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 曇天・微風の絶好のコンディション。村谷は旧都電路線19系統路線巡りを行った。昭和46年(1971)3月18日に廃止され、前半の王子駅前〜東大前の区間は、平成12年(2000)9月に開通した東京メトロ・南北線がそっくりカバーしている。

 午後12時10分、都電荒川線・
王子駅前改札からスタート、まずは一つ先の飛鳥山停留所まで、荒川線として営業中。ちなみにこの区間は「滝野川線」だった。飛鳥山公園への近道となるモノレール「アスカルゴ」の前には、20人近くが待機していた。

 飛鳥山交差点で明治通りと都電荒川線とお別れし、本日は長くお付き合いする本郷通りに入り「飛鳥山線」になる。

 五差路になっている一里塚交差点付近が本日の最高地点。すぐ先にある西ヶ原一里塚は、日光御成道の江戸から二番目の一里塚で、街道の両側が保存されているので、志村一里塚とともに国の史跡に指定されている。大正時代に道路工事で撤去されそうになった際、近くに住む渋沢栄一らが保存に尽力したという。

 本郷通りは岩槻街道とも呼ばれていて、日光街道がしばしば水害にあったため、将軍専用の日光参拝道として尾根道増に整備されたもの。村谷は以前、吉田・清水・故小川兄と江戸から幸手まで歩いたことがある。

 財務省印刷局滝野川工場の広い敷地が広がる。見学は可能だが、予約制のためYSC散歩では未訪問。
道の反対側にある榎本ハンバーグ研究所はサラリーマン・ウーマン諸氏の人気ランチスポットで、本日はテイクアウト利用らしい家族連れの列ができていた。

 ここからはほぼ下り坂ばかりなのでスピードが上がった。

 YSC散歩定番の昼食場所・滝野川公園は、がらんとしていた。

 旧古河庭園の建物が見えてきたので、平塚神社入口交差点で南側歩道に渡った。緑や花々の鑑賞を終えて入り口から次々に出てくる人たちとともに、駒込駅方面に続く急坂・大炊介坂を下る。

 霜降銀座入り口付近に着くと、駒込駅方面からも続々と人が歩いてくる。ちょうどランチタイムだ。霜降橋交差点からは緩やかな登り坂・妙義坂となる。いくつもある飲食店はどこも賑わっていて、連休最終日だと実感する。

 
駒込駅前でJR線を跨ぎ超えた。ここからは「駒込線」。

 右手に六義園の一角が望める。2万7千坪の敷地は、柳沢吉保の下屋敷跡で、庭園の設計を吉保自らが行ったことでも知られる。徳川綱吉に徴用された才能の一覚を示すエピソードかもしれない。

 不忍通りを横断する上富士前交差点横のコンビニで、飲み物を購入した。本日はウーロン茶。
「上富士」の由来は、すぐ南側に富士塚で知られる駒込富士神社があるためで、江戸時代には京の都に近い地点が「上(かみ)」と命名されたからだ。唯一の例外が甲州街道で、上諏訪が下諏訪より江戸に近い理由は、甲州街道が徳川将軍家の軍道とされていたためという。

 次の交差点が富士神社前で、町内会の名前もそれぞれ交差点名と同じだ。村谷は度々参拝しているので通過。

 吉祥寺の大きな山門が出現、振袖火事で知られている。
隣接する浄心寺の門前に咲く
桃色のツツジはまだ見ごろだった。

 秋葉神社先の向丘二丁目交差点からは「本郷線」。追分一里塚交差点で、南北線と分かれる。

 本郷弥生交差点で言問通りを横断すると、東京大学 本郷キャンパスの長い塀が始まる。大半が加賀藩の上屋敷跡地で、広さは4万平方メートルを超え、三つの門があり、中でも赤門が有名。ちょうどその門の前で上京してきたらしい父親?男性が、息子?の東大生を大きなカメラで撮影していた。

 本郷3丁目交差点で春日通りを横断、かねやすは本日もシャッターが閉まっていた。

 ホテル東京ガーデンパレスから、チェックアウトや昼食をを済ませたらしいお客が何組も出てきた。

 右手先に湯島聖堂のこんもりとした緑の塊が見え、左手は神田明神の参道入り口。境内には多くの参拝客がいて、村谷は今年もすでに3回お参りしているので通過。

 神田明神下交差点で昌平橋通りを横断する。この付近にあった外神田二丁目停留所から次の万世橋までの間が「御茶ノ水線」だった。

 東へ向かうと秋葉原駅が近いため一気に人出が増えてきた。お洒落な喫茶店の外の窓際に、リボンから靴まですべての服装をピンク色に統一したメイド姿のギャル3人が、楽しそうにおしゃべりしている。メイドカフェの昼休みなのかなと首をかしげて先へ進む。

 ゴールデンウィーク最終日を満喫する人たちでいっぱいの歩行者天国になっている中央通りに出て右折、JR総武線を潜り抜け、万世橋神田川を渡った。橋の袂のオープンカフェでも、テラスに座って喫茶する人たちが多い。

 JR中央線も潜り抜けて、須田町交差点に差し掛かった。2か所の信号横断が必要でその間に水分補給。

 JR
神田駅北側で各路線の軌道を潜り抜け、さらに南下する。COEDOの各ビルが見えてくると人出は増えたものの、日本橋交差点まで行っても人出はむしろ通常の日曜日より少なく感じられた。青空が見えない天候や、明日からの通常生活へ備えるため、外出を控えた人たちが多かったのではと推定した。

 午後2時過ぎに、日本橋の袂にある日本国道路元標を確認し、五街道のうち四街道は踏破したが、残る一つ「奥州道中」歩きへの思いを強めた。

 日本橋交差点で永代通りを横断、京橋千疋屋手前で八重洲通りを右折、
東京駅八重洲中央口前に到着したのは午後2時10分、本日も120分の行程だった。

 終点の「通三丁目」の由来は、江戸時代に旧東海道を「通り」と称したためというのが有力な説。日本橋には魚河岸もあり、江戸の中心地だったことを反映しているかもしれない。藤沢修平の小説にも「日本橋の通り三丁目」という記述があるという。

 今回は、今年初の半そで・半ズボン姿にし、靴底に中敷きを追加したので、前回よりは歩きやすかったと感じました。

 次回は20系統(江戸川橋〜須田町)と比較的短い路線を歩く予定。(村谷 記)

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★2022年5月8日(日)『旧都電路線巡り「19系統(王子駅前〜通三丁目)」』