旧都電路線21系統は、昭和44年(1969)5月31日の首都高速1号線開通に伴い、同年10月25日に廃止された。それに先立って昭和43年(1968)2月25日より運転区間を三ノ輪橋〜水天宮間に短縮されている。
南北に走る国道4号線が路線の大半を占めるため、村谷は少しでも日差しが避けられるよう出発を早めにして、東南方向から照り付けている時間を選んだ。
午前10時、北千住駅改札を出て、大勢の人波をかきわけながら西口から地上に降り立った。
駅前商店街を西進する。店先で焼いている団子の匂いが鼻先をかすめる。頭上のアーケードがありがたい。
日光街道(国道4号線)に突当り左折する。都電の終点・千住4丁目停留所は右手の数百メートル先にあったのだが、何の表示もないようなので省略した。ここから「北千住線」が始まる。
東側歩道を選択すると、予想通り日差しをきっちりと遮ってくれる。車の往来は激しいものの、歩行者は少ないのでマスクを胸ポケットに仕舞う。少し風も吹いていて、悪くないコンディションだ。
千住宮元町交差点で墨堤通りを横断する。左手に千寿七福神巡りで訪れた河原町稲荷神社があったので、参拝した。
千住大橋駅横で京成本線を潜り抜けた。ここからは「三ノ輪線」となる。
足立市場前交差点で、一旦西側歩道に移動する。
千住大橋に差し掛かる。家康が江戸入府した4年後の文禄3年(1594)に隅田川で最初の橋として建設され、江戸中期に一度現在に位置にかけ替えられた。その後改修を繰り返しながらも300年以上の間一度も流出しなかったのは他の隅田川の橋とは異なり、名橋とされている。
松尾芭蕉が深川から船で来て上陸した場所に立つ奥の細道矢立初の碑を確認してから橋を渡った。平均寿命が50歳に満たない江戸期に、46歳で東北・北陸150日間の旅に立つ心境を詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目に涙」の句碑がある素盞雄神社に参拝してから、東側歩道に移った。
JR常磐線の高架に近い三ノ輪橋付近の右手には、都電荒川線・三ノ輪橋駅がある。コンビニでウーロン茶を購入。
常磐線を潜り抜けたすぐ先に吉原の遊女の投げ込み寺とされた浄閑寺や、天海僧正の進言で徳川家光が定めたとされる五色不動尊の一つである目黄不動尊(永久寺)が続く。
三ノ輪交差点で、国際通りが左斜め方向に始まる。
入谷交差点で言問通りを横断する。時刻は11時、1時間経過した。
右手に上野駅が出現、村谷のような北国出身者は井沢八郎の「ああ、上野駅」に代表されるJR線の駅のイメージが強いが、江戸っ子は都電が1・19・20・24・30・37・40系統と7路線が乗り入れていたターミナルとして意識していたようだ。当時は乗客のための安全地帯がたっぷりと確保されていたが、首都高速1号線の工事が始まって大幅に削られたという。ここから終点の水天宮までが「和泉橋線」だった。
台東4丁目交差点横の多慶屋本店前は相変わらずの人出だったのでマスクを着けて通過した。
YKKビルが見えてきて秋葉原に入った。日差しが真南方向から照り付けてきたので、日陰がほとんどなくなった。
和泉橋で神田川を渡る。
ここで国道4号線と分かれて、左斜めの水天宮通りに入ると日陰が復活した。
小さな床屋さんの店先に、立派なクリーム色のバラの植木が置かれていて、涼味が感じられる。
岩本町3丁目交差点前に開店9周年の花輪が出ている「岩本町小町食堂」を発見。ボリュームたっぷりのきくらげ卵炒め330円などそそるメニューが並んでいて昼のみ可、もう少しゴールが近ければと少し残念。
小伝馬町交差点を通過、大安楽寺は遥拝した。
日高屋の看板が出てくると人形町交差点、玉ひでの看板を見上げながら甘酒横丁を横断。
午前11時50分、水天宮交差点にゴールインした。所要時間は110分。
交差点を横断し、水天宮に今年何回目かのお参りを済ませた。本日のお宮参りは一組だけ。
裏道伝いに浜町公園に移動し、清正公寺横にある日よけが付いたベンチを確保した。ベスト・帽子・背中のタオル・靴下を脱ぎ去り、首に保冷剤を充てて、久しぶりに時間通りの昼休憩。まずは、キンキンに冷えた缶チューハイを一呑み。残ったチョコナッツと文明堂のおかしぱんをつまみに、大30分の休憩を摂った。
次回は22系統(南千住〜新橋)を歩く予定。(村谷 記)
このページのトップへ戻る
前のページへ 次のページへ
.
.
.
.
.
.
★2022年5月19日(木)『旧都電路線巡り「21系統(北千住〜水天宮)」』