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【おすすめポイント】
 ●川面を眺めながらのんびり歩いて行くと、個性的な橋が次々に現れます。
 ●梅花咲く一之江名主屋敷のたたづまいと、親切なボランティアガイドさんの説明、庭には美味しいフキノトウ…


【難易度】
 ★
川辺の、のどかな遊歩道歩きです。

★2008年2月19日(日)「新中川(中川放水路)」

 無風快晴・日差しが優しく感じられる 京成本線・京成高砂駅改札口に集合したのは、清野・滝澤・百石・山岡・田幸・清水・村谷の面々。

 所定の集合時刻まで、近況交換していたところに、北濃兄から電話があり、途中の辰巳新橋で合流するとのこと。
これで本日の参加者は8名と賑やかになる (*^_^*)

 先ずは、スカイライナーが行き交う踏切を横断して南口方面に出る。
駅前のヨーカ堂は棚卸のため12時開店だったが、川に向う道筋に面した
セブンイレブンに入店し、昼食の材料を仕込んだ。

 
新中川(中川放水路)は、利根川から荒川に注ぐ旧・中川が、度々氾濫したため、戦争で工事が中断しながらも昭和38年に8kmの分水路として旧・江戸川までの間に造られたものだそうだ。

 
高砂橋で、新と旧の中川 分岐点を確認し、煌めく川面を横目に眺めながら南下する。
僅か8kmの間に20本もの橋が架かっていて、夫々個性的な姿を披露してくれるのが嬉しい限りだ。

 左手に、川と平行して
JR新金貨物線(金町〜新小岩)が走っている。
折よく傍にいた老人から山岡が聴取したところ、三菱製紙の工場用に開設されたものらしい。
ついでに、朝日新聞に取材された
亀戸大根を栽培しているお宅まで教えてくれた。

 
高砂諏訪橋からは車の乗り入れが禁止されていて伸び伸びと歩くことが出来る。
橋を渡って右岸に移る。川原に大きなタモを持った釣り人がいたが、肥った
狙いのようだ。

 川原に降り立つと、柔らかな草むらが続く。
対岸に手製の?赤い浮で囲まれたプレジャーボートが1隻係留中。場所柄からして無許可らしいと清野が推定した。

 
三和橋は架け替え工事中だった。
忙しく立ち働く人々の間を素早く通過し、再び川原に下りる。

 
八剣(やつるぎ)橋を過ぎて、右手に八剣神社があったので立ち寄る。文久3年(1863)創建というから、ちょうど新中川開通の100年前だ。例によってゴールまでの旅の無事を祈願して出発。

 道路を横断し、
奥戸新橋からまた川原へ。日差しが強まり、夫々上着を脱ぎ態勢を整える。
清水夫人の北海道土産の干しホタテをしゃぶりながら昼休みが待ち遠しくて、足が自然に速まる。

 
貨物線の下を潜り、上一色橋を渡り左岸に出た。

 直ぐに河原に降りて、
総武線鉄橋を潜ると、美しいアーチ型の辰巳新橋だ。
 橋の下の住民に挨拶して、住居の脇を通してもらう。

 予定の12時より15分ほど早かったが、北濃が手を振って合図をして呉れた。
病みあがりだが、すっかり元気な様子で安心する。

 ちょっと先に食堂にちょうど良い草原があるので、昼食休憩とした。
大きなシートに、夫々持参のツマミを広げ、先ずは乾杯。
紙コップに入ったビールやワインが交差する。
  
 北濃は、昨年12月に手術した後、毎日、この新中川を往復しリハビリに努めているそうで、流石に日本百名山完全踏破し、二百名山るは
5座併せて 三百名山攻略中の山男だと、一同感服した。

 わいわい、がやがやと1時間が過ぎて、神輿を上げる。
近くにいた釣り人は、竿を6本並べ
、フッコを狙っているそうだが、なかなか難しいようで、1週間で1本上がる程度とのこと。

 その先では、若い釣り人が、オモリだけつけて投げ釣りの練習中。
清野によれば、太鼓形のリールであそこまでコンスタントに飛ばすには、相当の熟練者だという。

 
小岩大橋千葉街道を潜り抜けると、老舗の船宿「たかはし丸」が見える。係留したままの釣り船が多数、暇そうだった。

 ピンク色の
松本橋の脇には、畑が続く。

 真っ白でひときわ美しい
鹿骨新橋を通過すると、すぐに鹿本橋が続く。
欄干にはカルガモの模様が施されていて、鴎の姿も多くなってきて海が近いのが感じられる。
ここにも老舗の船宿「
豆や」がある。係留したままの釣り船が多く、暇そうだった。

 夜はライトアップされるモダンな斜張橋の
大杉橋を越えると、カラフルな遊具と人工の小川が流れる瀬戸口公園だが、人影はなかった。

 
京葉道路が走る一之江橋を潜る。
この当り一帯は、プレジャーボートの繋留地になっているが、下流の方が1隻あたりのスペースが広いのは何故だろう。

 
新椿橋首都高速7号線南椿橋が一度に現れる。

 時間があるので、一旦川とはお別れして、すぐ近くにある
 一之江名主屋敷 に向う。

 この周辺の新田開発を行った功績で名主になった田島家の民家だが、敷地2千坪が、そっくり残っていて、屋敷も安永3年(1774)再建時のまま殆ど変わらないとは、驚きだ。
協力金100円を払い、ボランティアの男性に案内されて大きな囲炉裏の周りに座り込む。
庭内の木々を燃やした火が、懐かしく、暖かく離れがたい風情がある。

 建物の造りは堅牢ながら、欄間も床の間も極めて質素で、初代は武士出身だったためであると説明を受けた。
10数代続いた当主たちも、その気風を継承して、一切土地の切売りをしなかったという。

 平成18年に葺き替えた茅葺の屋根は、30年ほど持つそうだし、巨大な大黒柱は230年を経ていて、関東大震災にもびくともしなかったという。

 続いて庭に出た。紅梅はまだ蕾だが、
白梅の花が咲いていて、柚子の実の黄色、菜の花の黄色とコントラストをなしている。
フキノトウが群生していて、採取してよいとの許可を頂き、競いあったが、やはり、滝澤&田幸が圧倒的に早かった。
また、白色のニホンタンポポの花 を教えて頂きました。

  ※管理人は、いただいたフキノトウを翌日、天婦羅と、早春の香りいっぱいの“蕗味噌”を作り、美味しくいただきました。

 思わず知らず時が過ぎたので、懇切なガイドにお礼を述べて出発する。
春江橋の先には、明和橋、瑞江大橋、新今井橋、今井大橋があるが、次回に繰り延べとして都営新宿線・一之江駅にゴールイン。

 一同打ち揃って、
森下駅で下車し、本日の打ち上げ場所である 魚三酒場・森下店 に着いたのは、開店5分前だった。

 いつものようにコの字型にカウンターを占拠し、先ずは生ビールで本日の労を労いあった。
あとは、クサヤ、アサリかきあげ、アラ煮、ナマコ、中トロ、鰻の肝焼きなどをツマミに五合大徳利数本、締めは葱がどっさり入った熱々のぶりつゆと、充実した一日でした。(村谷 記)


清水兄の本日の作品を発表します(*^_^*)

 ◆新中川には厳しい水害の歴史があったのですね。 (注1)
   「荒れ防ぐ 新中川に 命込め」

 ◆新中川には多くの橋が架かっていました。
   「橋の下 俺の天下と ホームレス」

 ◆フッコ(スズキの幼魚、注2))を狙う釣り人に会いました。
   「フッコなら 週に一度の 会うスリル」

 ◆一之江名主屋敷で詳しい説明を受けました。(名主田島家はもともと豊臣の残党だったそうです)
   「名主とて 出は豊臣に 苦難知る」

 ◆『魚三・森下店』で「くさや」で乾杯でした。
   「くさやいい 魚三酒場 二重丸」

(注1)
1938年7月に東京東部で起こった浸水戸数! 6万戸に及ぶ被害に対する反省から、翌年(1939年)4月、中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置された。
しかし戦争激化のため1945年4月には計画は一旦中止、事務所も廃止となる。
1947年9月、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討された。1949年11月 中川改修事務所は再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化した。江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963年3月に中川放水路は完成した。

(注2)スズキは北海道南部以南の日本各地の沿岸に生息。潮の薄い河口や内湾などに多く、外海の磯には近似種のヒラスズキがいる。ヒラスズキと区別するためとくにスズキをマルスズキと呼ぶこともある。
成長するにつれて名前の変わる出世魚で、30cm以下はセイゴ、50cmまでをフッコ、またはマダカと呼ぶ。セイゴクラスの幼魚は内海や汽水域に群れているが、成長するにつれて群れが小さくなり沖に出ていく。


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 コース
  京成本線・京成高砂駅〜高砂橋、中川と新中川の分岐〜新中川川岸〜一之江名主屋敷〜役者寺〜都営新宿線・一之江駅
      <合計歩行距離 8Km、2時間+見学時間>


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