村谷は朝方から所用で都心に出かけていたので、そのまま都心水辺散歩を行った。
今回は、神田川が隅田川に流れ込んでいる河口部から遡り、前回の到着地・水道橋を目指す。なお、参考資料として、以前に会社の先輩から頂戴した歴史を訪ねる会編集「神田川の今と昔を歩く=江戸名所図会を中心に=」を持参した。
午前10時45分、両国橋東詰から出発する。神田川の最下流部は都心に位置しているため水路ぎりぎりまで建物の敷地になっている箇所が多く、なかなか水辺を歩けない。橋の上からならば河口部がじっくりと観察できる。後方に見えるスカイツリーが青空にくっきり。
両国橋は千十大橋に次いで隅田川(大川)で二番目に古く、江戸前期の万治2年(1659)に建設された。名前の由来は、西側が武蔵の国、東側が下総の国だったからで、当時は江戸の中心に位置していることから「大橋」と呼ばれ親しまれていた。
江戸名所図会の「両国橋」では右岸(西側)から俯瞰しており、中央に大川を行き交う多くの船が、橋から続く広小路(現在の靖国通り)を行き交う大勢の人々、手前下には神田川の河港と柳橋が立体的に描かれている。
橋の西詰から神田川の河口を見ると、ちょうど潮の流れが停まっている時間だったのでゆりかもめの群れが水面に漂っていた。
橋を渡り終えて靖国通りを西進、最初の角を右折し、護岸に沿って柳橋に出た。柳橋といえば現在でも船宿が多いのは、江戸期に浅草にあった色街・吉原に通う船が由来。また、江戸後期には対岸の深川・辰巳芸者と双璧をなす柳橋芸者が売り物の花街として大いに栄えた。明治大正が全盛期で、伊藤博文などの政治家たちが愛用したという料亭が川沿いに立ち並んでいた。往時をしのぶ唯一の割烹料理店「亀清楼」は、隅田川と神田川が一望できる赤いマンションの一角に残る(休業中)。
現在では橋の袂にある季節の佃煮「小松屋」が人気の一店で、江戸前の一口あなご、冬季限定のかき、しらす山椒、モロコ、生あみ、糸きり昆布などがずらりと店頭に並んでいた。お店を仕切る跡継ぎの美人さんが、先日のテレビで紹介されていた。
日当たりのよい北側(左岸)に続く船宿(屋形船)に沿って進み、浅草橋に突当り地上に上がった。江戸通りを浅草橋1丁目交差点で横断し、橋の袂にある「浅草見附跡」の碑は、奥州街道や日光街道に通じる浅草御門を警備する武士が駐在した場所。
江戸名所図会にはこの先の南側にあった「馬喰町馬場」が描かれている。古くは慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の際に、馬揃えが行われたという歴史がある。何も残っていないので立ち寄りは省略した。
この先しばらくは水辺を歩けないので、鳴門鯛焼本舗浅草橋店の前から小路に左折する。店頭には1個260円の十勝産小豆を使用した鯛焼を求める人たちが数人並んでいた。
肉のハナマサの店頭には、旬の野菜が山盛りに並べられていた。今年は野菜が安くて鍋好きにはありがたい。
左衛門橋を通過、次の美倉橋で清洲橋通りに沿って右岸に渡り右折すると、旅行用のキャリーバックを引く人たちの姿が急に多くなった。全員がマスク姿で、ノーマスクの村谷が目立ってしまう。
この付近は柳原通りで、江戸期には浅草橋から万世橋にかけての南側の土手が「柳原堤」と呼ばれていた名残だ。江戸名所図会の「柳原堤」には柳の木が多い土手の姿が描かれている。当時は、夜鷹と呼ばれる私娼が出る場所として知られていた。また、古着や小道具を売る店も多かったという。
歩道橋で昭和通りを跨ぎ超える。高い場所が苦手なのでなるべく早く通り過ぎた。
JR各線が頭上を行き交う大ガードを潜り抜ける。
建物に囲まれた一角に、小ぶりな柳森神社があったので立ち寄った。先ほどの「柳原堤」に描かれていた当時はかなり広い敷地だったことが判る。室町期に太田道灌が江戸城の鬼門除けとして柳の木を多く植えて、京都の伏見稲荷を勧請したという。お狸様と呼ばれた親子タヌキのお守りが、勝負事や立身出世、金運向上にご利益とされ、そのためなのか次々に参拝客が訪れてくる。
「肉の万世本店」横から中央通りを万世橋で渡り返した。昨年秋に10階建てのビルが売却されたという報道が流れて一時は閉店を噂されたが、その後営業規模を5階以下に縮小して現在まで継承している。
明治45年(1912)に建設されたレンガ造りの旧万世橋駅跡が、「マーチエキュート」として保存されている。神田川の右岸に沿ったウッドデッキが目に入り寄り道する。途中で水色のメイド服姿のお嬢さんが、カメラを片手に持った若い男性と何やら話し込んでいた。マスクなしの柔らかな表情で、ミニスカートから覗くすらりとした足が魅力的だった。デッキが行き止まりとなっていたので引き返して、レンガ造りの南側に移った。この付近にあった「筋違八ツ小路」は、筋違橋・昌平橋・駿河台・小川町・連雀町・須田町・日本橋通り・柳原の八方向から道が集まっていた交通の要衝だった江戸名所図会にある。
昌平橋で外堀通りに出て右折し、一旦神田川から離れる。神田明神下交差点で中山道(国道17号線)に入り坂道を上る。
参道の両側に甘酒屋が2軒ある神田明神に入った。いうまでもなく平将門を祀った江戸の総鎮守。
天平2年(730)に現在の大手町にある将門塚近くに創建され、太田道灌をはじめとする戦国武将から厚く信仰された。徳川家康が関ヶ原合戦の戦勝祈願をしたところ、9月15日の神田祭の日に勝利したため江戸幕府から厚く遇されるようになる。元和2年(1616)に江戸城表鬼門守護の場所に当たる現在の場所に、幕府の手により社殿が建立された。江戸名所図会に描かれた「神田明神社」の敷地は、現在もそのまま維持されている。
東京が今シーズン最初の冬日となったのにも関わらず、広い境内には多くの参拝客でにぎわい、パワースポットとしての人気が窺える。平成30年12月に完成した文化交流館・EDOKKOに入ると、お守りやお土産を買い求める人たちで溢れかえっていた。
中山道を渡り返して湯島聖堂に入る。学問の普及に熱心だった五代将軍綱吉が、元禄3年(1690)に上野忍ケ岡の孔子廟と林家の私塾を移したもので、幕府の学問所とされた。江戸名所図会の「聖堂」と変わらぬ姿の大聖殿にお参りしてから、見事に掃き清められた長い階段を下って、神田川の水辺に復帰した。
聖橋を潜り抜けるとゴールは近い。東京医科歯科大学 、順天堂大学キャンパスを通過し、昼食場所に予定していた元町公園に向かうと、埋蔵文化財保護のためにフェンスで覆われていて立ち入れない。
前回の休憩場所だった本郷給水所公苑に着いたのが正午、本日は75分の省エネ散歩だった。
バラ園を見渡せるベンチに腰を下し、缶チューハイを一口。結構な汗をかいた後だったので甘露、甘露。ナッツとベビーチーズをつまみに大30分の休憩を終えて、本郷三丁目駅から帰途に着いた。
次回は、中野坂上付近から神田川の上流部を歩く予定。(村谷 記)
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★2023年12月24日「神田川下流部散策(両国橋東詰〜本郷給水所公苑)」