北側の浅草寺病院前に、昭和37年制作の『大谷米太郎・里夫妻像』を発見。大谷氏は富山県出身の実業家で、ホテルニューオオタニの設立者。浅草寺信徒総代を務め、宝蔵門の建立を発願した。
言問い通りを渡り、いつものコンビニの先から馬道通りを北上、第1回に訪れた山谷堀公園に入った。
浅草高校の正面に当たる場所で、朝倉晩年の裸婦連作の一つ『あこがれ』を見つけた。像のそばで高齢男性が二人でタバコを吸っていた。
江戸通りを横断し、台東リバーサイドスポーツセンターに入館する。入口近くの左右に、大正15年制作の『水の猛者』と昭和34年の作品『競技前』の二つの像がたくましく立っていた。
時刻は午後3時、本日は120分の散歩でした。
隅田川の堤防に沿って浅草方面に戻る。正面から強い日差しを浴びるものの、持参のサングラスが役立った。
言問橋を潜り抜けてテラスに降り立つとここも満員状態。ようやく開いていた椅子に腰を下ろし、新聞紙を足元に敷いて休憩。冷やした缶チューハイをチョコナッツで味わう。
吾妻橋へ戻ると、まだ訪れてくる人が引っ切り無し。
浅草駅から帰途につきました。(村谷 記)
*出典:「ようこそたいとうへ・台東ぶらり散歩」の『其の十九・広重の名所江戸百景を巡る』
*出典:「ようこそたいとうへ・台東ぶらり散歩」の『其の十三・朝倉文夫の作品を訪れる』
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★2023年12月9日(土)『台東ぶらり散歩・第2回「広重の名所江戸百景を巡る(その2)」+「朝倉文夫の作品を訪れる」』