村谷は好天となるという予報に従い、最終回となる標記散歩を行った。
残る4か所の札所は山手線の外側に位置しており、歩行距離がこれまでの5回と比べて長いため、いつもより早めの午前10時20分に東京メトロ丸の内線支線・中野富士見町駅改札を出発した。
富士見橋で神田川を渡る。この付近の地名は和田で、当地に鎌倉武士の和田義盛の陣屋があったためともいう。
右手にある大型スーパーOZEKIの店頭では、若手男子店員さんの「ワインのセール中ですよ」との呼び込みに誘われて、お客さんが次々に入店していく。今年のボジョレヌーボーは例年より割高とのことで、集客力が高そうだ。
左手にある佼成病院は、現役当時人間ドックで数回利用したことがあったが、現在はコロナワクチンの接種会場となっている。
救世軍前という昭和の時代を思わせる交差点を通過する。右手奥には救世軍ブース記念病院がある。
普門館前交差点の一本手前を右折すると、住宅街の中の大きなお寺が19番札所・東円寺(とうえんじ)だ。天正元年(1573)の創建で、御本尊は金色に輝く聖観音、その左右には千手観音が安置されている。
参拝を終えて普門館前交差点を横断し、坂道を下る。
善福寺川を渡り、坂道を上り返す。本日のコースはほぼ真南を目指すため、正面から日差しを浴びる時間が長い。この季節にはちょうど歩きやすい。
方南通りに突当り左折東進する。かなり傾斜がある下り坂なので、順調に歩が進む。
買い物客が盛んに出入り阿している島忠ホームズの先で、再び神田川を渡り、都立中野特別支援学校の先を右折、校舎に沿って南下する。左手に広大な墓地が見えてきて、その南端から回り込んで17番札所・宝福寺(ほうふくじ)に入った。ここもまた真言宗豊山派で、創建年次は不明。御本尊は珍しく聖徳太子で、札所本尊の如意輪観音は「中野観音」と呼ばれている。隣接する多田神社とは低い垣根で仕切られているだけのため自由に行き来できる構造が残っていて、明治初期の廃仏毀釈の嵐も郊外までは強く吹かなかったたようだった。
多田神社にも参拝してから緩やかな坂道を南下する。
笹塚2丁目交差点で水道道路を横断、すぐに甲州街道に出て東進する。
ここでも買い物客で込み合っているライフの先を右折し、京王線・笹塚駅構内を横断する。以前のYSC散歩で集合した際には建設中だった再開発ビルがすっかりと出来上がっていて、南口駅前の風景が一変していた。
観音通りというアーケードが目に入ったので、誘われるように入っていくと昔ながらの商店街が続いている。左手に小さな祠の笹塚観音が鎮座していた。
商店街を抜けた地点で住所標識を確認すると、北沢5丁目とあり少し東側に来すぎている。
小路を西側に戻り、コンビニの先を左折して鎌倉通りを南下する。かつて鎌倉街道中の道が走っていた個所で、以前鎌倉から歩き始め、吉田・清水兄らとこの地点を通過したことを思い出した。
下北沢成徳高校の先から商店街になっていて、どんどん人出が増えてきた。
京王井の頭線・下北沢駅横の踏切を渡ると、目の前の景色が一変している。小田急線・下北沢駅が地下に移設された後には、まだきらきらと輝いている建物群が林立している。マスクを付け直して一巡りしてから地上に降り立った。
見覚えがある商店街を下っていくと、代沢三叉路で茶沢通りと合流した。ようやく人出が落ち着いたのでマスクをしまい込む。
代沢小学校の先で、YSCの春散歩でお馴染みの北沢川緑道を横断する。桜並木はうっすらと色づいていた。
代沢十字路で淡島通りを横断する。目の前を思い切りミニスカート姿で長身のギャルが、ヒールの音を響かせながら颯爽と通り過ぎて行った。
住所が太子堂に変わり、またも人出が急増する。正面右手に見えるキャロットタワーが大きくなり、渋谷並みの混雑ぶり。道の両側に並んだ食堂や喫茶店の店先にあるテーブルも隙間なく埋まっている。
三軒茶屋交差点で玉川通り(国道246号線)に出て右折する。正午過ぎなので、通り沿いの飲食店には行列ができている。
世田谷警察署前交差点を左折し、世田谷観音通り(旧明薬通り)へ入った。南北に縦断する広い通りが少ない世田谷区では貴重な玉川通りと駒沢通りを結び再開発された通りで、電信柱が撤去されていて歩道も広く歩きやすい。
道の両側に真新しい建物が続く中でひときわ目立つのが、日本大学三軒茶屋キャンパスだ。手元の地図には生物資源科学部と記載されているが、建物前の表示では危機管理学部およびスポーツ科学学部となっている。
世田谷観音交差点を渡り、右手の坂の先にある32番札所・観音寺(かんのんじ)に入る。昭和26年(1951)に事業家・太田睦賢が設立した天台宗系の単立寺院。江戸期以前の文化財を全国各地から取り寄せており「世田谷観音」が通称である。御本尊の聖観音菩薩像は三重県桑名郡長島村のお寺から得たという。境内に別途
に特攻観音堂があり、特攻隊員4704人の霊が祀られている。休日の散歩コースとして人気があるらしく、住職が参拝客に何やら説明中。村谷が退出するのと入れ違いに、中年カップルが境内に入っていった。
隣接する東京学芸大学附属高の敷地を半周して、下馬中央公園の先から南下、駒沢通りに出た。
中目黒方面に進み、東急東横線の高架を潜り抜けた先にある十日森稲荷神社に3年ぶりにお参りした。
守屋図書館前交差点を右折し中央仲通に入る。地名は通りを挟み右手が中央町、左が中町になっている。
目黒四中交差点で目黒通りに出ると、ゴールは近い。そのまま東進し目黒川に向かい坂道を下る。油面(あぶらめん)、元競馬場とそれぞれ由緒ある名前の交差点を通過、どっしりとした建物の多摩大学目黒高・中の先から急な坂道を上っていく。
左手に広い敷地を囲んだ塀を回り込んで、南側から33番札所・瀧泉寺(りゅうせんじ)に入る。平安初期の大同3年(808)に慈覚大師が創建された有数の古刹で、「目黒不動」の別称で有名。木原不動尊(熊本県)および成田不動尊(千葉県)と並び日本三大不動の一つとされている。徳川三代将軍家光以来歴代将軍の信仰が
厚く、度々目黒御殿としてを訪問していた。落語「目黒のさんま」は、家光が当寺を来訪した際のエピソードともいう。不動尊信仰が強まった江戸中期以降には大いに庶民の信仰を集めたため、江戸城から離れた地にもかかわらず特別に御府内として扱われていた。
正面階段手前にある独鈷の滝は、今も2組の清水が竜口から流れ出ており、盛夏には特に涼をめでる人たちが多い。札所本尊は仁王門を潜った先の観音堂に、聖観音が祀られている。
本堂に参拝をすませたのが午後1時30分、過去最長の190分の行程だった。
境内を通り抜けて北側に隣接する不動公園で昼休憩。広々した砂地の一角にあるベンチを確保した。足元にシートを広げて、タオルと靴下、ベストを脱ぐいつものスタイルになり缶チューハイを一口。先ずは、レーズンロールパンにベビーチーズを挟み腹ごしらえ。人心地着いたのち、最近お気に入りの韓国海苔でベビーチーズを巻
いたつまみでさらにごくり。この公園には1年ぶりの訪問になるので回りを見回すと、時計塔がなくなっていた。
大30分の休憩を終え墓地沿いに坂道を下り、甘藷先生こと青木昆陽の墓(国指定有形文化財)にお参りした。
山手通りを歩道橋で横断し、目黒川に向かう。道脇のイタリアンレストランの店先にある小さなテーブルを囲んで遅めのランチを楽しんでいた幼児連れの外人カップルに目をやると、若いすらりとしたママさんは、亜麻色の長いストレートヘアーが黒目勝ちの大きな目にぴったりに合う、本日ようやく巡り合えたマスクなし美人だっ
た。
太鼓橋で目黒川を渡る。ここの桜並木は整然と色づいている。
右手にある雅叙園でも大勢の人たちが出入りしている。
行人坂を上がり大円寺で本日無事のお礼を申し上げて、目黒駅から帰途に着いた。
ほぼ6週間連続で札所巡りを行ったところ、マスクなしの人がどんどん増えてきたことを実感した次第。
次回からは、都心部を中心とした川歩きを行う予定。(村谷 記)
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★2022年11月19日(土)「江戸三十三観音札所巡り第6回、最終回(東円寺〜宝福寺〜観音寺〜瀧泉寺)