好天に恵まれたので、村谷は一昨日の続きの東京下町八福神参りを行った。
午前11時半過ぎに都営浅草線・蔵前駅改札から地上に出ると久々に快晴微風の散歩日和。
江戸通りを少し浅草橋方面に南下し、前回お参りした第六天榊神社に参拝した。本日は休日のためなのか境内は無人だった。片隅には前回は気が付かなかった汲み上げ式のポンプ井戸があり、災害用に整備されているようだ。
神社の石塀沿いに北上し、蔵前橋通りを横断した。左手の蔵前1丁目交差点から江戸通りを北上するのが次に訪問予定の今戸神社への近道ではあるが、休日の密を回避して川風を浴びたほうが良いと判断して隅田川テラスを行くこととした。
東京都下水道局蔵前ポンプ所前を通過する。内部は「蔵前水の館」として予約すれば見学可能だというので、コロナ明けには検討してみたい。
蔵前橋の手前には「浅草御蔵跡」の碑があった。江戸時代には全国から集められた米が、12万平方メートルの敷地いっぱいにあった米蔵に収納されていた場所。
橋の袂から隅田川右岸に降り立ち、マスクを外して深呼吸。広いテラスには時々散歩やジョギングですれ違う人たちがいるが、距離が2メートル以上は離れているのでお互いに気にならない。
強い日差しが避けられる木蔭には、早めの昼食や一人静かに読書を楽しむ人が必ずいる。テラスの両脇には浮世絵を描いた石碑が次々に現れて、現在との景色の違いを確認できるのも楽しみの一つだ。
厩橋、 駒形橋と北上するにつれて前方右手先のスカイツリーがぐんぐんと大きくなってきたようだ。
吾妻橋に近づくとさすがに少し人出が増えてきた。手前に藤棚で覆われた日陰のベンチがあったので最初の休憩。先ほど初めてコンビニで見つけたワサビ醤油味のアーモンドの袋を取り出して少しだけつまんでみるとなかなかの美味で、昼休憩が楽しみだ。
吾妻橋の真下にある通路を通過したのも初体験だった。
ちょうど水上バス乗り場に到着した舟から降りてきた乗客は30人程度で、待っている人も同じくらいとまだまだのようだ。
続いて東武線の鉄橋と、昨年6月に開設された歩道橋「すみだリバーウオーク」を潜り抜ける。橋の上を歩いていた人の数はあまり多くなかった。
言問橋が近づいてきた。『伊勢物語第9段』と 『古今和歌集』に収録されている在原業平の歌『名にし負わば いざ言問わむ都鳥 思ふ人は ありやなしやと』が、この橋の名前の由来とされている。幼馴染が皇后に召されて恋仲を裂かれてしまい、はるばる東国まで下ってきたという業平のやるせなさを切々と訴える名歌として、今にまで伝えられている。
橋の手前で土手に上がり隅田公園に入る。前回の隅田川七福神で同じ場所を通った時には、木蔭にわずかな人がいただけだったのだが、今回は何組もの家族連れで賑わっている。
公園のはずれ近くにある滝廉太郎の『花』の歌碑の先から出て江戸通りを横断、目の前にある待乳山聖天(まっちやましょうでん)に参拝する。平井聖天と 妻沼聖天と並ぶ関東三聖天の一つとして、江戸の人々に慕われていて、池波正太郎などの小説でもたびたび登場している。
階段の前では人力車夫の若いおにいさんが二人の若いお嬢さんに由来を説明していた。定番のお供物用の大根は1本250円、結構な売れ行きのようだった。境内には若い女性たちしかいない。参拝を済ませて「さくらレール」で江戸通りに降り立ちさらに北上する。
山谷堀公園入口前を通過した。
少し先のD今戸神社に参拝する。縁結びのご利益にあやかるためなのか広い境内に何組もの若い女性たちがいる。木陰にはいくつもの金属製の椅子が並べられていてサービスも充実していた。
裏道伝いに再び山谷堀公園に出た。本来は江戸初期に荒川(現在の隅田川上流部)の氾濫を防ぐため三ノ輪から今戸まで開削された水路だった。その後、明暦の大火(1657)で日本橋から新吉原へ遊郭が移転した後は隅田川から遊郭入り口の大門まで小舟で通う「山谷通い」として有名になった。お金持ちは船頭を雇って船で通う一方で、貧乏人と遊郭で金を使い果たした人は横の土手を歩いたと落語や講談、川柳などの題材にもされている。
現在は暑い日差しが避けられる絶好の休憩所として、子供から老人まで幅広く利用されている。公園の一角には、当時盛んに利用された「猪牙舟(ちょきぶね)」を模した小さな木のベンチがひっそりと設置されていたものの何の説明版もなかった。
日本堤があった場所で公園が終了し、右手の地方橋交差点を左折、並行する土手通りに移り西進する。
吉原大門交差点から仲の町通りに左折する。通りの両側のお店は照明が灯っていて、入り口に佇む体格の良いお兄さんたちから「開いていますよ」とのお誘いが数回あったがまだ先があるので通過。
右手の吉原神社に参拝した。新吉原遊郭で亡くなった女性が葬られたという。今では浅草七福神の一つとして弁天様が祀られている。
国際通りに出て、E鷲(おおとり)神社に参拝した。商売繁盛の神様で、11月に行われる酉の市の発祥の地として知られる。日本武尊が東夷征討に際し当地で必勝を祈願し、戦勝した帰途に社殿の松にお礼を兼ねて武具の熊手をかけて祝ったのがその起源とされている。
国際通りを横断して西進し、昭和通りも横断、先日も訪問したF小野照崎神社に到着した。学問芸能全般に霊験があらたかな神社で、今日も参拝客でにぎわっていた。
村谷が今も繰り返しその棋譜を並べている昭和の名棋士・藤沢秀行氏の筆になる「強烈な努力」という碑は、何度見ても心に響く筆致だ。タイトル戦の創設初回を7つも制した名棋士として今なお敬愛されている。その一方で「飲む・打つ・〇」の三拍子そろった波乱万丈の人生の中を過ごしながらも誰が師匠だとか、国籍には関係なく誰でも受け入れて数多の囲碁棋士を育成した。特に、中国と韓国には度々足を運んで現在の囲碁の国際化を実現した功労者だった。また、囲碁女流棋士の第一人者・藤沢里菜女流五冠は秀行氏の孫にあたる。
再び東方面に折り返し、東京メトロ日比谷線・入谷駅前で昭和通りに出て南下した。人でいっぱいの入谷交差点で言問通りに出て左折、仲入谷交差点で右折して左衛門橋通りに入る。
右手に広い敷地の入谷南公園が広がり、この先は寺町と仏壇通りしかないのでここで昼休憩とした。時刻は午後1時30分。まだ家族連れが遊んでいたが、運よく木蔭になった木のベンチがあったので腰を下ろした。いつもの服装にくつろいで、冷えた缶チューハイを空ける。一気に汗が引いてやれやれ。ワサビ醤油味のアーモンドは絶品。大30分の休憩で疲れをすっかり取り戻した。
浅草通りが見えてきた右手に、H飲食店の小ぶりな建物があった。昭和の時代、仕事がきっかけで親しくなったT信用組合のK理事と囲碁を楽しんだ後に必ず立ち寄った店だった。場所も店の名前も同じなので、たぶん二代目が営んでいるのだろうと当時を懐かしく思い出した。
仏壇店が並ぶ浅草通りを上野駅方面に右折して、本日最後の立ち寄り処 G下谷神社に参拝した。家内安全のご利益があるとされる。当初は上野公園内にあり、その後 天海大僧正が寛永寺を築いたため、当地に移転したという。古くは下谷稲荷神社と称した。横山大観作の天井画や、 「寄席発祥の地」の石碑などで知られる。
本殿にお参りした際に、鐘の鈴緒が巻き上げられている代わりとして賽銭箱にセンサーが設置されていて、近づくと鈴の音が自動的になる仕組みになっていた。
八福神を一気にめぐるのが本当だが、他の由緒ある寺社を含めて分けて回るも一興と感じた。
東京メトロ銀座線・稲荷町駅から帰途についた。(村谷 記)
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★2021年9月19日(日)「東京下町八福神参り、後半(蔵前駅〜稲荷町駅)」