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 村谷は好天に恵まれて、隅田川散策の最終回を行った。

 正午に常磐線・東京メトロ日比谷線・つくばエクスプレス、
南千住駅前を出発する。ロータリーの一角に立つ芭蕉像に一礼した。千住は、元禄2年(1689)に芭蕉が門人・河合曾良を連れて深川から隅田川を船で遡り「奥の細道」に旅立った「矢立初めの地」だ。

 吉野通りを北上する。村谷が昭和末期から平成初期の10年間にしばしば訪れていた2階建てのT信用金庫本店は、真新しいビルのJ信用金庫南千住支店に変わっていた。コツ通りと称していた商店街で見覚えがある店は、蕎麦屋1軒のみ。電信柱が撤去された街路灯には「矢立て始めの地」の幟が連なっている。

 日光街道と合流し横断、交番横の素戔嗚神社に参拝する。境内の一角にある句碑には、奥の細道の序文の一部
「〜千住といふ所にて船を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそそぐ。『行く春や 鳥啼き魚の 目は涙』 これを矢立の初めとして〜」が刻まれている。梅まつりが開かれていて、2か所に大きなひな壇が飾られていた。本堂に参拝し、本日の道中無事をお願いしてから裏門を出る。荒川ふるさと文化館の建物に沿って住宅街を抜け、日光街道に出た。

 今回の出発点・「千住大橋」は、文禄3年(1594)に家康が架橋した隅田川最初の橋。建設当初は「大橋」と呼ばれていた名残が、扁額として残っている。江戸名所図会に描かれた「千住川」には、
『荒川の下流にて隅田川・浅草川の上なり』との補記があり、江戸の遙か郊外だったことが判る。

 日光街道を横断し、左手先の階段から隅田川右岸のテラスに降り立った。広々したテラスの所々には立派なベンチが置かれていたので腰を下し、最初のチョコナッツ休憩。マスクはベストのポケットにしまい込み、今年初のサングラスを装着する。

 JR常磐線・つくばエクスプレス・東京メトロ日比谷線が並走する線路の下をくぐり抜ける。対岸には大成倉庫の巨大倉庫が2棟並び立っている。

 前方に本日2番目の橋「千住汐入大橋」が見えてきた。汐入の渡しがあった場所に平成18年(2006)開通した。上を走る都道314号言問大谷田線は通称「川の手通り」と呼ばれる幹線。
橋の200mほど手前の土手に、ピンク色の花が咲く木々が出現したので堤を上がった。大寒桜(おおかんざくら)の並木で、次の水神大橋まで延々と続いている。昼食時とあって、七の下にはシートやテントがずらりと並び、家族連れや若者グループが楽しくおしゃべりしている。木々の上部からは小鳥たちのさえずりが響き渡っていて、俳句の材料が見つかりそうだ。
『さえずりや 子等と張り合ふ 昼餉時』

 隅田川が大きく蛇行している対岸は、江戸名所図会「鐘ケ潭(かねがふち)・丹鳥の池」として描かれている。『剣客商売』藤田まことが演じた『秋山小兵衛』の隠居所があった場所。

 大寒桜の並木が途切れた地点に、3番目の水神大橋が出現。「水神の渡し」があった地点に平成元年(1989)に架橋され、汐入公園と東白髭公園を結ぶ役割も果たしている。

 左岸に渡って梅若橋から東白髭公園に入った。この付近には江戸前期に将軍が鷹狩の際の休憩所としていた隅田川御殿があった。5代将軍綱吉の生類憐みの令で鷹狩が禁ぜられた後、茶屋が三軒出現し、大いに賑わったという。8代将軍吉宗が鷹狩を復活させた際、庶民の娯楽の一つとして桜を植えたのが、現在まで続いている。

 公園の一角にある木母寺(もくぼじ)に参拝する。平安中期創建とされる古刹で、梅若伝説で知られる『梅若塚』がある。
京都の公家の子・梅若が修行のため出家していた寺で稚児狩りにあい逃亡したが誘拐され、当地で12歳の命を失う。
 母の花御前が京より東下りしてようやく探し当てた時には既に柳の下に葬られていた。母が仏に祈り一旦復活するが再び帰らぬ人となったため、狂女となり川に身を投じたという。
『たづね来て とはばこたへよ都鳥 すみだの河原の 露ときへぬと』 
 この物語は、能・狂言・謡曲・歌舞伎・浪曲など幅広く取りあげられて「隅田川物」と総称されている。
江戸名所図会「木母寺」には『隅田川東岸 木母寺・梅若塚・水神宮・若宮八幡』として描かれている。

 続いて隅田川神社に向かう。水神宮または浮島の宮と称され、隅田川の鎮守として船頭や荷船仲間から深く信仰を集めた。

 4番目の橋は明治通りが通る白髭橋。大正3年(1914)に民間の手で創架された木橋で、当時1文の通行料を徴収したが渡し船との競合に負け、大正14年(1925)に東京府が買い取った。
江戸期には付近にあった「白髭の渡し」と「橋場の渡し」が江戸も中心部に近く大いに利用されたという。在原業平が東下りの際に隅田川を渡ったのもこの付近とされる。
 伊勢物語で詠まれた
『名にし負わば いざ言問わむ都鳥 わが思ふひとは ありやなしやと』は、前記の『梅若』と共通の匂いが感じられる。なお、都鳥とはゆりかもめのことで、東京都の鳥となっている。

 一旦右岸に渡り、まずは石浜神社に参拝する。江戸名所図会に「石濱神明宮」として描かれている。創建は神亀元年(724)とされ、現在の明治通りが当時は思川の流れだったことが判る。当時とあまり変わらない広々した敷地内に、近年大きな茶屋が作られ、好天に誘われた人たちでベンチは10基とも塞がっていた。

 
明治通りを横断し橋場不動院に参拝する。奈良時代に創建された橋場不動尊。現在の本堂は江戸期創建で、小柄ながら江戸期の特徴を有する。明治末年の大火、関東大震災、戦災でも被災しなかったことから火伏の霊験あらたかとして信仰されている。

 数百m奥には国史跡・平賀源内墓があるが今回は省略し、
白髭橋を渡り返す。

 墨堤通りに突当り右折南下し、左手の路地に面した向島白髭神社に参拝した。天暦5年(951)に近江の白髭大神宮から分霊し創建した。当地の名の由来でもある。
神社正面の鳥居から現在の墨堤通りに続く小径が、江戸期の墨田堤だった。
北斎の代表作の一つ「絵本 隅田川両岸一覧」 (すみだ北斎美術館所蔵)や、広重の「江戸名所百景」など様々な浮世絵に描かれた景勝地だった。向島百花園も近い。

 墨堤通りを南下、日差しが一段と強まってきた。首都高速向島線・向島入り口の先からアサヒビールの倉庫群が続き格好の日陰になった。

 墨堤通りが直角に右折、言問団子と3種の桜の木が向かい合う。

 その先の左手には享保2年(1717)に墨堤の桜の葉を使い売り出された長命寺餅が営業中。店内での飲食は今だ自粛のようだが、歩きながら食べられるので散歩客に支障はなさそう。江戸名所図会には「隅田川堤春景」として、花見の姿が描写されている。

 桜橋通りへ左折する。今回は立ち寄らない5番目の橋・桜橋は、隅田川唯一のクローバー橋で昭和60年(1965)に歩行者専用橋として創建された。

 見番通りを一旦右折北上し、長命寺に参拝した。元の寺名は常泉寺だったが、3代将軍家光が鷹狩に訪れて腹痛を催し、この寺の井戸水で快癒したことから改名したとされる。江戸名所図会には「長命寺・牛御前宮」として描かれ、牛嶋神社が当時はこの場所にあったことが判る。

 
見番通りを戻り返し三囲神社に参拝する。創建時期は不明。「囲」という字が三井の「井」を囲むことから三井家の守護社となり、境内には平成21年に閉店した三越池袋店のライオン像が移設されている。江戸名所図会には「三囲稲荷社」として描かれている。

 ますます日差しが強くなったのですぐ先のすみだ郷土文化資料館でクールダウンしようと立ち寄るが、あいにく長期耐震工事中。

 牛嶋神社に立ち寄った。貞観2年(860)に慈覚大師の創建になる古社で、江戸期までは牛御前王子権現社だった。関東大震災後の昭和7年(19に当地に移設、東京大空襲を免れた総檜権現大社造りの社殿は今も健在である。

 6番目の橋・言問橋を渡る。昭和3年(1928)に関東大震災の復興事業の一環として架橋された。橋の名は先述した業平の歌からくるというのが素直な解釈だが、渡河した橋場の渡しからの距離が離れている。明治4年(1871)言問団子を創業する際に、店主が団子の名前に借用し有名になり、このあたり一帯が「言問ケ丘」と呼ばれるようになったためともいう。

 浅草神社に参拝して、道中無事のお礼を申し上げたのは午後2時20分、140分の行程だった。

 隣接する浅草寺の本堂には長蛇の列ができていたので遥拝し、二天門から出る。広々した花川戸公園の石製椅子を確保、遅めの昼食とした。本日は妻差し入れの海苔巻きとベビーチーズをつまみに、よく冷えた缶チューハイでやっとクールダウンできました。

 隅田川歩きはこれで終了、次回は江東内部河川を巡る予定。(村谷 記)

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★2023年3月11日(土)「隅田川上流部(千住大橋〜言問橋)」