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 4月並みの好天予想に誘われて、久々の水辺散歩を行った。

 日本橋川神田川の分流で、江戸の中心部を貫いていた重要河川の一つで、当時の交通の要衝であった。特に日本橋から一石(いちこく)橋にかけての川筋にはいくつもの河岸が設けられていて大いに賑わったという。中でも日本橋にあった魚河岸は、関東大震災で築地に移転するまで江戸期から東京までの台所だった。

 この川のもう一つの特徴は、最下流部の500mを除く ほぼ全面的に頭上が首都高速6号線に覆われていることだ。先年亡くなった23歳上の従兄から聞いた話によれば、東京オリンピックに際して高速道路建設構想が具体化した際、旧建設省で技官として奉職していた立場で路線決定の過程に加わり、全員一致で日本橋川の利用が決まったという。

 また、都心部を南下するため多くの幹線道路と交差し、距離に比して橋の数が多いのが特徴。したがって、川筋に沿って歩く際には、信号待ちが多いことは覚悟の上。

 午前11時に都営三田瀬・
水道橋駅改札から地上に出る。水道橋交差点で外堀通りを横断、そのまま右折する。道に沿ったMACなどの店先には、早くも昼食を買い求める行列ができていた。

 
小石川橋交差点を右折、神田川を渡った地点からほぼ直角に、日本橋川が流れ始めている。人出が一気に少なくなったので、政府見解に則り自主的にマスクをしまい込んだ。

 左岸には歩道がないので、右岸を歩きだす。右手から日が差してくるので、頭上の首都高速は全く気にならない。

 最初の
新三崎橋から、広々した桜並木が始まり心地よく歩ける。

 「讃岐高松藩土蔵跡」「讃岐高松藩上屋敷後」の碑が道脇に続く。高松藩は兄に替わり水戸徳川家を継いだ光圀が、高松藩主だった兄の子・頼房を養子に引き取り、自分の長男に高松藩を継がせたことはよく知られている。また、江戸中期の奇才・平賀源内が同藩の御蔵番の子として生まれ、高松藩に仕えた後、長崎留学を機に武士を捨てたことでも知られる。

 
俎(まないた)橋で靖国通りを横断する。信号待ちは1分間以上と長い。左手先には共立女子大学の校舎があるが、日曜日のためぴちぴちした女子学生の姿はない。

 
堀留(ほりどめ)橋の先で両岸がともに首都高速の入り口になっているため、左岸に沿った道を選ぶ。

 
雉子(きじ)橋で流れが左に変わり、再び川筋沿いに歩く。橋の名の由来は、秀吉の「唐入り」で悪化した明との交流復活を目論んだ家康が、彼らの好物である雉子を全国から集め橋の袂に鳥屋を設けて保存したからだという。

 
一ツ橋を通過する。かつてこの付近から河岸が始まっており、今も白山通りとの交差点に「一ツ橋河岸」の名が残る。

 
錦橋に差し掛かる。江戸期には錦町河岸があった場所。

 右岸に渡り返す。ここから約800mは、たっぷりと広く整備された大手町川端緑道が展開する。錦橋と神田橋の間の親水広場御三卿のひとつ一橋家の屋敷があった。現在は丸紅本社一橋会館になっている。

 
神田橋を通過、欄干には米軍の機銃掃射の弾丸の跡が残る。

 神田橋から
鎌倉橋の間の小紋広場は、徳川四天王の一つ・出羽鶴岡藩酒井家の上屋敷跡だった。村谷が20年近く前に東北第2の高山・鳥海山頂上小屋に宿泊した際、山頂を巡る争いに勝利した酒井家が、多くの参拝登山者からの利益を享受したという記述があったことを思い出す。

 鎌倉橋から
外濠橋(JR橋)までの桟敷広場は、譜代大名の雄・越前福井藩松平家上屋敷跡だった。

 この先は土地の有効活用のため河岸は歩けない。エレベーターを使い歩道橋を渡り、左岸の外堀通りを歩く。

 
常盤橋に差し掛かる。家康の江戸入府(1590)以前は大橋と呼ばれ、東西交通の要衝だった。

 道沿いの左手には日本銀行本館がある。現役当時、同行出身のO顧問のご紹介で貨幣博物館を見学したことを思い出す。

 一石橋に差し掛かる。名の由来は両説あるが決め手はない。江戸期には八つ見橋という別名があり、橋の上からは日本橋・江戸橋・呉服橋・銭瓶橋・道三橋・常盤橋・鍛冶橋のい七つが見渡せたという。ビル群に囲まれた現在では想像もつかない。

 日本橋に着き、中央通りを横断する。さすがに道を行き来する人が多い。慶長8年(1603)に創架されたらしいが、その名の由来は定説がない。

 江戸期には舟運の中心地であり、五街道の起点でもあった。
「朝昼晩 三千両の おちどころ」という川柳が示す通り、朝の日本橋魚河岸、 昼の芝居町、 夜の吉原が其々、一日に千両ずつ稼ぎ出すとされた。頭上の高速道路が15代将軍慶喜の筆になる優雅な橋名の額の景観を損ねているので、近年かつての青空を取り戻すため地下に移転させるという運動が盛んになってきたので、昔の姿を取り戻す日が近いかもしれない。

 左岸に近い道を東進する。道脇に20人近い行列があり、時刻は正午、お店は「たいめいけん」

 
江戸橋で昭和通りを渡り、右岸に移る。江戸期には橋の下には漁船や乗合船が盛んに行き来し、南岸には多くの船宿があったという。下総から日本橋魚市場に魚を運ぶ木更津船が盛んに行き来していた。

 久々に東京証券取引所のすぐ前にある兜神社にお参りし、鎧の渡し跡の看板を確認してから
鎧橋で左岸に渡り返す。

 明治5年(1872)に三井・小野・島田の豪商3人が費用を出して鎧橋が架けられた。当時は米問屋や酒問屋が多い商業の街だった。明治期以降、日本初の日本橋郵便局や、第一銀行、東京証券取引所が開設された。

 
茅場橋で新大橋通りを渡るころには、信号待ちにすっかり慣れてしまう。

 対岸に亀島川に通じるゲートが見えてきて首都高速とはお別れ、久々に川筋通りの小公園が出現、孫と遊ぶ老婦人がいる。

 
湊橋を通過、隅田川に通じる豊海橋にゴールインしたのは午後12時20分、80分の行程だった。

 隅田川テラスの一角に屋根付きベンチがあったので昼食場所とする。川風が汗をかいた体を優しく労わってくれているようだ。

 妻の差し入れ・伊達巻2個とベビーチーズをつまみに定番の缶チューハイ。大30分の休憩の間にジョギングや犬の散歩を行う人たちが数組通過して行った。

 永代橋を渡り門前仲町方面に向かう。橋を渡り切った先の澁澤シティプレイスそばで休んでいたサイクリストの三十路と思しき長身・色白の女性が、本日初めてのマスクなし美人でした。

 次回は、陽気次第で隅田川散歩か江東内部河川巡りを行う予定。(村谷 記)

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★2023年2月12日(日)「日本橋川(水道橋〜門前仲町)」