村谷は午前中で所用二件が片付いたので、札所巡りの続きを行った。芝・高輪・品川と坂が多くやや長丁場ながら、好天に恵まれて楽しい散歩になりそうだ。
午後1時に都営浅草線・大門駅改札を出て地上に上がった。今回何度も遭遇することになる第一京浜を渡った。交差点の角に「鳴門鯛焼本舗」の大きな看板が出ていて、店頭に買い物客が数人いた。値段は1個260円と、東京三大鯛焼き店よりは高めの設定で、その分厚みがあるように見えた。
増上寺の参道になっている大門通りを人波とすれ違いながら西進する。「芝大門」の地名の由来である大きな門をくぐり、本日最初の札所である21番札所・増上寺に入った。浄土宗七大本山の一つで、江戸初期に徳川家康の庇護を受けて以来、上野寛永寺と並び、歴代将軍の墓所が置かれている。国指定有形文化財の三解脱門 ・ 楼門が創建400年を記念して11年ぶりに公開中とあって、明らかに普段を数倍する参拝客で、広い境内も混みあっていた。マスクなしの若い女性があちらこちらで目につく。
本堂に参拝するため列に並ぶと、賽銭箱の真ん前で、七五三詣の帰途らしい家族連れが熱心に記念撮影中。生後間もない赤ちゃんを腕に抱いた母親を、五歳男児を横に連れた体格の良い男性が大きなデジカメで何度も撮っている。後ろに参拝を待つ数組がいるのだが、数回撮影後に主役のはずの男児に手を引かれてようやく終了した。白っぽい和服がよく似合う独身でも通りそうな美人だったので、やむを得なかったようだ。
東側から外に出て、坂道を上がっていくと、手すりに腰を掛けて友達に東京タワーをバックに撮影中のアメリカ人らしいギャルがポーズをとっていた。
東京タワーの東側正面にある28番札所・金地院(こんちいん)に入った。元和2年(1619)に建立された臨済宗南禅寺派の古刹で、家康の政治顧問の一人だった崇伝に与えられたことでも知られている。禅寺らしい静謐な佇まいの境内は無人だった。
東京タワー直下の大駐車場を抜けて桜田通りに降り立った。タワー下のイベント会場では人出でぎっしり。
マスクをしまい込んで一気に静かになった通りを下る。赤羽橋で古川を渡った。
暑い盛りに行った旧都電路線巡りで、大きな日傘になってくれた三田国際ビル横を通過した。
世界初を謳った「寺パン」の前を通過する。弘法寺がプロデュースしているのが売り物だという。
「学問のススメ饅頭」の幟が翻っていたのが「文銭堂本舗」で、すぐ隣から慶應義塾大学の長い塀が始まっている。
三田2丁目交差点で桜田通りは右へ90度右折するが、村谷は直進する。膝上数10センチもありそうなミニスカートで、さっそうとハイヒールを響かせながら、大柄な若い女性が交差点を桜田通り方面に颯爽と右折していった。
三田3丁目交差点で、右手に直角している聖坂に差し掛かった。この先しばらくの区間は、天正18年(1590)8月1日に徳川家康が江戸に入府した際に通行した中原街道の一部である。当時まだ東海道は整備されていなかったため、高台の道を選んだもの。坂の名前の由来は、高野山の聖(ひじり)からきたもの。
道に沿って長く塀が巡らされていて、警備員が所々に立っている。「三田3丁目・4丁目地区再開発ビル」で地上42階とか43階建てだという。都心部における不動産の活況はまだまだ続きそうだ。
坂を上り切った左手に26番札所・済海寺(さいかいじ)があった。元和7年(1621)に建立され、越後長岡藩牧野家や伊予松山藩松平家の菩提寺となった。幕末から明治初期にかけてフランス領事館・公使館が置かれたことで知られている。境内の入り口の左手にある観音堂にお参りした後、横に設けられた石造りのベンチに腰を下し蜂蜜カリントウ数本で糖分を補強。
御田小前交差点で中原街道と別れて右手の坂道を下る。
魚籃坂に突当り右折し、桜田通り方面に下ると道脇に25番札所・魚籃寺のピンク色の山門が出現。承応元年(1652)の創建で、変わった寺名はご本尊の魚籃観世音菩薩から来たもの。頭髪を唐様の髷に結った乙女が、竹かごに魚を入れて売りながら仏法を広めたという中国の唐時代の故事によるという。ピンク色の山門の理由がようやく判った。広くない境内には塩地蔵もあり、塩の袋がどっさりと積みあがっていた。
魚籃坂を上り返し、頂点で中原街道を渡りそのまま伊皿子坂を下る。坂の名は当地に住んでいた中国人から来たともいう。
泉岳寺の門前を通過する。1っか月後に控えた義士祭では、今年もまた大勢の参拝客が詰めかけることだろう。
坂道の途中に27番札所・道往寺(どうおうじ)の近代的な建物が出てきた。江戸前期の寛文年間(1661〜73)の開山とされ、高台から江戸湾を望み東側の空に輝く朝日や月の眺めが絶景とされ、古くから「月見寺」としてれたという。
参拝を終えて泉岳寺交差点で再び第一京浜に合流した。幼稚園児らしい男の子の手を引いて信号待ちしていた三十路と思しき母親は、色白で品の良い顔立ちで本日二人目のマスクなし美人だった。
高輪2丁目交差点で右折し、桂坂を上る。和風な建物から着物を着こなしているように見える中年女性が出てきてすれ違った。「西崎緑舞踊研究所」という看板がかかっていたので、二代目西崎緑師匠だったかもしれない。
坂道をほぼ登り切った左手に、広い境内に続いている駐車場があり中に入った。29番札所・高野山東京別院である。
高野山学侶方の江戸在番所として開創され、延宝元年(1673)に当地に建立された。御府内八十八ヶ所の1番札所でもある。広い本堂内には午後2時半からの読経を待つ熱心な信者さんが数人、椅子の着席していた。村谷がお賽銭を箱に捧げた音が、大きく響き渡った。
中原街道に復帰し南進する。この辺りは二本榎通りという。
プリンスホテルの長い塀を通過する。柘榴坂に左折し、東武ホテル前で右折する。
道沿いにアイスランド大使館の小ぶりな建物があった。
八ツ山の坂道を横断した先に、「御成道」の掲示板が出ている。徳川三代将軍家光が「品川御殿」に往来する道筋でもあった。
タワーマンション2棟が聳え立つ御殿山ヒルズの玄関前を通過する。マンションの前面には武蔵野の面影がそのまま保存されていて、職人さんたちが冬の到来に備え、木々や草花を手入れしていた。
跨線橋でJR各線を跨ぎ超えて坂道を下る。左手の品川女学院は全面建て替え工事中。
北品川交差点で三度、第一京浜に合流して横断、すぐに旧東海道に合流し西進する。
左手に30番札所・一心寺のこじんまりとした境内がある。江戸末期の文久元年(1861)に洲崎弁天内に堂宇を建設し、神仏分離令に伴い明治2年に当地に移転したもの。昭和61年に東海七福神の一つ、寿老人が祀られた。境内には檀家さんたちが数人で清掃や飾り付けを行っていた。
目黒川に架かる品川橋の上にあるベンチで最後の休憩。カリントウを数本口に入れた。右手には新馬場駅。
橋を渡った先にあるまちなか観光案内所で、最新版の地図を数点いただく。
街道の右手に「街道松の広場」 「南品川宿お休み処」が続く。
ジュネーブ平和通りを渡った。右手は青物横丁駅。
交差点そばの「魚富士」の店頭には相変わらずたくさんの買い物客の姿がある。
31番札所・品川寺(ほんせんじ)の境内に入った。平安前期の大同年間(806〜10)に空海が開創したとされ、江戸府内でも有数の古刹で、品川の名の由来にもなった。入り口左手に鎮座する江戸六地蔵第一番に参詣してから、境内に入るとお洒落な「品川茶屋」が2021年3月27日開店で新設されていた。店の外には利用客専用のベンチと椅子が置かれていて、数人が休憩中。街道筋を歩く人には不足がなく、なかなか優れた発案だと感心する。
本堂でお参りを済ませてから、少し先にある番外・海運寺(かいうんじ)にも立ち寄った。鎌倉前期の建長3年(1251)の創建で、本堂隣に祀られている千體荒神が有名で、毎年3月と11月後半に開催される祭りでは、多くの人たちが参加する。
門外に退出したのは午後3時10分、本日は130分の行程だった。
打ち上げ場所は南品川宿お休み処に戻り、背中のタオルと靴下を脱ぐいつものスタイルになって、韓国海苔・チーズ・ハチミツカリントウで缶チューハイを味わった。
次回は、山手線の外側を巡る「江戸市街縦断コース」を歩く予定。(村谷 記)
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★2022年11月12日(土)「江戸三十三観音札所巡り 第5回(増上寺〜金地院〜済海寺〜魚籃寺〜道往寺〜高野山東京別院〜一心寺〜品川寺〜海雲寺)」