さんぽ

ホームへ

 村谷は朝方に早稲田に行く用事があり、そのついでに旧都電39系統路線散歩を行った。
39系統は早稲田〜厩橋間の7.2kmを走っていた路線で、昭和43年(1968)9月29日に廃線となった。

 今回は、他の路線とは重複しない大曲〜伝通院前を含む標記部分を選択した。

 いつもよりは随分早い午前9時10分に
早稲田駅を出発、大曲までの間は「江戸川線」だった。

 先ずは新目白通りをひたすら東側に歩く。幸いにも曇天で微風、気温はまだ30度未満という絶好のコンディション。通りの両側には朝の散歩を楽しむ人たちの姿が目立つ。

 右手に外苑東通りが始まる
早稲田鶴巻町交差点を通過する。鶴巻という地名は全国各地にあるが、新宿区の掲示板によると、当地の由来は隣接する小石川の田で飼われていた鶴が度々飛来したからという優雅な説が有力らしい。交差点近くに京都・嵯峨野のサバ寿司の名店「和泉家吉之助」の支店があった。味が異なる三種類の鯖寿司とともにわらびもちも有名。

 右側の地名は山吹町で、あの太田道灌ゆかりと推測される。

 
江戸川橋交差点の先からは、頭上に首都高速池袋線が走っているので、これ幸いと北側歩道に移った。
地名は関口に変わる。安藤広重の名所江戸百景「せき口上水端はせを庵椿やま」に描かれた景勝地で、地名は神田上水の堰にちなむという説が有力とされる。

 
大曲交差点で目白通りが飯田橋通りに直角に右折するので分かれる。ここから春日通りまでの間が他の路線と重複しない唯一の部分。春日通りに出てから文京区役所前までの間が「冨坂線」だった。

 白鳥橋神田川を渡り、安藤坂をぐいぐいと上っていく。いつの間にかお日様が雲間から抜け出ている上に、このところ町歩きばかりで鍛錬が足りない脚力ではカバーしきれず、汗びっしょりになった。安藤飛騨守下屋敷があったのが地名の由来で、明治42年(1900)に東京市電が開通する際に、少し坂を緩やかにしたという記録があるものの今も厳しい。坂道をほぼ登り切った右手にある区立三中は昭和26年(1951)に小石川三井邸の跡地に建てられた校舎で、濃い緑陰など現在もお屋敷の風情を漂わせている。

 
伝通院前交差点の脇にあるコンビニで玄米茶のペットボトルを購入して、休憩を兼ねて無量山・伝通院・寿経寺に立ち寄った。いうまでもなく徳川家康の生母・於大の方の菩提寺とされて以来、上野・寛永寺、芝・増上寺とともに江戸の三霊山として幕府から寺領830石という破格の庇護を受けていた。

 三つ葉葵の御紋がくっきりと浮かぶ山門をくぐる。斉藤月琴の江戸名所図会「無量山境内大絵図」にも描かれた高台にある景勝地で、富士山・江戸湾・江戸川が一望できたという。境内にあるに千姫の墓には、以前のYSC散歩で立ち寄りお参りしている。
土曜日なので法事があるらしく本堂の扉が開放されていたので、中に入り参拝する。薫り高いお香が堂内一杯に広がっていて、静謐な雰囲気が漂っていた。
 広々した境内には腰を下す場所がないので、大きな百日紅の木の下で玄米茶を一飲みした。

 門外に出るとお参りのご利益なのか、曇り空に変わっていた。ここからは春日通りを下る。少し先に東京ドームの大観覧車が遠望できる。通りの名は言わずと知れた湯島にある春日局の菩提寺・麟祥院にちなんだもので、駿河に引退?していた家康の下に訪れた春日局が、家康最晩年の愛妾・お六の方を通じて家光を正嫡に認定するようにを嘆願したという話がある。 村谷も徳川家康が現在の東京にタイムスリップしたという破天荒な設定をした
掌編小説「家康、東京へ」の中で、当時十代後半で家康を魅了した容貌を持つお六の方を現代のヒロインのモデルに重ねて描いてみた。
  ⇒掌編小説 「家康、東京へ」は、路線歩き報告のあとに転載しました。


 
冨坂上交差点から一気に坂を下る。冨坂の地名については複数の説があるが、トンビが沢山いて、度々庶民の魚をさらったことから鳶坂となり、それを好字の富坂に変えたという説が楽しい。歩道の右手はどっしりとした建物が続く中央大学理工学部高等学校、道路の左側は四季を通じて整備された植栽が続く。「坂を守る会」が整備している。

 
春日町交差点(文京区役所前停留所)に到着したのは午前10時、本日もまた、50分の短距離散歩だった。

 近くにある文京区定番の休み処・礫川公園で一息入れるにはさすがに早すぎる時間なので、缶チューハイとチーズが入った保冷バックのファスナーは開かず、
春日駅から帰途に着いた。

 次回は40系統(神明町車庫前〜銀座七丁目)を歩く予定。

 旧都電の定期路線は41系統まで終わりだが、臨時の6系統や、現存する荒川線に含まれていない部分もめぐる予定。(村谷 記)

                     このページのトップへ戻る

                      前のページへ  次のページへ
.
   家康、東京へ(前篇)
                    村谷 卓一
 
「ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン」と何やら耳慣れない音が聴こえてきて目が覚めた。昨夜あれほど苦しんだ腹の痛みはすっかり引いていた。
 昨日は、新年の挨拶に参上した茶屋家の三代目四郎次郎が、京で流行っているという鯛の南蛮漬けを調理してくれた。ごま油でからりと揚げた鯛にニンニクがたっぷり入った醤油だれをかけまわしたもので、滋養効果があるという。香ばしい匂いに誘われて、早速箸をつけるとたまらない美味しさで、ついつい全部食べてしまった。
 食べ終わるとすぐに身体の奥からみなぎるような力が湧いてきた。今宵の伽はお六にせよと命じて早々に寝間に向かったとたん、激しい腹痛と下痢に見舞われた。一向に収まる気配がなく、やむなく添い寝はあきらめて、薬の力を借りてようやく眠りに着いたのだった。

「大御所様、お目覚めになりましたか?」
いつに変わらぬ阿茶局(あちゃのつぼね)の優しいささやきが耳元に心地よく響く。 
「ここは、駿府のお城ではないようでございます」
 局の言葉で布団の上に起き上がってあたりを見回すと、部屋の様子が全く違っていて、広さが二十畳ほどの和室だった。部屋の中には見慣れない家具や道具類がいくつも並んでいる。二棹の桐たんすや真っ白な障子、黒檀製の大きな仏壇はすぐにそれと判ったものの、ギヤマンや金属製らしい見慣れない品物がずらりと並んでいた。

 とんとんとんと軽やかに階段を上がってくる足音が聞こえた。
「どなたかいらっしゃるの?」
 若い女性の声とともに、さっと障子が開かれた。
「まあ、家康さま!どうしてここにおいでなのですか」
 お六だ。いや、何だか様子がおかしい。色白な肌にふっくらした頬、切れ長な目にきりりとした口元はまさしくお六にそっくりの顔立ちなのだが、ひざから下が丸出しで、上半身は豊かな胸の形がそれと判る見たことがない薄物をまとっている。

「ここはいったいどこなのじゃ」
「四百年後の江戸でございます。今から百五十年ほど前に、京から天皇様がお移りになられて日本の都になりました。名前も東の京という意味の東京とかわりました。今いらっしゃる場所は江戸の佃島です」

「昨夜の大きな地震のためでしょうか?」と局がいう。
薬のせいでぐっすりと寝込んでいて、揺れにはまったく気が付かなかった。
「昨夜は、大御所様の枕元で控えておりましたところ、夜中にこれまで経験したことがない強い揺れが続きました。そのうちわたくしも気を失ってしまいました。そして先ほど気が付きましたら、障子から朝日が差し込んでいました」。

「そちの名は何というのだ。よく、家康と判ったものじゃ」
「ユリと申します」といって、床の間を指さした。
そこには何故か狩衣姿の肖像画が掲げられている。
「わたくしの先祖は、摂津の森孫右衛門でございます。幼い時からここ佃島の大恩人である徳川家康さまについては詳しく教えていただきました。おかげさまで我が家は、代々佃煮を商い暮らしております」

 摂津の国の佃村とは浅からぬ縁があった。
天正十年(一五八二)に織田信長公に招かれて上洛したときに本能寺の変に遭遇した。初代の茶屋四郎次郎の案内で堺に滞在し、そこから京へ戻る途中の摂津の国で、明智光秀が謀反を起こしたという報に接した。信長公が討たれたと聞き、一刻も早く三河へ戻らねばならなかったが、京方面一帯は明智軍が占領しているので通れない。
 供の茶屋四郎次郎や服部半蔵の言葉に従って、伊賀の国を越えて伊勢の国から船で戻るしかないと決めたものの、目の前の神崎川を渡る船が見当たらない。そこへ船を出してくれたのが、佃村の森孫左衛門だった。
佃村の漁師たちはこれまでも何度か、多田神社への参拝の際に必ず船を出してくれていた。事情を聴きつけて、ただちに手持ちの船を供出してくれたばかりか、兵糧食として大事に保管していた小魚煮まで残らず差し出してくれたのだった。
 その後もいくつもの困難な出来事はあったが、茶屋四郎次郎や服部半蔵の才覚によって、無事に三河の国に戻ることができた。
 織田信長公の弔い合戦に勝利した豊臣秀吉公が関白となり、その命によって、天正十八年(一五九六)に、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五か国から、関東八か国に転封された。直ちに江戸に居を定めて、家臣たちの住まいや飲料水の確保などを手始めに街づくりを進めた。街の拡大につれて住民の数が増加し、安定した食料源が必要になった。当時の大川から隅田川にかけては絶好の漁場でありながら、魚を獲ることができる漁師がいなかった。そこで、摂津の国佃村の森孫左衛門を呼び寄せることとしたのである。
森孫左衛門は、家族一同と三十三人の漁師を従えて江戸に出てきた。
当初は、冬場の数か月間だけ滞在して、主に白魚漁を行っていた。朝獲れたての白魚は、御止魚(おとめうお)として江戸城に運んできてくれた。その行列は、大名の登城も通過するまで待たねばならないという定めになっていた。
 慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍の宣下を受けると、全国の諸大名とその家臣たちが江戸に屋敷を構えることになり、一気に住民の数が増えた。そこで佃村の漁民たちに銘じて日本橋に魚河岸を開かせ、魚や貝類を一手に売る権利を与え、一族を佃島に定住させたのであった。

「祖母と母を呼んでまいります」
 ユリが急いで階段を降りていった。ほどなく二人の女性が部屋に姿を現した。
「大御所様、ようこそお出でくださいました。ユリの祖母の千代でございます。昨年主人の隆が亡くなりました後も、佃煮屋「天康」を娘たちと共に守っております」
黒髪豊かで大きな黒目に高い鼻とおちょぼ口の様子は、とてもユリの祖母とは思えない若々しさだった。

「ユリの母、真紀でございます。十年前ほどに夫が亡くなりましたが、ここ佃で髪結いの店を営みながら母の店を手伝っております」
 ユリとそっくりの体形だったが、研ぎ澄まされた美貌に加えて額のあたりに聡明さがうかがえた。
「お勝の方によく似ていますね」と局がささやきながら、横目で軽くにらんだようにみえた。

 ボーン、ボーンとまた音がした。床の間の柱に長方形の置物が飾られていた。
「亡き夫が古い物好きでした。これは百年前に作られた柱時計です。今は、明六ツのことを六時といい、明五ツを八時といいます。今、八回鳴りましたので、明五ツです。」

「お食事をお持ちしました。お口にあいませんかもしれませんが、どうぞお召し上がりくださいませ」との千代の声に続き、真紀とユリがお膳を運んできた。階下からは醤油で何かを煮る香りが立ち上ってくる。
 朱塗りの大きな膳の上には、炊き立ての白米に、アサリの味噌汁、塩鮭焼き、卵焼きと、いくつもの種類の佃煮が並べられている。
「摂津の佃村から作り方が伝わった佃煮です。今はもう白魚は獲れなくなりましたが、替わりにウナギ・アサリ・アミ・昆布・ホタテ貝ひも・シラス・ワカサギ・小女子・たらこ・海苔をご用意しました」と千代が説明した。
 昨夜からの腹痛で何も食べておらず、一気に食した。

「今は、もう白魚は獲れないのか」
「はい、江戸では白魚は獲れなくなりました。今の東京には、江戸の街の十倍以上の住民が暮らしております。その結果、大川、今は隅田川と名が変わりましたが、その水が汚れてしまい、一時は魚がほとんど棲めないようになってしまいました。その後、かなり水質がよくなりましたものの、白魚は昔のように戻ってきておりません。
また、江戸湾、これも今は東京湾といいますが、その周辺には夜も絶やさず灯りがつくようになりましたので、以前のように高張提灯でかがり火を焚く漁もできなくなったのでございます」
「江戸の住民が十倍以上に増えたということだが、いったいどこに住んでいるのだ」
「はい、湾の埋め立てをどんどん進めました。そのためここ佃島も、今はいくつもの橋が通じた陸続きになっております。大川の河口も、ずっと南側まで延びました」
「それだけでは足るまい」
「高い建物をたくさん作りました。この家は三階建てですが、三十階から五十階もある大きな家、マンションといいますが、それをいくつも作っています」
「木ではそんな家は作れまい」
「コンクリートという材料を長い鉄の柱と組み合わせて作ります。石灰に似た粉を砂利や砂と混ぜたものでございます」
「そんな高い住まいに出入りするのは大変ではないか」
「エレベーターという道具を使い、その力で小さな部屋を上下させて人や荷物を運びます」
「何の力でそのエレベーターとやらを動かしているのだ」
「電気でございます」
「電気とは何で作るのだ」
「越後で取れた臭生水(くそうず)はご存知かと思います。それをもとに造ったものです」
「越後で産する量はごくわずかだったはずだが」
「国内ではほとんど産出しませんので、ほとんどすべての必要な分はインドのさらに先にあるアラブという国々などから買っております」
「船で運んでくるのか」
「はい、タンカーという巨大な船で運んできて、国内のいろいろな港に蓄えております。その船も石油で動いております」
「外国から売ってもらうという立場は不安定で弱いはずだ。戦国の時代にも、鉄砲に欠かせない硝石の購入では随分苦労したものだ。国と国との関係は難しいことがしばしば起こることがあるので、戦になってしまうかもしれない」
「仰せの通りでございます。今から八十年ほど前に、石油が一つのきっかけとなり、長年にわたって大きな戦に苦しめられました」

「白魚が食せなくなったとは残念だな」
「いいえ、東京湾では獲れませんが、霞ケ浦などで獲れた白魚が手に入るようになりましたので、明日にでも差し上げます」
「遠方の魚が生で食べられるのか」
「はい。前日に獲れた魚が氷漬けにされて、翌朝には東京の魚市場まで運ばれてきます」
「氷室で保存された氷は知っているが」
「電気の力を借りることで、いつどこででも必要な量の氷を作ることができるようになりました」
「獲れた魚は船で運んでくるのか」
「はい。江戸の時代にも相模湾などで獲れた魚をその日のうちに江戸まで運んだ押送船(おしょくりふね)があったとそうです。三本の帆柱と七丁の艪を操る全長四十尺ほどの快速船です。それに比べて現在の船は、はるかに大きくて速度も速くなっております。石油を燃やして動かすエンジンという機械を備えております。それらの船が毎夜、全国各地の漁場から直接、岸壁に荷揚げします」
「日本橋の魚河岸に集めるのだな」
「長らく日本橋にあった魚河岸は、百年近く前に起きた大地震の後に
大川の対岸の埋め立て地に造られた築地市場に移りました。そこも老朽化し、手狭になったので昨年、もう少し海寄りに新たに造られた豊洲という市場に移っております」
「その市場もいずれ見てみたいな」
「かしこまりました」

 膳が下げられると入れ替わりに馥郁たる香気漂うお茶が出てきた。
「川根茶でございます」
「城では毎日飲んでいたが、江戸でも飲めるとは」
「お茶に限らずに日本中のいろいろな品物が、私共のような庶民でも買うことができるようになりました」
「それらも船で運んでくるのか」
「船以外に、トラックという名前の大型の道具を使い、陸を運んできます」
「トラックとは何で動かすのが」
「船と同様に、石油を使ったエンジンで動かしています」
 
「いろいろとお世話になりますね」と局が静かに千代に向かってお礼を述べた。
「手狭なところで申し訳ございません。ここは亡くなった夫の隠居部屋でしたので、今はだれも使っておりません。よろしければどうぞお使いくださいませ」
「大御所様は寝衣のままなので、何か替わりの着物はございませんか」
「本日中にも用意いたします。それまでは失礼かと存じますが、主人の衣類が一式残っておりますのでどうぞ。また、阿茶局様には、よろしければ当面私のものをお使いください」

「駿府で床についたのは元和二年(一六一六)の正月だったが、今は何年になる」と千代に問う。
「今年は平成三十一年(二〇一九)ですので、四百三年後になります」
「そんなに経っているのか。四百年の間に何があったのか知りたい」
「かしこまりました。幸いにもユリが大学で日本の歴史を専門に学んでおりますので、後ほど詳しく説明させていただきます」
「ここが後世の江戸の地であるならば、どう変わったか見てみたいものだ」
「真紀が車の運転ができますので、ユリとともにお二人をご希望の場所までご案内申し上げます」
「車とは?」
「先ほどのトラックより一回り小さいものですが、やはり石油で動く無人の駕籠のようなものでございます」
「石油を燃やすと煙がたくさん出るのではないのか」
「はい。排気ガスという人間の体に良くないものが出ます」
「それでは街の空気が悪くなり、老人や病人の身体によくないだろう」
「そのため、最近では排気ガスを出さない電気で動く車が増えました」
「電気を作るのには石油がもっと多く外国から買わねばなるまい」
「はい。それで今、石油に頼らない方法がいろいろと工夫されてきていますが、当分の間は石油から作るガソリンを使うしかありません」

「お風呂にご案内いたします」
千代に続き階段を下りる。一階の奥にある風呂場に通された。阿茶局が手際よく寝衣を脱がせてくれた。
 広々した檜風呂に浸かると、湯から何やら良い香りが漂ってくる。
「お背中をお流しいたします」と真紀が入ってきた。足は膝までむき出しで、胸が広く開いている。
「何やら良い香りがするが、湯の中には薬が入っているのか?」
「箱根の湯を濃く煮詰めた粉が入っております」
「ほう。そんなものも手に入るのか」
「はい。全国各地の名湯の粉が揃っております。お好みの温泉がございましたらどうぞお申しつけくださいませ」
「ところで、この家では男の姿が見えないが」
「父は昨年亡くなりました。夫も十年前に亡くなりましたので今は母と娘の三人で暮らしております。
その他に佃煮を作る職人が三人、毎日通ってきております」
「御髪を洗わせていただきます」
 首を傾けると、目の前にまだ張りのある真紀の胸乳が突き出されている。すっと手を伸ばしたが軽く振り払われてしまう。
「本日お出かけになりたい場所がございますか」
「江戸城に行ってみたい」
「承知いたしました。お召替えの浴衣は、籠の中にご用意いたしました」といいながら出て行ってしまう。

 外で待つ阿茶局が真紀と小声で話しているのが聴こえた。
「大丈夫でしたか?」
「何もありませんでしたから」
「そうですか。あなたがお勝の方にうりふたつなので、少しだけ心配でした」
「え?」
「お世話をお掛けしますね。もしもお金がお入り用ならば手元にありますので、どうぞおっしゃってくださいませ」
「滅相もございません。お気になさらぬようお願いいたします」
入浴後に真紀が髷を総髪に結い直してくれた。千代が用意した着物と帯は、局が整えてくれる。

「それでは佃島の名所をご案内いたします」と真紀の言葉で、局とともに外に出た。
「まだ、風が冷たいのでこれをどうぞ」と千代が頭巾を差し出す。
隣の家も三階建ての木造で、同じように佃煮を売る店のようだ。
かすかに潮の匂いが漂ってくる。石塀の向こうは大川のはずだ。
「佃の渡しの跡です」とユリがいう。
「江戸の時代には、隅田川に三つの橋がありましたが、今は十七橋が架けられています」
右手に鳥居が見えてきて、参道に沿い参拝に向かう。
「住吉神社です。今から三百八十年ほどまえに、摂津の住吉三神を勧請して創建されたものです。神功皇后と家康様をお祀りしております」
鳥居の上に青い陶製の扁額がきらきらと光っている。
「あれは?」
「百三十八年前の明治十五年に、天皇様のご親戚であられる有栖川親王様が揮毫されたものです」とユリがすかさず説明してくれた。
 
 社殿を通り抜け、小さな赤い橋に差し掛かる。左手に船溜まりがあり、小舟が数隻停泊している。潮の香りが濃くなった。
「あの船は?」
「釣り船と申しまして石油で動きます。お金を払った客を乗せて湾内で魚を獲らせる仕事をしております」
 生活のためではなく遊びのために釣りができるという時代なのだ。
 
「次は、月島名物のもんじゃ焼きへご案内します」と真紀がいい、ユリが並んで先を歩く。二人の後ろ姿はそっくりで、まるで姉妹のように見える。
後ろの局を振り向いてみると、上下がつながった服を着ている。ワンピースというそうだが、すらりとした体型によく似あっている。  
甲斐の国に馬術や弓術を身につけた未亡人がいるという評判を聞き、側室に迎えたのはまだ二十五歳の須和だった。
武田家の家臣飯田直正の娘で、十九歳で神尾忠重に嫁ぎ、守世および守繁の二男を設けたが、二十三歳で死別した。評判を聴き、浜松城に招き、四人目の側室とした。美貌はもちろん、頭脳の明晰さがずば抜けていて、すぐに良き相談相手となってくれた。
天正十二年(一五八四)の小牧長久手の戦には、二十九歳の凛々しい若衆姿で同行した。その際に流産してしまったのは誠に残念な出来事だった。その後も、関ヶ原の戦いや大坂冬・夏の陣にも常にそばにいてくれた。とくに、大坂冬の陣後の豊臣方との和議交渉には、使者として大坂城に乗り込んで見事に交渉をまとめ上げてくれたのだった。
二代将軍秀忠の生母であった西郷局が二十八歳の若さで亡くなった後は、江戸城に入って秀忠の母親代わりを務めてくれた。局の二人の息子は今も秀忠の側近くに仕えている。
秀忠の五女和子が後水尾天皇に嫁ぐという難題が起きたときにも、様々に尽力してくれた。そのおかげもあり、一昨年、慶長十九年(一六一四)には入内宣旨が出されたのだった。

 表通りの入り口に木製の椅子があったので、腰を下ろした。
道幅が三間ほどの仲通りは、好天に誘われて大勢の家族連れで込み
合っていたが、四人に目を向ける者は誰もいない。
ユリが何やら紙袋入りの食べ物を持ってきた。
「レバーフライでございます」と串を差し出す。
「中身は何じゃ」
「五、六十年前にここ月島で初めて作られました。薄く切った豚の肝臓に衣をつけて、高温の菜種油でからっと揚げてから醤油だれにさっと潜らせたものです」
毎年近江から献上されてくる味噌漬けは食しており、滋養によいので好物だった。鷹狩で獲った鳥類の内臓も精が付くのでよく食べたものだった。
局が手を伸ばそうとしないので、その分も食べてしまう。通りを歩いている若者たちは、串を片手にの食べながら歩いている。
「お行儀が悪うございますが、食べ歩きといいます。今日のような青空の下では気持ちがよいので、若者の間では流行っています」とユリがいう。誰かと二人で食べ歩いた経験があるようだった。

 今歩いている西仲通り商店街は、もんじゃストリートというそうで、道の左右にもんじゃ焼きを出す店が並んでいる。浅草など下町に多いらしいが、ここ月島にはとくにその店が集中しているという。
「こちらでございます」と真紀の案内で、仲通りから一本小路に入ったところにある立派な店構えの建物に入った。
真紀がしばしば通っているという。
「誰ときているのだ」と尋ねたが、笑って答えない。
階段を上がり二階の奥座敷に通され、鉄の板がはめ込まれた木製の台の前に座った。
「生を四つお願いします」と真紀が注文すると、ギヤマン製の盃に、上部が泡で覆われた黄色い飲み物が出てきた。一口飲んでみると冷たくて、軽い苦みが何ともいえない美味しさだ。
「ビールといいます。百五十年ほど前に外国から伝わりました」と真紀が説明してくれた。
 ユリが次々と運ばれてくる金属製の碗に入った中身を鉄板の上に広げる。小麦粉で溶いた肉や野菜類、餅などを手際よく焼いていく。
「これがもんじゃ焼きです。どうぞお召し上がりください」と真紀が陶器の皿の上に供してくれた。熱さが冷たいビールにぴったりだったので、どんどん追加を注文してもらう。
 
「これからお城にご案内します」との真紀の言葉で家に戻ってくると、玄関前に車輪が四個付いた白い金属製の乗り物が待っていた。
「自動車といいます。これもまた石油で動く仕組みになっています」と説明役のユリがいう。後ろの座席に局と並んで座るとすぐに動き出した。

 ほどなく大きな橋に差し掛かった。
「木橋ではないな」
「鉄で造られておりますので、木よりも大きく丈夫な造りになっております」
「今渡っている橋の名は」
「佃大橋と申します。佃の渡しは五十三年前まで使われていました」
 ゆっくりと橋の上を進みながら、歩いている人たちを次々に追い抜いて行く。
「ずいぶん早く動くが、人とぶつかる心配はないのか」
「はい。半刻(はんとき)で一万丈ほどの速さで動いております。そのために、広い道が交わる場所などには、車と人が交互に進むように合図する信号という仕組みができております」
「すべての場所に信号とやらを設けるのは費用がかさむので難しいであろう。それに、車が進む妨げになる」
「はい、おっしゃる通りでございます」
「江戸の街でも、荷車と人がぶつかることはあったようだ。定めを守らぬ者は、いつの時代にもおるはずだが」
「決められた速さを守らぬ車や人が少なくありません」
「暴れ馬のようだな。死人やけが人が出るのではないのか」
「一年間に二万人近くの死亡者があった年もありました。現在でも、三千人以上が亡くなっております。中でも六十五歳以上の人が、半分を超えております」
「こんな便利な機械が造れても、それを防ぐ工夫ができていないのか」

 端から下流を見ると、大きな白い建物がいくつも並んでいる。
「先ほどご説明したマンションです。すべての階に住民が住んでいます」
 上流には色違いの橋がいくつもの間では見える。その先の青空の中に巨大な塔がつきだしている。
「スカイツリーといいます。高さは百十丈ほどで、電波という目には見えないものを送り出しています」
「電波とはどんな働きをするものじゃ」
「世界の隅々まで、一瞬のうちに言葉や絵を伝えることができます」

 両側に大きな建物が立ち並ぶ広い道を左右に曲がりながら進み、外堀に突き当たった。そこには変わらぬ姿の江戸城があった。
「今は宮城といいまして、天皇ご一家が住んでおられます」
「天守閣が見えないのだが」
「今から三百六十二年前に起きた明暦の大火で焼失しました。その後、天守台だけが残っていて、天守閣は再建されませんでした。家康様のお孫さまである幸松様、当時の会津藩主保科正之様が第四代将軍家綱様にご進言され、太平の世に天守閣は不要とされ、江戸の街の再興を優先することとなったからです。なお、天守台には後ほどご案内いたします」

 車から降りる。真紀は「平川門でお待ちしております」といったん三人を見送った。
大手門に到着した。大勢の人たちが次々と中に入ってゆく。
「誰でもお城に入ることができるのか」
「本丸と二の丸、そして三の丸を含めた一帯が、皇居東御苑という名前になっていて、誰でも自由に出入りすることができるようになりました」
「日本人ではなさそうな者の姿もあるが」
「観光客といいます。外国からはるばる日本の歴史や文化を求めて、名所や旧跡などを訪ね歩く人たちの一団です」

 見覚えのある高麗門と渡り櫓をくぐる。
「この場所も明暦の大火の際に焼失しましたが、数年後には元通りに再建されました」
 三の丸があった場所には、三の丸尚蔵館と大きな休憩所がり隣り合って建っている。尚蔵館では、歴代の名刀が展示されていた。本阿弥家が金一千枚と値を付けたという若狭正宗には見覚えがあった。
 二の丸跡は庭園となっていた。入り口に咲く蝋梅が甘い香りを漂わせている。
「第三代将軍家光様の命で、三百九十年前に小堀遠州が造成しました」
とユリが説明してくれた。木製の休憩所で腰をおろした。目の前には広い菖蒲田が広がっている。
「庭園の横が、大奥があった場所です」
 一面が緑の芝生になっていて家族連れが子供を遊ばせていた。
 続いて汐見坂を上ると石垣に囲まれた天守閣がない天守台があった。
西の丸があった場所は木々に覆われていて、いくつもの建物が垣間見えた。
「天皇ご一家とお仕えする人々がおられますので、一般の人たちは立ち入ることはできません」
 東側の外堀に沿って、高層な建物がずらり並んでいる。
「オフィス街といいます。会社と呼ばれる大きな部屋がいくつもあって、大勢の人たちが朝早くからから夜遅くまで出仕しています」

 平川門から城外に出ると、真紀の車が待っていた。
「どうぞ」とユリが扉を開けてくれたので乗り込んだ。外を見ると、道の両側の建物にはまばゆい灯りがともっている。
「次は鰻をお召し上がりください」
車が神田明神に到着した。男坂の下にある料亭に入り、奥座敷に通された。真紀がしばしば訪れているという。
「誰のお供だ」と尋ねたが、また微笑みではぐらかされてしまう。
「鰻が食べられるようになったのは、家康様のおかげでございます」とすかさずユリがいう。
「そうなのか」
「江戸の街作りにために、水路を開削し、江戸湾の埋め立てが盛んに行われましたので、鰻が棲む地域が急速に拡大しました。工事のために働く人たちが大勢になり、安くて精が付く鰻が大変な人気者になりました」

「つきだしです」と店の女仲居がウリの奈良漬けを出す。
「家康様がお好きだと伺っております」とユリがいう。
「なぜ、存じているのだ」
「歴史の資料として記録されております。その他にも折戸ナスや忍冬酒などをお好みになられたそうですね」
真紀とユリが代わる代わるお酌してくれる燗酒を飲みながら待つ。
「ウナギが出来上がるまでには、小半時(こはんとき)はかかります」
と真紀が教えてくれた。
続いて、ウナギを卵焼きで巻いた鰻巻きや、キュウリとの酢の物である鰻ザクなどが次々に出てくる。
「蒲焼です」としばらくたってから黒い塗り物のお重が出てきた。蓋を開くと醤油の香りが漂ってきた。アツアツのご飯の上に大ぶりの鰻が二匹乗っている。箸をつけるとほろほろと崩れるように柔らかい。
「こんなに柔らかいとは」
「江戸の最初のころの鰻は、小ぶりの鰻を一匹まま串刺しにして焼き、酢か味噌をつけて食べたそうです。やがて、小名木川や新川の開削など江戸から銚子港までの内陸の水路が開通したため、下総の国の野田や銚子から濃い味の関東醤油が大量に入ってくるようになりました。また、鰻を開いて、蒸してからみりんを合わせた醤油ダレで繰り返し焼く方法が編み出されて、このような形になりました」
思わず一気に食してしまう。隣の局も、日ごろの慎ましさはどこへいってしまったのか、無言でひたすら箸を動かしていた。

 真紀の車で佃島へ戻り、再び檜風呂に入る。
「お背中をお流しします」と入ってきたのは、今度はユリだった。真紀よりもさらに高い位置に盛り上がった胸に手を伸ばしてみたが、朝と同じく軽く振りほどかれてしまった。   

「明日、ご希望の場所はございますか」と千代が三階の寝間に入ってきた。
「小名木川や利根川などの水路を見てみたい」
「承りました」との声と同時に、宵五ツを告げる柱時計の音が鳴った。 

 灯りが消えるとほどなく、耳元で阿茶局のささやきが聴こえた。
「まだ、お休みにはなれませんでしょう。今宵は私しかおりませんので、ご辛抱くださいませ」
    
   家康、東京へ(後篇)

 朝の陽ざしがやわらかく障子から差し込んでいた。
「お目覚めですか」という聞きなれた阿茶局のささやきが、いつもより甘く耳元に響いてきた。
「風呂のお支度ができておりますので、ご案内いたします」と局が先に立ち、三階から階段を下りて一階の浴室に入る。
 ヒノキの広い湯船につかっていると「お背中をお流しします」との
声がして、浴衣を着た局が入ってきた。薄物をまとっただけの姿を見るのはほぼ二十年ぶりのことだった。若い時から馬術や弓術などで鍛えてきただけに、ややふっくらしたとはいえ引き締まった体つきは相変わらず保たれていて、とても還暦を迎えた年齢には見えない。
「少しも変わらぬな」というと、局の頬が少し赤らんだ。

「ご朝食の用意が整いました」と、廊下からユリの声が聞こえた。昨日のうちに千代が買い揃えてくれたらしい着物に着替えて三階の部屋に戻ると、ずらりとお膳が並んでいた。
「今朝、築地の場外市場で仕入れた魚介類でございます。お口に合いますかどうかわかりませんが、どうぞお召し上がりくださいませ」と千代が献立を説明してくれた。
「越中富山産の寒ブリと蝦夷松前産のホタテは、お刺身にしました。
芸州広島産のカキは酢の物でお出ししております。また、本日は霞ケ浦産の白魚がたくさん手に入りましたので、生食用とかき揚げに、それと佃煮をご用意いたしました」
「全国各地の新鮮な魚が一度に味わえるとは、贅沢な世の中になったものだな。とくに、この時期の白魚が食べられるとは嬉しいな。とくにかき揚げは初めて食べたが、格別の味でまことにありがたいことだ」
 八丁味噌の味噌汁もお代りして、すべてを食べつくしたところに芳醇な香りの川根茶が出てきた。

「大御所様が今お召し上がりいただきました白魚をはじめとする佃煮につきましては、毎年欠かさず春になりましたら、佃島で佃煮を商う店が共同で、徳川家の御宗家に献上しております」と千代がいう。
「それは律儀なことだな。ところで、将軍家は何代まで続いたのだ」

「はい、それにつきましては、ユリからご説明させます」
「それでは手短かに申し上げますので、しばらくお聞きくださいませ」
と、ユリが手に持った本を広げて、大きな目をいっそう大きくしながらやや甲高い声で話し始めた。
「秀忠様の次の三代将軍は家光様でございます。四代様は、家光様の御子の家綱様が継承されました。家綱様には御子がなく、家光様の御四男の綱吉様が五代様となられました。綱吉様にも御子がなかったため、家光様の御三男綱重様の御子家宣様が六代様です。家宣様の御子家継様が七代将軍になられましたが八歳でお亡くなりになられました。
 八代様には紀州家から来られた吉宗様がご就任されました。その後は、十四代様まで吉宗様の御血筋の将軍様が続きます。
 十五代将軍として、水戸家の御血筋であられる慶喜様が就任されました。その慶喜様が朝廷に国の統治権を返上されました。これを大政奉還といいます。慶長三年(一八六七)年のことでしたから、家康様が江戸に幕府を開かれてから、二百六十五年後になります」

「慶喜はなぜ、大政奉還したのだ」
「当時はアメリカやイギリス、ロシアなどの外国の諸国が、強大な武力を背景に、日本との貿易や人的交流を求めて圧力をかけ続けておりました。実際に隣国の清は、これは明の後を継承した国ですが、それらの国に領土の一部の割譲を余儀なくされてしまいました。それらをご存じの慶喜様は、天皇様を中心に国を挙げて外国勢に立ち向かう体制を早急に作ろうとされたのでしょう」
「諸大名が素直に応じたのか」
「もちろん、反対する大名たちも少なくありませんでしたので、官軍に抵抗する戦が各地で行われました。しかしながら、慶喜様が早々に寛永寺に謹慎されたことや、薩摩と長州を中心とした朝廷の錦の御旗を擁する官軍の勢力が強大だったため、すべて鎮圧されました」
「江戸の町は戦場にならなかったのか」
「一部の旗本が上野の山に立てこもりましたが、すぐに制圧されました。江戸城は、徳川家の存続などを条件に無血開城されましたので、江戸の町は戦火を免れることができたのです」

「慶喜はその後どうしておったのだ」
「一時水戸へ移られましたが、その後はずっと駿府で退隠されておりました。大政奉還から三十一年を経た明治三十一年(一八九八)に天皇様と謁見され、最高の爵位である公爵に任ぜられました。早々と朝廷に恭順の意を表されて、江戸や大阪の町を戦火から免れた功績だったともいわれております」

「慶喜の後の徳川家は?」
「御宗家の十六代が家達様、十七代が家正様で、現在の十八代が恒孝様でございます」
「よくわかった」というと、ほっとしたのかユリは、少し口を開けて舌でペロリと唇を舐めた。側室のお六が緊張したときにする仕草とまったく同じだった。

「本日ご覧になりたい所がございましたら、どうぞおっしゃってくださいませ」と千代がいう。
「水がどうなったか知りたいものだ」
「承りました。江戸の水に関して現在で覧いただける場所をいくつかご案内いたします。お出かけになる準備を行いますので、しばらくご休息なさってくださいませ」といって、真紀が階段をとんとんと降りていった。

 江戸に入府してからの町造りには、水に関する課題が山積していた。
最初に必要だったのは、飲料水の確保だった。武蔵野台地からなる江戸の町の中心部には、もともと川が少ない。井戸を掘っても海が近いために塩分が含まれていて飲用には適さない場所がほとんどだった。
 移住してきた武士や町人たちの住む場所の確保も待ったなしだった。
入り江や低湿地が多く、住居が建てられる乾いた土地が非常に不足していたので、城の構築は後回しにして埋め立てを推進した。手始めとして神田山の南部を切り崩して日比谷入り江を埋め立て、江戸城の城郭と家臣の屋敷を確保した。その後も、海に向かって住民たちの居住地や市場などの用地を拡大し続けた。
 治水対策も急務だった。江戸湾には何本もの河川が流れ込んでいて、
大雨による洪水の危険が大きかった。中でも利根川が最大の脅威で、早急に付け替えをする必要があった。
 さらに、江戸に住む住民の食料を安定的に確保するためには、近郊の農家が作った米、麦、野菜や、海で獲れた魚介類を運びこむ水路が必要だった。なお、これらの水路が整備されたあかつきには、多くの軍勢を船で一気に運ぶことも可能になる。

「お出かけのご用意ができました」と真紀が上がって来たので、一階に降りて玄関に出ると、昨日のものとは別の見慣れない白い車が止まっていた。
「本日は、何か所か遠方まで出かけますので、お疲れになりませんようにと大きな車を用意いたしました」といい、一人の背の高い男を紹介した。
「春夫と申します。徳川家康様にお目にかかることができまして、誠に光栄でございます。本日は、車の運転を担当いたします。また水に関するいくつかの場所のご案内をさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」と挨拶した。
「春夫さんは、私と同じ学問所で学ばれましたので先輩にあたります。その後も日本の歴史の勉強を続けてこられましたので、私よりもずっと詳しい方ですよ。私は約束があってでかけなくてはなりませんので今日は失礼いたします。おじさま、母をよろしくお願いしますね」といいながらユリが片目をつぶった。
 千代とユリに見送られて出発する。広々した後ろの座席に局と並んで座った。前の席では、春夫と真紀が肩を寄せ合って親しげに話し始めた。

 静かに車が走り出した。
「初めに、東京都水道歴史館という場所にご案内いたします。家康様が入府されてから現在にいたるまでの間の、江戸の飲料水に関する歴史的流れが一目でがわかるようになっております」と運転しながら春夫が説明してくれた。
 昨日と同様に、江戸城の外堀に沿いながら進む。行き交う車の数が相変わらず多い。
「左手に流れているのは神田川でございます。後ほどその源流である井之頭池までご案内いたします」と春夫がいう。

 右手の坂を上り、広い敷地の建物に入った。
「どうぞこちらでございます」と言いながら真紀が車の扉を開ける。
 正面玄関が自然に両側に開いた。まず、エレベーターに乗る。ここでも無人なのに音もなく扉が開く。四人が乗り込むとすぐにまた閉まり、すっと上がる。また扉が開くとそこはもう二階だった。
「この階には、江戸時代の二百六十五年間にわたる上水道の歴史的な記念物が展示されています。下の一階では、その後の明治時代以降の水道の変遷を見ることができます」
 二階の階段横に、一枚の絵が掲げられていた。「上水をみたてる」という表題の横に、「徳川家康に菓子を献上する大久保藤五郎」という説明文があった。

 入府して真っ先に取り組んだのが飲料水の確保だった。事前に小石川目白台下には塩気を含まない流れがあるとの報告を受けていたので、菓子司だった藤五郎に江戸への先乗りを命じた。その結果、江戸入府の二か月後に上水道が建設できた。藤五郎にとってはまったく経験のない仕事だったが、見事に小石川上水を通水させた功に免じて、茶釜「宮島」と馬「山越」を与え、「主水(もんと)」という名前を許したのである。
 江戸の町では飲料水の需要はその後も大きくなる一方だったので、郊外に鷹狩りへ出かけるたびに飲用に適した池の情報を聞き出した。その一つが井之頭にある「七井の池」だった。地元の古老によれば、源頼朝公が見つけたと伝えられているという。源氏の初代将軍の発見によると聞いて、深い縁を感じたのだった。
 さらに、善福寺池や妙正寺池などが見つかったので、それらを併せた神田上水を作るように命じた。

「大久保様が井之頭池付近の地元の名主の内田六治郎から協力をえて、神田上水に完成したのは、江戸へのご入府から三十九年後の寛永六年(一六二九)でございました。その神田上水が流れていた跡は、今では先ほど車の中からご覧いただきました神田川になっております」
 ギャマン造りらしい透明な箱の中に、古びた木製の樋が収められていた。
「神田上水で使われていた樋でございます。近年になって大きな建物を建てる工事を行った際に地下を深く掘り返したところ、出土したものです」と春夫が補足する。
「江戸の住民はその後も増え続けたと聞いたが、それで飲料水は足りたのか」
「いいえ、十分ではございませんでした。記録によれば江戸の人口は慶長十四年(一六〇九)ごろで十五万人ほどだったそうです。その後三代家光様が、寛永十二年(一六三六)に全国の諸大名が江戸に二年と領国に一年を交互に在勤することを義務付けた参勤交代を制度化されました。それに伴って、大名に仕える家臣や従僕とその家族が江戸に住むことになりましたので、一気に飲料水が不足するようになりました」
「池の水程度ではとうてい足りるまい。川から引くしかなかろう」
「おっしゃる通りでございます。新たに多摩川から四谷の大木戸まで
約十一里の上水路が開削されましたのが、神田上水が開通してから二十四年後の承応二年(一六五三)のことでございました。その上水は玉川上水と名付けられ、工事に尽力した兄弟には玉川の姓が与えられました。この上水の取水口となっております羽村堰にも後ほどご案内いたします」
 館内には、玉川上水の遺跡を詳しく説明した展示物がたくさん並んでいた。

 続いて階段で一階に降りると金属製の管が並んでいた。
「木製の樋は数年に一度は交換する必要がありますので、現在では寿命が長い金属製の管などが水道の本管として使われております」

「明治の時代に入ってからも日本の人口はさらに増えましたので、ますます上水の需要が増えました。そのため荒川からも水を引くようになりました。また、高台や山奥にで川の水を堰き止めた巨大な堰堤を作るなどの工夫を重ねております」
「荒川は大川に流れていたはずだが」
「今から百十年ほど前に、中川等いくつもの中小河川を利用し、江戸湾まで通じる新たな荒川を建設しました」
「それはぜひ見たいものだな。だが、川の上流に大きな堰堤を作っても、やがて土砂が堆積してしまうのではないのか」
「後ほど荒川にもご案内いたします。ご指摘の通り堰堤は次第に浅くなりますので、堆積した土砂を大型の機械を使って取り除く作業が欠かせませんし、すでに使用できなくなってしまった堰堤もあります」

「お疲れになりましたでしょう。すぐ近くにお休みになれる場所がありますのでご案内いたします」と真紀がいう。

 車で数分間移動し、広い庭園に入った。
「ここは水戸藩の上屋敷跡の一部で、現在は小石川後楽園と呼ばれております」と春夫が説明を始めた。ギャマンの窓越しに大きな泉水を望む広々した部屋に通された。
「水戸の上屋敷にこんなに広い庭園があったかな」
「神田上水が完成したのと同じ年の寛永六年(一六二九)に、水戸家初代藩主の頼房様がお造りになったものでございます。また、この建物は涵徳亭と呼ばれています。現在では、この庭園を訪れる人たちが昼食や休憩をとる場所として用いられております」
「昼食にはまだ早い時間でございますので、何か甘いものでもおひとついかがでしょうか」と真紀がいう。
「そなたに任せる」
「それでは、ここの名物になっております白玉ぜんざいをお召し上がりくださいませ」
ギャマンの小鉢に乗せられて出されてきたぜんざいは、小豆がたっぷりでとても甘く美味しかった。

「ぶしつけで恐縮でございますが、真紀さんは春夫さんとはどういうお知り合いなのですか」と阿茶局が尋ねた。
「はい、年齢も同じで生まれたときから近所同士で幼馴染の間柄です。また、春夫さんは何か所もの髪結いのお店を経営しておりまして、私はそのうちの一軒を任されているのです」
「失礼ですが、春夫さんのご家族は」
「一度結婚したのですが、八年前に妻を亡くしまして、今は一人暮らしをしております」
「立ち入ったことをお聞きして申し訳ございませんでした」

 再び車に乗り込んだ。
「次に七井の池跡にご案内いたします」と春夫が説明を始めた。
「現在は、大きな池を囲んだ公園として住民に開放されていて、家族連れや若者たちがたくさん訪れています。とくに春の桜や秋の紅葉の時期にはすれ違うのが大変なほどの人出になります」
 井之頭公園に到着した。冬場の午前中は人出が少ないとのことで、静かな佇まいだった。
「現在はこの池の水を飲用には使われていないということだったな」
「はい、ご覧いただきますように今はもう池の周辺はもちろん、あたりはすべて住宅になっております。ですから一面に田畑が広がっていた昔のように自然に水が湧き出ることがなくなりました。この場所は神田川の源流でしたが、今流れ出ている水は少し離れた場所にある武蔵境の貯水場から水道管で引いてきたものでございます」
「それならば、他の川の水も自然に湧き出る水だけでは足りなくなってしまったのではないのか」
「おっしゃる通りでございます。多摩川や江戸川、これからご案内いたします荒川など大きな川以外の中小河川は、今はもう飲用には使われておりませんし自然の湧出量では不足しますので、神田川と同様に浄水場に貯水された水を補給して流しております」

「次は、玉川上水の取水口である羽村堰にご案内いたします」と春夫が車を出した。
 しばらくすると、見覚えがある大きな川のほとりに出た。
「これが多摩川でございます。江戸の時代から基本的な川筋は変わっておりません」
 川に沿った土手の上から見下ろすと、大きな堰が多摩川の流れの一部を引き込んでいる。
「承応三年(一六五四)に作られて以来三百六十五年間、堰の形はまったく変わっておりません。現在では、玉川上水は飲用や耕作用には使われておりませんので、少しだけしか水を流しておりません」
「多摩川は、上流から木材を運ぶ筏の水路として盛んに利用されていたはずだが」
「はい。玉川上水の開削が計画された当時は、筏師たちから大変反対されたということです。その人たちを玉川兄弟が懸命に説得して、筏の往来が盛んな時期や渇水期には取水量を調整するという条件で、ようやく折り合いをつけたと伝わっております」
 取水堰の横に公園があり、玉川兄弟の銅像が建てられていた。

「それでは昼食場所へご案内いたします」と車が出発する。
 広い道路を少し入った先にある大きな店に車が着いた。
「ここは、百二十年ほど前から営んでいる蕎麦屋でございます」と真紀が慣れた様子で奥の座敷に案内してくれた。中庭が見渡せる広い部屋に座る。
「お飲み物はいかがいたしましょうか」
「この前のビールがあれば飲んでみたい」
「かしこまりました」
 まもなく、見覚えのある生ビールが出てきた。冷たくてのどに心地よく一気に飲んだ。春夫は車の運転があるのでお茶だったが、真紀は、何やら瓶を数本注文し、それをグラスに注ぎ、のどを鳴らすようにして一気に飲み干した。黄色く泡が立っていて生ビールにそっくりだ。
「それは、なんという飲み物なのだ」
「はい、ノンアルコールビールと申します。夕方には春夫さんと車の運転を交替しますので、お酒の成分がごくわずかしか入っていないビールにいたしました。」
正面から見るとお梶の方と瓜二つなのでつい見とれてしまう。しかし、つつましいお梶の方とは違う堂々たる飲みっぷりをみて、ここは四百年後の東京だったと気が付いた。
ビールと一緒に、木箱に乗せた海苔や、卵焼き、ワサビ付きのかまぼこなども卓上に並べられたので、箸でつまみながら、ビールの追加を頼んだ。
「木箱の中はどのようになっているのだ」
「はい。このように炭が入っていて、焼き海苔が乾燥しないようにくふうされています」と言いながら、真紀が箱を開けて見せた。
「蕎麦の種類がいろいろありますが、何かお好みはございますか」と真紀が尋ねる。
「蕎麦がき以外の食べ方があるのか」
「もちろん今でも蕎麦がきはございますが、一般的には細く麺に切ったものをお湯で茹でて食べる方法が行われております。また、温かい汁蕎麦の上に、お好みの天ぷらなどを乗せるのもよろしいかと存じますがいかがでしょうか」
「それは楽しみなことだな。この季節にふさわしいものはあるか」
「朝方にお召し上がりいただきましたカキやハマグリがこの店の名物になっております。その他に、エビの天ぷらなどもございます」
「それでは、ハマグリがよい」
「お局様はいかがされますか」
「エビの天ぷらをお願いします」
 アツアツの汁の上に、ふっくらしたハマグリがいくつも乗った蕎麦は、香りがよく美味だった。隣の局を見ると、満足そうに食べていた。

 すっかり酒と蕎麦を堪能して車に乗り込んだ。
「次の小名木川までは、少し時間がかかりますのでごゆっくりなさってくださいませ。車の中が少し寒いようでしたら、温めますがいかがでしょうか」と真紀がいう。
「少し暖かくしてくれ」というと、何やら温かい空気が漂ってきた。夏場には逆に冷やすことができるという。

 食後の心地よさと春のような車中の暖かさのせいで、つい眠り込んでしまう。
「大御所様、着きました」との局のささやきで目を覚ますと、ある橋の上に車が止まっていた。外に出ると橋のたもとに一枚の浮世絵があり、葛飾北斎作「深川萬年橋下」と表題が書かれていた。
「この萬年橋は、隅田川から小名木川に入った最初の橋になります。二つの川の合流点ですので、川舟番所が設けられておりました。川筋は家康様が開削された当時のまま変わらずに残っております」

 江戸入府と同時に、小名木四郎兵衛に開削工事を命じたのがこの小名木川だった。江戸の周辺で獲れた米や塩、野菜などの生活物資を大量に運び込むためには、舟運が最も適していた。さらに、この小名木川を起点として、江戸の町の東側一帯に水路を何本も開削して、縦横に舟で移動できるようにしたのであった。

「その後も江戸の人口が増え続けましたので、神田上水が完成したのと同じ年の寛永六年(一六二九)に、現在の川幅にまで拡張するとともに、中川の東側にも新川を開削しました。これによって、行徳塩田が墨田川まで直通することになりました」と春夫が補足した。

 さらに一里ほど車で移動し、中川舟番所資料館に到着した。小名木川が開削された当初には墨田川との合流点にあった舟番所を、七十年後の万治四年(一六六一)に、舟の往来が多い中川との合流点に移設した場所だという。春夫が先に立ち入館する。
「この番所では、江戸に運び込まれる諸物資を厳しく点検したという記録が残っております。また、当時使用されていた高瀬舟が、荷物を積んだ形でそっくり再現されております」
 資料館を出た目の前の河原に、白い大きな車が止まっていた。水中では船の働きをする水陸両用のスカイダックという名の乗り物だという。外国から来たらしい一団が声高に話す声が聞こえてきた。

 車で少し先に向かうと大きな川に突き当たった。
「これが荒川でございます」
「利根川を江戸湾から切り離したのに、なぜこんな大河を引き入れたのだ」
「はい。大川、すなわち今の隅田川は明治に入ってからもたびたび洪水を起こしました。すでに家康様の時代から隅田川の上流の東側に、日本堤や墨田堤などが造られていましたが、それでも防ぎきれませんでした。
 とくに、今から百十年ほど前の明治三十三年(一九一〇)に起きた大洪水では、破堤した場所が十数か所にも及んだため、死者三六九人、被災者百五十万人、流出、全壊した家が一六七九戸と未曽有の被害となりました。また、近くを流れている中川もたびたび氾濫しましたので、江戸の東部にある河川を整理統合して一本の大きな川を作るための工事が計画されました。
 工事の対象となった範囲が非常に広かったため、千三百世帯の住民が立ち退き、寺や神社、鉄道などたくさんの施設が移転するなど一大事業となりました。
二十年がかりで荒川放水路が完成したのが昭和五年(一九三〇)のことでした」
「それだけの大工事を行ったのだから洪水は防げるようになったのか」
「はい。工事が完成してからは一度も洪水が発生しておりません。しかしながら、その後専門家たちが調査、研究を重ねた結果、現在の堤防でも予想以上の大雨に対しては万全とはいえないと指摘されていて、現在もなお堤防等の強化を続けております」
「治水はまさに絶え間ない仕事だな」

「最後にもう一か所、利根川へご案内申し上げます」と春夫が車を出発させた。

 入府した当時の利根川は、城の北東に当たる関屋付近に河口があったので、その付近は一面の湿地帯であった。したがって住宅地にはならず、海水が入り混じっているために田や畑としても使えない場所でしかなかった。それどころか上流の上州付近で大雨が降るとたちまち、一帯が水浸しになってしまうのであった。
 この厄介ものが江戸湾に入り込まないように、東側へ付け替えるという大工事を命じたのは、伊奈忠次であった。関東郡代の役職を与えて、関東周辺の河川改修工事の責任者としたのであった。

 忠次が最初に取り組んだのは、利根川上流部にいくつもある分流の付け替えであった。文禄三年(一五九四)には忍領東部にあった会の川を、続いて元和七年(一六二一)には浅間川を締め切り、新川通を開削することで利根川の中流部を一本化し、渡良瀬川に合流させることに成功した。
 しかしながら、渡良瀬川の下流は二本の流れがあり、その一本は権現堂川、太日川となって、依然として江戸湾の浦安付近に流入していた。そこで、江戸湾への流入量を減らすため、元和七年から赤堀川の開削を開始し、太平洋に通じた常陸川への水路建設工事を開始したが難航した。数度の失敗ののち、伊那忠次の跡をついだ二代目忠治と三代目忠克の手によって、承応三年(一六五四)に常陸川への通水が実現した。

「忠次が会の川を締め切ってから七十年後の寛文五年(一六六五)に、権現堂川と赤堀川をつなぐ水路である逆川が完成しました。その結果、銚子から常陸川、赤堀川を経由し、権現堂川、太日川を経て江戸湾にいたる内陸周りの水路が通じたのです」と車の運転をしながら春夫が補足してくれた。

「関宿城博物館に着きました」との春夫の声で、車を降り館内に入った。先ほど春夫の説明にあった利根川東遷に関する様々な資料が展示されている。関宿から、逆川が開削された地図が大きく出ていた。
「家康様、不躾でございますが一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」と春夫がいう。
「構わぬ」
「江戸時代の歴史を研究する人の中に、逆川を開削することによって、奥州と関東を唯一陸続きでつないでいる関宿の地点を水路で切り離すという目的もあったという意見があるのですが」
「あながち、間違いではなかろう」
「失礼いたしました。どうもありがとうございます」

「大御所様、本日は大変お疲れになられましたでしょう」と局がいう。
「それでは、精がつく天ぷらのお店にご案内いたします」と春夫がいうと、真紀がいたずらっぽい目でほほ笑んだ。

 帰りの道中は真紀が運転する。手元をのぞき込むと自分の車のように慣れた手つきで操っているので、この車には乗りなれているらしい。
「この車もガソリンとやらを使って動かしているのか」
「はい。ガソリンがモーターという動力源を動かす仕組みになっておりますが、それを動かす過程で電気を発生させますので、その力も利用しています」
「巧みな仕組みになっているな。ガソリンの消費量が節約できるということか」
「ご指摘の通りでございます。電気とガソリンの両方を使って動くことから、雑種という意味の英語の表現を借りてハイブリッド車と呼んでおります」

「到着いたしました」といい、真紀がドアを開けてくれた。木造の大きな店構えに入ると、春夫が慣れた様子で奥の座敷に案内してくれた。
「この場所一帯は日本堤です。この店は百三十年続く老舗で、この建物は九十二年前の震災で焼失しましたが元の姿に建て直されました。七十年前の戦争によるアメリカによる空襲で辺り一帯の建物はすべて焼失しましたが、この店だけが焼け残ったため、貴重な木造建築物として国の登録文化財に指定されております」と春夫が説明してくれた。
「運がよかったのだな」
「この店は、天丼が売り物ですのでそれでよろしいでしょうか。お飲み物はいかがされますか」と真紀が尋ねる。
「少し冷えてきたので酒が欲しい」
「かしこまりました」と真紀が日本酒の燗を数本注文した。
 すぐにお銚子に入った燗酒が出てきた。
「どうぞ」の真紀の言葉に従って盃をとると、慣れた手つきで注いでくれる。
「このお店では灘のお酒のみを出してございます」
「今でも上方の酒が重宝がられているのか」
「現在は、江戸の時代に比べて平均気温が高くなっておりますので、全国各地で美味しいお酒が造られるようになりました。でも、ここのような老舗では相変わらず上方の酒を用意しております」
 車の運転があるため、好きなはずの酒を控えている真紀は手持無沙汰のようで、真っ白で細い指先を銚子にからめながら何度も注いでくれる。横から見ても顔や姿がお梶にそっくりだったので、まるで駿府の城で飲んでいるような気がした。
「天丼がまいりました」と真紀の言葉に続いて、蓋の間から天ぷらが
はみ出している大きな丼が並べられた。
「大きなアナゴとエビ、それに小エビのかき揚げと野菜三種、季節の魚のてんぷらでございます」と店の者が説明する。
 サクサクの衣で包まれたアツアツの天ぷらの上に、香ばしい汁がかかっていて、何ともいえない味だった。一緒に出されたなめこの味噌汁とシラスおろし、瓜の奈良漬けも、一気に食べてしまった。
 締めに小倉の天ぷらアイス添えを食べると、すっかり満腹になった。

「私はもう一軒、家康様をご案内いたしますので、阿茶局様は真紀さんがお送りいたします」と春夫がいう
「男の方同士でのお話がありますでしょうから」と真紀がやや不機嫌そうにいいながら車を出した。

 春夫の案内で少し先まで夜の町をあるく。照明がひときわ明るい店に入り、待合室に通された。
「この辺りは遊郭でした」と春夫が説明を始めた。
江戸の町が発展するにつれて、全国各地から大勢の住民が流入してきたが、大半が男であった。

「そこで家康様が日本橋葺屋町に遊郭の営業をお認めになったのが、今から四百年前の元和四年(一六一八)のことでした。その後、江戸の町が発展して住宅地がどんどん広がったことと、大火が発生したこともありまして、四十年後の明暦三年(一六五七)に、日本堤にある現在の場所に移転し、吉原遊郭として六十年前まで栄えておりました」
「なぜ、遊郭がなくなったのだ」
「七十三年前にアメリカなどの連合軍との戦争に敗れた日本は、一定の期間その占領下におかれました。その占領軍の命令でいくつもの政策がすすめられ、その一つが男と女の地位を平等にすることでした。そのため、遊郭は女性を虐げる制度であるということで廃止されたのです」
「江戸の時代には女性の立場は必ずしも低くはなかったはずだ。阿茶局をみてもわかるであろう」
「明治の時代に入ってから、女は家を守り、男が外で働くべきという教育が徹底されたからでしょう」

「ところで、この店ではどんな仕事をしているのだ」
「ここでは、部屋ごとに広い浴場があって若い女性が湯女のようなもてなしをしてくれます」
「その湯女はどのようにして選ぶのだ」
「これをご覧ください」と春夫が一冊の分厚い本を差し出した。それぞれの頁毎に、にっこりとほほ笑んだ女性たちの似顔絵(写真というらしい)が載っていて、下に何やら文字らしいものが書かれていた。
「この文字は何なのだ」
「その女性の年齢や背の高さ、胸の大きさなどが書かれています」
 お六によく似た感じの小夜という名前の女性を選んだ。春夫が選んだ写真を見せてもらうと真紀によく似ていた。

 小夜に案内されて部屋に向かう。背の高さがほとんど同じだったのは、江戸時代の女性より足が長いからだろう。広い部屋に入ると半分が浴室になっていた。浴衣一枚になった小夜が、頭のてっぺんからつま先まで丁寧に洗ってくれた。広い湯船につかっていると、「失礼します」といって小夜が入ってきた。湯船で向かい合うと大きな瞳、高い鼻、おちょ口に豊かに盛り上がった乳房の形までお六と瓜二つだった。

「こちらでお休みくださいませ」と先に湯船を出た小夜が、丁寧に体を拭いてくれてから、部屋の反対側に案内してくれる。床から少し高くなった大きな縁台の上に布団が敷かれていたので、その上に腰を下ろした。
「これは何というのだ」
「あら、ベッドです。寝床ですよ」といわれ、奈良の正倉院に聖武天皇と光明皇后が使われたという木製の縁台があったことを思い出した。
「ビールでございます」と、大きな瓶からなみなみとグラスに注いでくれた。飲んでみると生ビールと同じ味だった。
「これは、ノンアルコールビールではないのか」
「いいえ、れっきとしたアルコール入りの飲み物でございます」
たわいがない話をしているうちに今日一日の疲れがすっかりとれてしまう。
「お時間でございます」との声で気が付くと、早くも一刻(二時間)経ってしまっていた。
先ほどの待合室に戻るとすでに春夫が待っていた。

 春夫が手配してくれた車の座席に並んで乗り込んだ。
「なかなか良い店だったな。よく来ているのか」
「はい。家に戻っても一人ですから、仕事の疲れをとるために時々利用しております」
「真紀は何もいわないのか」
「彼女には息抜きをしてもらうために、定期的に食事や小旅行の相手をしておりますから」といっているうちに佃島に戻った。
「お帰りなさいませ」と玄関の前で阿茶局が千代と真紀の三人が出迎えてくれた。
「なぜ、戻る時間がわかったのだ」というと、春夫が何やら小さな道具を指し示す。
「携帯電話といいます。離れた場所同士でも、電波というものをやり取りして会話することができる仕組みになっておりますので、店を出る前にこちらに連絡しておきました」  
「便利なものがあるな。ところでユリの姿が見えないな」
「本日は、勉強仲間たちとの会合があるので遅くなるようです」と真紀が心配するそぶりも見せずいった。

 三階の部屋に戻ると、すでに布団が敷かれていた。千代が用意してくれた熱い川根茶を飲む。
「お休みなさいませ」といういつもの局のささやきを耳にして、すぐに眠りについた。

「大御所様、お目覚めでございますか」といつもの通りの阿茶局の声がして目が覚めた。東京に来てから三日目の朝になる。
「お風呂のご用意ができております」というユリの声がしたので起きだして、一階の浴室に向かった。
やがて、「お背中をお流しします」との声がして、胸が大きく開いた上着姿で足がむき出しにしたユリが入る。髪型がそっくりなので一瞬、小夜が出てきたのかと思った。
「昨日は、春夫おじさまが随分あちこちにご案内されたそうですね。お疲れになりましたでしょう」
「いや、後世の水事情がよくわかってありがたい。それに、蕎麦も天丼も美味であったぞ」
「その他はいかがでございました」
「ところで、昨夜戻った時には家にいなかったようだな」
「はい、仲間たちと築地にある寿司屋で、月一回の懇親会を行っていましたので、家に帰ったのはずいぶん遅かったです」
「男もいたのか」
「男と女が半々でした」
「寿司屋とはどんな店なのだ」
「はい。今日のご朝食は、築地の寿司屋にご案内しますと祖母が申しておりましたので、後ほど詳しくご説明させていただきます」といって、ユリが先に浴室から出て行った。
千代が新しく用意してくれたらしい着物に着替えて三階に上がった。
 
「家康様、お迎えの車がまいりました」という真紀の声で一階に降りると、玄関前に昨日乗った春夫の車が止まっていた。
「春夫さんからお借りしてきました。後ろが三人で少し狭くて申し訳ございませんが、店はすぐ先ですのでご辛抱くださいませ」と真紀と千代が前の席に並び、後部には阿茶局とユリに挟まれるように座った。ぷりぷりしたユリの体に触れるのが心地よい。

「今わたっておりますのが、隅田川で海から二番目に近い勝鬨橋でございます。七十年前まではこの橋の上を電気で動く電車という乗り物が走っておりました」と千代が説明した。
「電車とは大きな乗り物なのか」
「はい、一度に百人以上の人を運ぶことができます」

「寿司屋に着きました」と千代が扉を開く。二階建ての店に入り、奥座敷に通された。
「お飲み物はいかがでしょうか」
「ビールがよいな。ところで寿司とはどんな食べ物なのだ」
「はい。酢飯の上に生の魚介類を乗せた食べ物でございます」とユリが説明を始めた。
「今から二百年ほど前の文政年間(一八一八〜三〇)ごろに、江戸の料亭が始めた料理だといわれております。江戸湾で獲れた新鮮な魚を当時は生では出せませんでしたのでさっと炙り、あるいは酢締めやしょうゆ漬けにしたものを一口大の酢飯の上にのせて出したところ、職人など体を使う男たちに評判になり、すぐに広まったということです」
 まもなく出てきた寿司は、小ぶりな生の魚が酢飯の上に乗っていた。軽く醤油につけて一口で食べると、口の中ではらはらと崩れていき、ワサビが気持ちよい辛さだった。合間に酢で締めたというショウガの細切りを口直しでかじりながら、いろいろな種類の寿司を次々と食べてみた。
「うまいな。今はいつでも氷が作れるのだから生で食べられるのか」
「はい。全国各地の魚や貝類が生で食べられるのです」

 帰りの車の中で、千代から「大御所様、お出かけになりたい所がございますか」と聞かれた。
「そうだな。駿府がどうなっているのか、ぜひ見てみたいな」
「かしこまりました。それでは早速これからご案内いたしましょう」
「そんなにすぐに行けるのか」
「はい。東京から駿府(今は静岡といいますが)までならば、非常に早く走る電車に乗りさえすれば半刻(一時間)で行くことができます」

 三河の岡崎城から江戸城に入府したのは天正十八年(一五九〇)の八朔(八月一日)のことで、その時に要した日数に比べると信じられないほどの電車という乗り物の速さだった。場合によっては外国との戦争に巻き込まれたり、法外な値段を吹っ掛けられる可能性があるものの、インドよりもさらに遠い国々から石油を購入しなければならないという今の日本の立場が痛いほど判った。

「東京駅に着きました」と千代が車の扉を開けてくれた。広大な建物の中を数えきれないほどの人波に押されるようにして進むと、いつのまにか長い列の車の一つに乗っていて、四角い座席に真紀とユリ、そして阿茶局との四人で向かい合っていた。店の仕事があるという千代は、一人で車を運転して帰っていった。

 乗り物が音もなく動き出した。
「新幹線といいます。大坂ならば一刻半足らずで、博多でも二刻ほどで行くことができます。長州や薩摩でさえも、朝出発すればその日のうちにたどり着くことができます」とユリが説明する。
 窓の外から見える景色が、次から次へと目に留まらず後ろに飛んで行く。まったく想像すらできない速さだった。
「コーヒーでございます」との真紀言葉で気が付くと、いつのまにか何やら黒い飲み物が用意されていたので口に含んでみた。少し熱いが香ばしく、昨夜の疲れがすっかり吹き飛んでしまうようだ。隣の局は、砂糖をたっぷりと入れて美味しそうに飲んでいる。
「今から三百八十年前の寛永年間(一六二四〜四三)に、オランダから伝わったとされております」

「駿府に着きました」とのユリの言葉で座席から立って建物の中を通り抜けて外に出ると、東京より暖かな空気が出迎えてくれた。
 昨夜と同じようにタクシーに乗ると、ほどなく大きな公園に着いた。

 天文十八年(一五四九)に、織田信広との人質交換により二年遅れで駿府城に初めて入ったのであった。その後、今川義元公の姪であった瀬名を娶り、永禄三年(一六六〇)の桶狭間の戦いまでの青少年期を過ごした場所であった。
 秀忠に将軍職を譲った二年後の慶長十二年(一六〇七)からは、大御所として、阿茶局とともに再び居住するようになったのである。

「それから二十八年後の寛永十二年(一六三五)に城下から起きた火災でお城が焼失しましたが、最近行われた発掘調査によれば、七層の天守台は江戸城を上回る日本一の規模だったことが判りました」とユリが補足する。
 天下普請を命じて整備した当時の駿府城では、明や越南にルソン、オランダ、スペイン、イギリスなどとの交易も行っていたのである。

「今は、旧本丸と二の丸跡が駿府城公園として開放されています。また、坤(ひつじさる)櫓と巽櫓、それに東御門が復元されましたのでご案内いたします」
 東御門をくぐると当時のままの姿で二つの櫓が目の前に建っていた。
「家康様とお局様はごゆっくりご見物なさってくださいませ。私共は、静岡名物のウナギ弁当を買いに行ってまいります」という真紀とユリと別れて、局と二人で坤櫓に登った。
 真紀が用意してくれた双眼鏡で四方を眺めていると、いきなり大きな振動がして櫓がぐらぐらと揺れ始めた。

「大御所様、大きな地震のようでございますね」と気丈な局が動転して腕に縋りつく。
 やがて空一面が黒い雲に覆われてきてすっかり暗くなってしまったので、櫓の隅に身を寄せた。
 ようやく長い揺れが収まると、周りが明るくなった。先ほどとは周りの様子が一変していて、いつのまにか七層の天守閣がすっくと建っていた。

「阿茶局、また駿府に戻ってきたようだな」
「はい。でもあの二人はどうなったのでしょうか」
「わからぬが、あれほど先祖代々尽くしてくれた一族なのだから、無事に東京に戻ったことであろう」
「東京で思い残されたところはございませんか」
「いや、何もない」
 もう一度、吉原には行ってみたかったと思ったが、口には出さなかった。(完)


                     このページのトップへ戻る

                      前のページへ  次のページへ
.
.
.
.
.
.

★2022年8月20日(土)『旧都電路線巡り「39系統(早稲田〜厩橋)」のうち早稲田〜文京区役所前』

   村谷が徳川家康の江戸から現代へのタイムスリップをテーマに創作した掌編小説を下部に掲載しました。