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 4月初旬並みの好天という予報に誘われて、村谷は標記散歩を行った。
明日は東京マラソンで浅草あたりは応援の人々も加わって大混雑するだろうし、NHK杯準決勝と棋王戦第3局との藤井聡太五冠の対局があるから、長時間の外出はできないので好都合だ。

 隅田川中流部は、江戸期には大川と呼ばれ親しまれた隅田川の中心部分で、河岸の周辺は有数の盛り場だった。
このまま隅田川テラスを淡々と下るとすぐに新大橋に着いてしまうため、沿岸の見どころを探訪することとして出発。
 好天の土曜日の人波は、都営浅草線・
浅草駅の改札からの通路ではすれ違うのにさえ気を遣う有様だった。

 午後1時、地上に上がるとあちらこちらに着物姿の女性たちとお供の男性たちの姿が目に入る。浅草寺・仲見世方面は次回に譲ることとし、神谷バーが一角にある交差点で江戸通りを横断、まずは吾妻橋に向かった。

 吾妻橋は江戸中期の安永3年(1774)に「竹町の渡し」の代替に、民間からの請願を受けた隅田川の5番目の橋として(江戸期でも最後)架橋された橋で、当初から通行料として一人2文ずつ徴収したという。
天明6年(1786)の洪水の際、永代橋・新大橋が流出し両国橋が大きな損傷を受けたにもかかわらず唯一無傷だったため、架橋した大工や奉行が褒章を受けたという。往時の風景を偲ぶ浮世絵としては、安藤広重「江戸名所百景」にある『吾妻橋金龍山遠望』が代表作。

 最初は右岸から歩く。まだ新しい赤い手すりの階段を下り、テラスに降り立つとすぐに「あみ清」の船着き場が広がる。

 テラス沿いに随所に設置されたベンチでは、遅めの昼食を摂る家族連れや、中高年女性二人連れが目立つ。
明日開催予定の東京マラソンに挑戦?するらしい若者たちのジョガーも少なくない。余談だが、3月初旬は10月上旬と並び好天確率が高いらしく、従前は3月第1日曜日は青梅マラソンの開催日だった。その後、故石原都知事が東京マラソン開催日としてしまった結果、本家だった青梅マラソンは2月第3日曜日に移動、今年も引き続き55回目を無事に開催した。どこかの大国のごり押しと似ているようだ。

 駒形橋で一旦地上に上がり駒形堂に立ち寄る。このお堂は推古天皇36年(628)に投網に浅草寺のご本尊が漁師の投網に入った場所だった。その後、天慶5年(942)に平公望が当地に駒形堂を設置した。

 江戸期には船着き場が開設され、浅草寺に参拝する人はここで船を降りて仲見世に向かい、岡場所・吉原に向かう人はそこに通じる山谷堀に向かう乗船場でもあり、相乗効果で?「駒形の渡し」として大いに賑わったという。広重の『駒形堂吾妻橋』が、当時の様相を活写している作の一つ。
なお、駒形橋は昭和2年(1927)に初めて架橋された鉄橋。

 次の予定立ち寄り先を目指しテラスには戻らず、江戸通りを渡り返してそのまま南下する。

 お目当ての「世界のカバン博物館」に初入場する。エース株式会社の創業者・新川流作(1915〜2008)がカバン文化振興のために550点のカバンを世界中から収集し、カバンの歴史を偲ぶために設立したもの。何と旧石器時代から現代にいたるカバンの歴史が一堂に学べる拠点になっている。
入場無料で、今回はお洒落なエコバックまで頂戴し感謝、飛び込み入館して良かった。世界的に見ても、イタリアのエルメスが世界のカバンをリードしたり、日本では流作翁がビニールバッグを開発したなど興味深い事実を知った。

 そのまま江戸通りを少し南下し、未だこの時間でも16人もの人たちが入店待ちの「駒形どぜう本店」前の交差点を渡り返し、通り沿いの一本裏道を南下する。お洒落なカフェやレストランが数か所も隠れていて、事情通らしいカップルが何組も行き交っていた。

 厩橋でテラスに復帰する。

 厩橋は明治7年(1874)に初めて木橋が架橋された場所。江戸期には花見客などに大いに利用された「御厩の渡し」は、混雑で船からの転落客が多く「三途の渡し」と揶揄されていたという。

 途中の河畔にあった「首尾の松」は国芳・広重・北斎がいずれも浮世絵の傑作を後世に残してくれている。

 蔵前橋に差し掛かる。北斎「富岳三十六景」には、『富士見の渡し』として下流から描かれている。この橋も駒形橋と同じ昭和2年(1927)に架橋された。
蔵前橋の名は浅草御蔵に由来し、800万石ともされた幕府直轄領から送られてくる米を貯蔵する蔵がいくつもあったからで、大きな掘割が五つ以上設けられていた。当時の様相が判る浮世絵は現在、大英博物館に所蔵されている。

 再び地上に上がり「浅草御蔵跡碑」を確認してからテラスに戻る。好天に誘われたのか、依然としてジョガーや遅めの昼食を摂る家族連れが絶えない。

 JR総武線を潜り抜ける。

 この先は神田川の河口で行き止まり。地上に上がってテラス沿いに南下する。

 道脇の石塚稲荷神社に参拝した。元禄元年(1688)当地に火除けの代替地として移転したとされ、その頃はさぞや柳橋芸者のお姉さんの信仰を集めただろう。

 柳橋神田川を渡る。橋の左手袂のビルの1階には、往時をしのぶ料亭「亀清楼」があるが、シャッターが降りていて未だに休業状態。一方、右手の佃煮の店「柳橋小松屋」は絶賛営業中。

 靖国通りを横断すると、やげん堀の標識が目に入ったので寄り道する。元禄11年(1620)の振袖火事で蔵前に移転する前に置かれていた幕府の米倉「矢ノ倉」に通じる隅田川からの搬入のための堀割、薬研堀があった場所。

 その一角に現存する薬研堀不動尊に参拝した。江戸浮世絵界の名プロデューサー・蔦屋重三郎お抱えの絵師・渓斎英泉の傑作『御利生結ぶの縁日 両国薬研堀不動尊』には、あでやかな芸者姿が描かれている。広々したベンチのご厄介になり、定番のハチミツカリントウで休憩。今月も講談と落語の寄席が開催予定。
    …薬研堀不動院の場所は「講談発祥の地」でもある。


 やげん堀の名物・七味唐辛子日本三大唐辛子の一で、信州・善光寺の八幡屋磯五郎、京都・清水の清水七味屋と並ぶ存在。寛永2年(1625)3代将軍家光に献上したのを機に当地で創業した。現在は浅草・仲見世店で売られているが、元祖の東日本橋にあった店は昨年春に閉業した。

 そのまま
仲通りを南進し、日本橋中学校の先で金座通りを横断する。「金座」という名の由来は、文禄4年(1595)に江戸に入府っしていた家康の命により京都の金庄・後藤庄三郎光次が当地で小判の鋳造を始めたため。

 グラウンドがある北側入り口から浜町公園に入った。
本日は野球などの交流試合がないらしく、グラウンドは野球の練習試合のみで父兄の数は少ない。

 園内を通過、そのままテラスに出て新大橋の右岸に到着したのが午後2時20分。本日の水辺歩きは80分の行程だった。

 なお、新大橋は海外でも有名。ゴッホに影響を与えた広重の浮世絵『新おおはしあたけの夕暮』は日本を代表する浮世絵だ。僭越ながらこの絵に関する村谷の勝手な解釈では、新大橋の両岸には粋な日本橋浜町といなせな深川六間堀が向き合っており、柳橋芸者と辰巳芸者との優劣の判定を巧みに避け、雨で引き分けにした安藤広重の粋な計らいかもしれない。

 新大橋は名前の通り、千住大橋、両国橋に続き元禄6年(1693)に隅田川3番目の橋として架橋された。江戸中心部では両国橋に次ぐということでこの名が付いた。
この橋が建設されたきっかけは、徳川五代将軍綱吉の生母・桂昌院からの提言になるという説が有力。江戸の街の隆盛に伴い隅田川両岸の人の往来が飛躍的に増加し、渡し船の料金負担が大きくなった。八百屋の娘として生まれ育ったとされる彼女の庶民感覚から出た発想だったかもしれないとすると、何かと批判が多かった彼女の善政として受け止めたい。

 左岸に渡り、
萬年橋通りに右折する。

 芭蕉記念館7日(火)のYSC散歩時に訪れる予定なので入館を省略し、八名川公園に入る。広々した園内では小学男女がドッジボール?フットボール?の真っ最中。幸い空いていたベンチを確保し、新聞紙を足元に敷いて定番の休憩タイム。
残ったハチミツカリントウをつまみにカンチューハイで、本日の散歩を締めた。

 隣接する深川神明宮で本日の無事のお礼を申し上げ、
森下駅から帰途に着きました。

 次回は千住大橋から浅草まで歩く予定。(村谷 記)

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★2023年3月4日(火)「隅田川中流部(吾妻橋〜新大橋)」