明日は天候悪化が予想されるため快晴微風の本日に前倒しし、村谷は標記散歩を行った。
今回はほぼ全区間が新宿区歩きになるため、江戸名所図会に描かれた場所が多いことと、住宅などが川ぎりぎりまで建てられている関係で迂回する回数が多いのが特徴。距離が短い割には時間がかかるものと覚悟して出発した。
午前11時30分、第1回の神田上水散歩と同じく都電荒川線・早稲田駅前から出発する。本日は残念ながらマスクなし美人には会えなかった。
豊橋から右岸を行くと、落ち葉一つなくきれいに清掃されていてすがすがしい。
次の仲之橋で早速長いフェンスに突き当たった。都道環状4号線の建築資材が積み上げられていて、当分この状態が続くようだ。幸いにも最初の立ち寄り先が新目白通りを渡った先にあるので何の問題もない。坂を上った最初の信号の右手が、水稲荷神社の東側の参道入り口。
神田明神の祭神にも祀られている平将門を征伐した藤原秀郷が、天慶(てんぎょう)4年(941)に勧請した富塚稲荷が起源。その後、元禄15年(1702)に御神木の根元から霊水が沸いたのを機に水稲荷神社に改名した。江戸名所図会には「山吹の井」(「アラさんの隠れ家」さんのページ)として描かれており、徳川家康が鷹狩の折にお茶を点てたとされる茶室が「聴松亭」として残る。
両側に梅の木が植えられた参道の階段を登って 左手にある「堀部武庸加功遺跡之碑」は、忠臣蔵ブームが非常に高揚していた明治43年(1910)に、高田馬場の仇討ちの主人公でもある堀部安兵衛を偲んで建設されたもの。
参道左手の電柱に大きなヤギが綱で繋がられていて、境内を訪れた子供たちの人気の的だ。
参道右側に、隣接する甘泉園公園への入り口もあるが省略し境内に入る。境内にある「高田富士」は、早稲田大学構内にあった江戸最古の富士塚をキャンパス拡張工事に際して移設したもの。拝殿では一足先に来ていた若い女性がお参りしている。手慣れた柏手の音から想像する通り、お願い事が多いらしくなかなか終わりそうにもないので、隣に並び早々にお参りを済ませた。
なお、高田の地名の由来には諸説あるが、都心では最高地点の箱根山を含む高台からとするのが自然だと思われる。江戸名所図会に描かれた「高田馬場」は、寛永13年(1636)に旗本たちの馬術練習場として現在の早稲田通りの北側に沿って作られ、当時は茶屋も八軒あったという。
戸塚第一小学校の南側を迂回し、旧鎌倉街道に突当りそのまま下る。
左手に二番目の立ち寄り先の亮朝院がある。明暦元年(1655)に徳川四代将軍家綱が、江戸に疱瘡が流行った際に祈祷所とした。江戸名所図会には「高田七面堂」として描かれている。新宿区では数少ない戦災を免れた寺社の一つでもある。ベビーカーに幼児を乗せた若い母親が先着していた。
鎌倉街道を下り、新目白通りを渡った先にあるのが面影橋。江戸名所図会には「俤のはし」として登場。橋の袂にある新宿区道とみどりの課作成の説明板によれば「俤(おもかげ)の橋・姿見の橋」と題して、語源が諸説述べられていた。村谷の好みでは、以前からその反骨精神を買っている在原業平由来とする説に軍配を上げたい。
橋を渡った右手には江戸名所図会に「山吹の里」として描かれた「説明板」 と「山吹の里碑」があったのだが、※今は見当たらない。オリジン電気の本社が高層マンション「ブリリアシティ 西早稲田」に建て替えられた際に※撤去されたようだ。
太田道灌を巡る逸話は有名なので省略。
【管理人追記】※「山吹の里碑」は元の場所から ちょっと北側に移転されました。…面影橋を渡ってすぐ右側(「道灌紀行」さんのページ)、 「ブリリアシティ 西早稲田」の南西角、「ヤマブキテラス」の茂みの中に移転しています。 豊島区教育委員会作成の説明板はタテ書きからヨコ書きになり、碑の右横に装丁を変えて設置されています。(「さんたつ」さんのページ)
鎌倉街道を上っていくとすぐに、南蔵院 と (高田)氷川神社が道筋の両側に並び立っている。この先の坂の上にある金乗院とともに、江戸名所図会に並んで描かれている。
南蔵院は室町期の創建とされる真言宗豊山派の寺院。氷川神社は創建年月は不明ながら、旧下高田村の総鎮守だった。
続いて昨年は三度お参りした金乗院・目白不動尊にお参りする。戦国末期の天正年間(1573〜92)に創建された真言宗豊山派の寺院。先ずは本堂階段下にある弘法大師像に一礼し、様々な出来事が重なって起きた昨年を回想し、今年一年間の平穏無事をしっかりとお願いした。本堂と不動尊にもお参りを済ませてから、鎌倉街道を戻り返す。
川筋に戻って左岸を面影橋、曙橋と遡り、高戸橋まで来ると行き止まりだったので、裏道伝いに迂回して都電荒川線の踏切と明治通りを横断した。
一旦新宿方面に戻り、新目白通りを渡って高田橋でようやく神田川に復帰した。
神高橋では信号まで迂回、目の前にブックオフがあったので休憩を兼ねて入り、ウオームアップに努める。
西武新宿線の壁に突き当たったので早稲田通りへ迂回、高田馬場駅前 壁に鉄腕アトムの絵が描かれたガードで西武新宿線・JR新宿湘南ライン・山手線を潜り抜けてさかえ通りに入る。昼食時の人たちが盛んに行き交うなかで、見覚えのあるお店が数店ある。
さかえ通りを抜けて神田川の右岸に戻り、マスクを外した。
田島橋の袂に解説板があり、江戸名所図会「落合蛍」が描かれている。二十四節季の芒種(太陽暦の6月5日頃にあたる)から夏至の間が蛍狩りの盛りだったという。
すぐ先には東京富士大学・短大部の建物が通せんぼしていたので、小路に迂回する。
次の宮田橋でも川筋を通れず、落合橋も通過する。
新堀橋付近には江戸名所図会「一枚岩」があった場所。神田川と妙正寺川との合流点にあったという大岩が描かれている。昭和8年の河川工事で消滅した。
久保前橋の東側から眺められた江戸名所図会「落合惣図」には、合流点の遠景が描かれている。現在は橋の正面右手が落合水再生センターで、左手に落合中央公園が広がる。
なお、落合の地名の語源は、妙正寺川が神田川に落ち合う場所ということは明らかだ。村谷の高校時代の同級生に、落合という姓の女子がいて、その笑顔からしばしばシャムネコを連想したことを思い出した。
八幡橋からようやく遊歩道「神田上水公園」が始まる。昼のお散歩らしい子犬と妙齢後期?らしいお嬢さんとの組合せが一気に増える。
小滝橋交差点で早稲田通りを横断したところに、増田兄から新年の挨拶メールが入った。
南小滝橋まで来ると正面に一対のタワーマンション・ユニゾンタワー&パークタワー東中野が出現、東中野駅はもう近い。
JR中央線の高架の手前、大東橋近くにトイレと立派な木のベンチがある大東橋公園があるのを確認、線路を潜り抜けて万亀橋際で左折する。
住宅街を東南方向に進み円照寺に入った。天慶3年(940)に平将門征伐のため当地に差し掛かった藤原秀郷が病で倒れ、その夜の霊示に従い祈願したところたちまち回復し、翌年の勝利後に創建したと伝わる真言宗豊山派の寺院。本堂正面に咲く枝垂れ桜は、地頭だった柏木右衛門が戦勝を祝して植えたもので、柏木の地名が今に残っている。江戸名所図会には「柏木邑 右衛門桜」および「鎧明神社・円照寺」の二つが描かれている。
続いて、裏手に当たる鎧神社に入ったのは午後1時20分、本日は110分の行程だった。神社の名の由来は、平将門の鎧を祀ったという説と、藤原秀郷が自分の鎧を祀って社殿を交流したという両説があるが、いずれにせよ鎧から来ている。賽銭箱の前に「生命(いのち)の言葉」が置かれ、1月は「ともどもに 平らけき代を 築かむと 諸人の言葉 国うちに充つ」(上皇后陛下)だった。
参拝を終えて、JR線を潜り抜けて線路沿いに西進し、先ほどのベンチに戻ると、一基は若い女性が座っていたものの、幸いにも南側が空いていた。
新聞紙を足元に広げてから背中のタオルを取り去り、缶チューハイのプルトップを開けた。水分補給の手助けにはベビーチーズがぴったり。穏やかな初冬の日差しをたっぷりと受けながら大30分間の休憩を済ませ、東中野駅から帰途に着いた。
次回はさらに神田川の上流部に向かう予定(村谷 記)
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★2023年1月6日(金)「神田川中流部(早稲田〜東中野)」