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 好天に恵まれたので、村谷は神田川歩きの続きを行った。

 ゴールの井之頭池までは、鉄道の直線距離である東中野駅〜吉祥寺駅でも12kmを越えており、神田川の蛇行部分を入れるとさらに長くなる。夕刻には将棋王将戦第1局2日目の勝負所に差し掛かる予想から、2回に分けて行うこととした。

 祝日のため先日とは打って変わって閑散としている
東中野駅改札を出て、線路沿いに新宿方面の坂道を下り、前回のゴール地点・万富橋を出発したのは午後12時10分。
正面から日差しを浴びながら、神田川緑道の右岸を一路南下する。本日は江戸名所図会に書かれた箇所が少ないながら、両岸近くに古刹が多いのでできるだけ立ち寄る方針。

 休日のためか、家族連れの散歩や、ジョギング姿が目立つ。

 
末広橋大久保通りを横断した緑道のすぐわきには、かぐや姫の大ヒット曲「神田川」の歌詞の碑が建っている。

 
淀橋青梅街道を横断する。神田上水最古の橋とされ、徳川三代将軍家光が鷹狩で訪れた際、周辺の風景が山城(京都)の淀に似ているとして名付けたのが起源。江戸名所図会には「淀橋水車(みずくるま)」と題して、井之頭池や善福寺池が水源であったため水量が不足がちだった神田上水(神田川)に、玉川上水から助水堀を引き、水車を廻してくみ上げている光景が描かれている。最大の水車の直径は5mあったという。

 淀橋はこの一帯の地名として使われ、淀橋浄水場跡が新宿新都心になり、ヨドバシカメラが全国に広がったのは言を待たない。

 中野坂下交差点で横断し、緑道は次第に西側に回っていくものの、相変わらず日差しが浴びられるのはありがたい。

 
中野長者橋山手通りに突き当たった。

 中野長者伝説とは、応仁年間(1394−1427)頃に紀州・熊野から中野に来た鈴木九郎という若者が、下総・葛西で高値で売れた馬の代金を全額浅草寺に寄付して中野のあばら家に戻ると、観音様から信心の証として黄金を賜った。それを機に波乱万丈の経緯を経て大金持ちとなったという。その後、波乱万丈の人生を経て、小田原・関本の大雄山・最乗寺で修業し、屋敷跡に建てたのが菩提寺・成願寺(じょうがんじ。当初は新宿十二社の熊野神社内に正観寺として建立された)だった。江戸名所図会「成願寺」には、参道が神田川まであったことが描かれている。寺の名前を変えるよう命じたのは、三大将軍・家光だったと伝わる。
 中野本町2丁目交差点で、がらがらに空いている山手通りを横断し、今でも広大な成願寺の境内に入った。

 お参りを済ませてから
神田川に復帰した。

 緑道沿いに宝生山八津御嶽(やつみたけ)神社があり、「暖房中です。どうぞお参りください」との表示につられて入室する。
色白長身で大きな瞳が印象的な妙齢後期?の女性の案内で階段を上がってお参りした。鎌倉初期に甲州(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に鎮座した神社が、110年前に当地に移転した。地下1階地上4階の美術館風の現代建築だ。江戸っ娘らしい女性の歯切れのよい説明を聴き、気持ちよく歩きを再開する。

 
柳橋で緑道は行き止まり。川面全面が板で覆われているので、今後は緑道を含めた大規模な工事が予定されているようだ。
川と並行する道路を西進、中野通りと交差する寿橋交差点の両側には、広大な敷地の京王バス中野車庫が広がっている。

 メトロ・
中野富士見町駅入口前の富士見橋で一旦復帰した。

 その先で再び緑道が行き止まり。広大な東京地下鉄中野工場の敷地が展開する。そのまま工場に沿って南下し、宝福寺に立ち寄った。
創建は不明だが、聖徳太子が諸国巡礼に際に建立したという?伝説があり、江戸三十三観音の一つで中野観音と呼ばれている。
 昨秋の訪問で勝手を知っているので、参道の横から隣接する多田神社にも参拝する。寛治6年(1092)に源義家が後三年の駅で出征の際、先祖の多田満仲を偲び、戦勝祈願して建立したもの。宝福寺は江戸期には当神社の別当寺だった。

 南中野中学校の校舎に沿って西進し、
神田橋で左岸に復帰した。

 環状七号線の手前にある東運寺に参拝する。天正元年(1573)創建の古刹で、別称の「釜寺」の由来は、守り本尊の安寿と厨子王伝説に基づく。山椒大夫に窯ゆでにされそうになった厨子王を地蔵が僧に扮して助けたということから、本堂の屋根の上に釜が置かれている。

 環七を横断、暑いのでたまらず
弁天橋の先にある自動販売機でWビタミンのペットボトル(600ml入り160円)を購入し、和泉がけ公園で休憩。背面に墓地が見える文殊院に向かうと生憎、門が閉まっていた。

 川面に戻り左岸を南西に進む。

 右岸に広がる日大鶴ケ丘高運動場から元気な掛け声が聞こえてくる。

 革ジャンとジーパンを映画の主人公のように見事に着こなしたブロンドで長身の白人女性=妙齢真っ盛りとすれ違ったので、最寄りの
宮前橋で本日は終了とした。

 川筋から離れて、先ず和泉熊野神社に参拝する。鎌倉中期の文永4年(1267)の創建。高台に位置することから、境内からは縄文期の土器などが出土している。家光が鷹狩の際にうえたというお手植えの松が残されている。

 続いて、隣接する別当寺だった龍光寺に参拝を終えたのが午後2時、本日は110分の行程だった。平安最末期の承安7年(1172)の開創で、本堂裏に四国八十八か所の霊場がある。
 本堂の手前に頑丈な屋根付きの立派な木製のテーブルとベンチがあったので休憩。ハチミツカリントウ数本をWビタミン飲料で流し込んだ。

 井ノ頭通りに出て右折、適当な休憩場所がないので缶チューハイは持ち帰り決定。

 先年ご逝去された吉川(政)大兄がたびたび訪れていた永福町大勝軒は、午後2時を回っていたにも関わらず入店待ちの行列が店舗を半周していた。

 京王井の頭線・
永福町駅から帰途に着いた。

 次回は、ゴールの井之頭公園を目指します。

 本日参拝した寺社のおかげで、午後3時過ぎに帰宅し、王将戦の最も濃い部分をじっくりと鑑賞できました。(村谷 記)

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★2023年1月9日(月)「神田川中流部(東中野〜永福町)」