<11月14日(火)旧河川散歩「水窪川(美久仁小路〜江戸川橋)」跡探訪>
池袋駅東口を東進するグリーン大通りの左手、サンシャインシティに通じる人波の少し先にある東京信用金庫本店前に集合したのは田幸・村谷の二人。
サンシャイン60通りに戻って一本目の通りに右折し、東京信用金庫の建物のすぐ先にある栄町通りを抜け、美久仁小路に入った。青江三奈のヒット曲「池袋の夜」の 2番の歌詞でよく知られた闇市時代の昭和24年に創始された老舗の呑み屋街。
名前の由来は、大正・昭和期に活躍した大分県竹田市出身の作家・三角寛が、美味で久しく栄えるようにと願いを込めて命名したという。さすがに昼前とあっては、開いている店はない。かつて当地に勤務していた田幸の記憶には、見覚えのあるが入店したことがないお店が健在だったようだ。
今や都内屈指の難関女子校となった豊島岡中学・高校の裏手を通過し、首都高速池袋線を潜り抜けて、高層ビルに囲まれた日出町公園で最初の休憩。明治末年に東武鉄道社長の根津嘉一郎が所有した雑木林の丘で、一帯は「根津山」と呼ばれていた。財閥解体などで戦後まもなく売却され、宅地や商業地に転用されている。
ライオンズシティ池袋北側を通過し、都電荒川線を横断する。この付近の地名が「水窪」だった。
日出優良商店街を抜けて、大塚坂下通りに右折した。
昼食予定場所に移動するため、いったん坂下通りを左折し、春日通りに通じる小路を探すがなかなか見つからない。田幸と村谷が「大塚公園は近いはず」と話していると、散歩途中らしい高齢女性が「この階段を上がったらすぐ前ですよ」と教えてくださる。村谷が四国遍路を行った際にも、道に迷うと必ず地元の方から教えて下さった経験を思い出した。
両側に住宅が並ぶ狭い急な階段を二つ上がった目の前に、文京区立大塚公園があった。
江戸期には大大名の下屋敷跡で、「ラジオ体操発祥の地」の看板がある。
広々したグラウンドでは、小学校高学年らしい男女が、教師の指導で赤いコーンの周りを駆け回っている。女子生徒が全員ヒジャブをかぶっていたので、田幸がネット検索しイスラム系学校 「International Islamia School Otsuka」 の生徒と判明。流暢な英語に時折、日本語も交じっている。
4人掛けのベンチを確保し昼食タイム。村谷がバーナー&フライパンを持参してきたので、さつま揚げと油揚げを炙り、醤油を垂らす。
まずは乾杯。昨日は全国的に今季一番の低温となり、今朝も低温だったが 今は日差しが温かく風が全く吹かず快適だ。園内の木々はまだほとんど色づいていない。
東京で木枯らし一号が吹いた昨日、富士山を望み河口湖畔・もみじ回廊で紅葉を鑑賞してきた田幸の話を皮切りに、諸兄姉の近況報告などで大1時間。途中で小学生の一団がさっそうと出ていき、静寂が戻った。
春日通りを横断し、階段を折り返して坂下通りに復帰。
右手にある吹上稲荷神社に立ち寄った。徳川二代将軍秀忠が元和八年(1622)江戸城内の吹上御殿に祀った「東稲荷宮」が現在地に移ったという大塚村の鎮守。賽銭箱には葵紋がみられる。
参道わきの細道が水窪川(音羽川)筋の名残で、不忍通りに突当り横断。香雲堂を半周して崖地に沿って南下する。お茶の水女子大学西門前を通過。
ねずみ坂でマンションに突当り、いったん音羽通りに出る。
鳩山会館前の先から再び崖地下に入り、今宮神社で本日の無事散歩のお礼を申し上げた。
鷺坂で巻石通り(旧神田上水路)に合流、江戸川橋で 暗渠出口が神田川をにつながった。
橋を渡って、新目白通りを渡って、みずほ銀行すぐ先の日高屋に入店、生ビールと冷酒に別れ、餃子と焼き鳥で軽く締める。
渡邊坂を上り、早大正門通りとの合流点で左右に別れました。
季節通りの小春日和の散歩ができました。(村谷 記)
コース
JR山手線など・池袋駅〜グリーン大通り〜サンシャイン60通り〜栄通り〜美久仁小路〜豊島岡女子学園横〜首都高速5号線(池袋線)を潜り抜ける〜日出町公園を斜めに横断〜ライズシティ池袋横〜児童遊園〜都電荒川線を渡り線路沿いに北上〜日出優良商店街〜大塚坂下通りを南下〜坂下橋〜開運橋〜吹上神社〜青柳橋(不忍通りを横断)〜香雲堂横〜がけ地の下を南下〜お茶の水女子大西門前〜ねずみ坂を右折し音羽通りを南下〜鳩山会館前〜八幡坂を左折〜今宮神社〜鷺坂を右折(巻石通り)〜東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅
<歩行距離:4.3km±α、歩行時間:1時間20分±α>
*『神田川再発見』 (有料出版物)の中の「思い出の川筋・水窪川(美久仁小路から江戸川橋)」を参照して歩きました。
*『水窪川(音羽川)』の検索結果ページ
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★2023年11月14日(火)「旧河川跡散策・水窪川〜音羽川〜神田川(池袋駅〜江戸川橋駅)」