せっかくの4月並みの好天予報に誘われて、標記散歩を行った。
前回の隅田川歩きは、忠実に築地大橋から赤羽水門まで遡ったが今回は江戸期の人気スポットだった勝鬨橋(江戸期には架橋されていなかったが)から千住大橋までと限定した。流域に近くて、江戸名所図会や、北斎の富岳三十六景に描かれた名所をできるだけ寄り道することにした。
正午過ぎに、都営地下鉄大江戸線&新宿線・森下駅改札を出て新大橋通りに出る。本日は春の陽気になるという予報に従って、久々にベスト姿としたがなんとか大丈夫の気温だ。
裏道伝いに深川神明宮に参拝する。家康が江戸入府(1590)後に、当地の整備を命ぜられた深川八郎右衛門が伊勢神宮より勧請したとされる深川のレジェンド。境内の多くを占める幼稚園横から入って、本日の無事をお願いし、正面から出て右折する。
続いて江東区芭蕉記念館の入り口に向かう。1月26日(木)から4月23日(日)まで、「芭蕉と江戸蕉門」開催中。本日は川辺散歩のため立ちよらず、庭園の歩道に沿って隅田川テラス・左岸に出た。予報通りの好天ながら、3月1日(水)の句会のヒントがなかなか見つからない。
家康が最初に開削を命じた小名木川と隅田川の合流点近くの芭蕉公園に鎮座する俳聖・松尾芭蕉像にお参りすると、ようやくホッとする。本日最初歩の休憩でチョコナッツをひと齧り、まだ一句浮かばない。
続いてすぐ前の芭蕉稲荷神社にお参りする。弟子でもあり、経済的に芭蕉を支えた重要な人物の一人・杉山杉風の提供を受けた草庵の跡地で、信じられないほど狭い。幾たびかの変遷の後、大正6年に芭蕉愛好の石造りの蛙が発見されたので、芭蕉の住居あとと認定された。「古池や 蛙飛び込む 水の音」を知らぬ人はいないだろう。
小名木川を萬年橋で渡る。葛飾北斎の富岳三十六景「萬年橋下」で有名な場所。小名木川が隅田川に流入する最初の橋だ。
家康が江戸に入った時には小名木川の左岸までが陸地で、その右側を埋め立てて江戸の町を築いたのだった。
清洲橋を渡り右岸に移る。
好天に誘われたのは村谷だけではないらしく、すれ違く中高年男女のジョガーが多い。全員がきちんとマスク装着済みなのは国民性なのかもしれない。
隅田川大橋で首都高速9号・深川線を潜り抜ける。ようやくちらりと句のヒントが浮かんだ。
隅田川テラスでシートを広げて昼食中の家族づれがいて、幼児2人がお茶のペットボトルをおぼつかない手で持ち歩く姿が目に映る。
前回の最終地点・豊海橋横の日本橋川河口のベンチで2回目の休憩、ついでに真新しいトイレもお借りした。
日本橋川を横断し、永代橋の袂から再び隅田川テラスに入る。
永代橋は元禄11年(1698)架橋された長さ110間(約200m)の広大な橋で、江戸期の浮世絵に人気の画材だった。
しばしば落橋され、赤穂浪士が討ち入り後に渡った当時は現在よりも100m以上上流に架橋されていたという。
上流の日本橋に向かう舟が頻繁に橋下を通過するため水面から10m以上も高く架橋されていて人気があった。橋の名は、下流に当たる永代島からとされているが、五代将軍綱吉の永代を願ったという忖度話もある。
中央大橋の先が亀島川の閘門になっているので地上に上がり、南高橋で対岸に渡る。
鉄砲州稲荷神社に立ち寄り参拝する。室町期創建とされ、江戸期には米・塩・酒・薪・炭などほとんどの消費物資がこの湊に入ってきたという。広重の江戸名所図会には「湊稲荷社」として描かれている。
高層マンションの横からテラスに復帰、佃大橋で左岸に渡る。一旦北上し、いずれも江戸期創始の三軒の佃煮屋さんの前を通過する。中でも村谷がご贔屓で掌編小説の舞台に借用した1軒の店先のガラス窓には「一緒にお仕事しませんか」の張り紙が、いまだに健在だった。
佃島の氏神・住吉神社に参拝し、定番の船溜まり横のベンチで休憩。ようやく次の句の構想が纏まった。
佃島渡船場跡之碑を確認してからテラスに復帰する。
佃大橋を潜り抜けて、勝鬨橋西詰に着いたのは、午後1時40分、本日は100分の川歩きだった。しゃれた石造りの椅子に腰を下し、残ったチョコナッツをカンチューハイで消化した。
歩行距離が不足なので、勝どき駅から門前仲町駅まで清澄通りを追加で歩いた。
次回は浅草から新大橋まで歩く予定。(村谷 記)
このページのトップへ戻る
前のページへ 次のページへ
.
.
.
.
.
.
★2023年2月18日(土)「隅田川最下流部(森下駅〜勝どき駅)」