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 村谷は安定した晴天の一日との天気予報を頼りに、上記の散歩を行った。
7か寺は向丘の5寺と上野の2寺に分かれており、別格の清水観音堂をゴールとするため、谷中は経由せずに根津神社に立ち寄って不忍通りに並行する高台のコースを選んだ。

 正午に都営三田線・
白山駅に到着、地上に出て白山下交差点の手前の信号を横断し、11番札所・圓乗寺(えんじょうじ)に向かう。天正9年(1581)本郷に建立され、その後寛永8年(1631)に当地に移った。当寺は、何といっても江戸城天守閣を含む御府内の6割を焼き尽くした明暦の大火(1657)で知られる八百屋於七の菩提寺として有名。本堂を含む寺院は火災にも強い近代建築のビルだ。1階の入り口には受付嬢がおり「どちらへ?」と、「お参りです」と応えると「どうぞ」とマスク越しながらつぶらな大きい瞳で、鈴のような美声が返ってきた。
本日も幸先がよい。建物の正面入り口前に鎮座する「八百屋於七地蔵尊」にもお参りした。井原西鶴「好色五人女」の中には辞世の句として
「世の中のあはれ春吹く風に名を遺す遅れ桜の今日散りし身は」がある。2000坪近くもあった広大な敷地は、戦後にその大半を戦災にあった人たちに提供したという。

 坂道を登り返し、
白山上交差点に向かう。女子高生の下校時と重なり、マスク姿越しに元気に話し合う声に包まれる。左手の白山神社は度々参拝しているので遥拝し、旧白山通りを横断、向丘2丁目交差点で本郷通りに突当りそのまま右折、南下する。

 交差点角にある「中華・兆徳」に長い行列ができていた。盛りがよい卵チャーハン(650円)が大人気で、2階もある大箱のお店ながら、昼のみ客も多いため待ち時間が長くなるという。それでも行列が絶えないらしい。

 一つ先の信号脇にある23番札所・大円寺(だいえんじ)に入る。入り口が向丘高の通用口と並んでいるので、男女の学生たちと盛んにすれ違う。創建は徳川家康が江戸入府してまもない慶長2年(1597)で、神田柳原から慶安2年(1649)に当地に移転した。八百屋於七を祀るほうろく地蔵と、高島平の語源となった江戸末期の砲術家・高島秋帆の墓所(国指定史跡)が知られる。高村光雲制作の七観音像は戦災で焼失し、戦後に高弟たちが復元している。
 南面の日当たりのよい本堂にお参りした。昭和期の末の10年間ほど、当寺の墓地に毎夏墓参したことを思い出す。村谷の勤務先だった生命保険会社に定年まで勤務した女性セールスマンがいて、遺言で会社の同人会に寄付をいただいた縁だった。彼女が最大の顧客先であった東京消防庁の消防学校(渋谷区西原)には、時計塔を寄贈している。

 さらに通りを南下、歩道横に大きな布袋様が建つ10番札所・浄心寺(じょうしんじ)に入る。元和2年(1612)に湯島の妻恋坂に創建され、振袖火事(明暦の大火)後に当地に移転した。広々とした境内は花見の穴場スポットとして知られる。

 通りを渡り返して北上する。兆徳に並んでいる行列は46人だった。

 さらに北上し、9番札所・定泉寺(じょうせんじ)にお参りした。元和7年(1621)に本郷・弓町に創建され、明暦の大火で当地に移転した。御府内随一とされる宝篋印塔の六阿弥陀仏がある。

 
向丘2丁目交差点に戻り、左折して大観音通りに入る。通りの由来は、光源寺に安置される高さ6mの黄金色に輝く十一面観音像「駒込大観音」

 その隣にある8番札所・清林寺(せいりんじ)にお参りする。室町中期創建の古刹で、慶安元年(1652)に当地に移転した。静かな落ち着いた雰囲気で、現在、飛鳥様式の木造・三重塔を建設中。

 
団子坂上交差点で、狭い道へ右折する。そのまま坂を下ると都電路線巡りで何度も歩いた不忍通りに突き当たるので、変更。

 左手下には文京区立森鴎外記念館がある。静かな坂道をゆっくりと下っていくと、右手に巨大な日本医科大付属病院が出現、突当りが東京十社巡りなどでも訪れた根津神社西参道入り口だった。広い境内には七五三詣での家族連れで混みあっている。主役の子どもよりも、盛装した若い母親たちの方が張り切っているように感じられた。

 表参道から出て左折すると、まだ続々と家族連れが向かってくる。そのまま直進するとお馴染みの
不忍通りに復帰するので、小路へ右折し南下する。「忍小通り(しのぶしょうどおり)」と電信柱に表示があった。左手先にある忍岡小学校に由来するらしい。校舎内では、お揃いのTシャツ姿の女性教師たちが忙しそうに行き来している。明日の日曜日には学校行事が控えているようだった。

 正面に広大な東大附属病院の緑陰に突当り、左折し建物に沿って南下する。

 東天紅の裏側を経て、旧岩崎邸庭園前を通過する。ここでも入園客が続いている。

 春日通り突き当たると、これまでの静謐が消えて喧騒が復活した。
天神下交差点で横断し右折、坂道を登ったすぐ先左手にある夫婦坂から湯島天神に入った。七五三詣での家族連れの姿はほとんどなく、境内を占拠していたのは若いアップルたちだ。学問の神様が、今や都内でも有数の縁結びのパワースポットとしても人気になっている。

 男坂を下った左手下にある7番札所・心城院(しんじょういん)にお参りする。元禄7年(1694)に湯島天神の別当寺として開創された。秘仏のご本尊「大聖歓喜天」にちなみ、湯島の聖天様とも呼ばれる。明治初期の廃仏毀釈で廃寺されそうになったが、湯島天神の繋がりで辛うじて現在の規模をとどめることができたという。江戸の銘水の一つとされた「柳の井戸」が現存しており、井戸水で髪をぬぐうと美髪になるとされている。

 
天神下交差点に戻り、春日通りを左折し、池之端1丁目交差点の先から上野恩賜公園に入った。西郷隆盛像にお参りしてから、6番札所・清水観音堂(きよみずかんのんどう)にお参りしたのが午後1時50分、本日は110分と久々に長い行程だった。
国指定有形文化財の観音堂は、寛永8年(1631)に天海大僧正が京都東山の清水寺を模して舞台づくりに建立したもの。ご本尊も清水寺から恵心僧都作の千手観音像を迎えたという、都内でも別格の古刹だ。

 お参りを済ませてから階段を下り、不忍池にある弁天堂にも参拝した。屋台が並ぶ参道を通り天龍橋を戻り、広場の脇にあったベンチを確保して遅めの昼食休憩。広場で次々と繰り広げられている芸人さんたちのパフォーマンスを見ながら、冷たい飲み物とチョコナッツ・フィッシュソーセージで大30分間のリフレッシュを終えた。

 次回は、神楽坂エリアを巡る予定。(村谷 記)

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★2022年10月22日(土)「江戸三十三観音札所巡り 第2回(圓乗寺〜大円寺〜浄心寺〜定泉寺〜清林寺〜心城院〜清水観音堂)」