村谷は、午後からは天候がよくなるという予報に従って標記の札所巡りを行った。前回に続く都心部の歩きで、若者たちに人気の街を巡るコース。
午後1時少し前に四ツ谷駅改札を出て地上に上がった。先ずは外濠公園の一角にある四谷見附跡を確認する。江戸三十六見附の一つで、江戸城の半蔵門と府中の国府を結ぶ甲州街道に位置し、その大木戸では厳しく人や物の出入りを監視したという。下校時に当たったらしく、品のある制服姿の四谷雙葉のJKたちが淑やかに信号が変わるのを待っている。
四谷交番前の横断歩道を渡って、新宿方向に西進する。10年近く前まで新宿に勤務していたころには、健康のために朝晩歩いていた懐かしいコースだ。日陰になる左側歩道を選択した。
最初の路地の奥に見える酒屋「鈴伝」は健在だった。日本酒の品ぞろえが豊富で、十四代が買えたことや、夕刻からは店の隣で角打ちができることで人気があった。
二つ目の角を曲がって小路を南進する。すぐ右手にある東京三大たい焼きの一つ「わかば」で1個190円(11月1日から10円値上げした)のおやつを購入したかったが、20人以上の行列ができていたので諦めてそのまま進む。
半蔵門外に屋敷を構えていた服部半蔵の墓があることで知られる西念寺の塀に突当り右折、観音坂に突当り坂を下った右手に、近代的なビルの18番札所・真成院(しんじょういん)が出現。御本尊の十一面観音の別名「潮干観音」と鮮やかな空色に大書された幟が何本も風にはためいている。慶長3年(1598)開山で、正式名称は金鶏山真成院四谷霊廟、江戸名所図会に四谷四名所の一つとして描かれた景勝地だった。江戸期には海が近く観音様の台座が潮の満ち干きによって濡れていたという。参拝の手順が少し面倒で、1階の受付に申し出てから、狭い階段を上がって2階に行くという仕組みになっている。
観音坂を下り切った小路を右折すると、左手に長い階段が見えた。大ヒットした劇場版アニメ「君の名は」のラストシーンに登場して一躍人気になった場所だ。村谷も階段を上って四谷酉の市の幟に導かれて須賀神社に立ち寄った。すんなり階段を上れたので、足の調子がだいぶ戻ってきたようだ。末社に恋愛成就のご利益があるという大国主命が祀られていることもあり、境内には若いカップルや女性二人ずづれの姿が目立っている。女性のうち数人はマスクなしだった。西側参道から出て外苑東通りに向かっていると、次々に参拝客がやってくる。
外苑東通りを横断して左折南進する。慶応義塾大学病院の敷地に一角に「食研跡地記念の碑」を発見した。入院患者の食事療法の研究や人口・食糧問題の解決を目指して、大正15年(1926)に福沢諭吉が設立した食養研究所があった場所だった。
100年近く経過した現代でもなお追及されている課題である。
信濃町駅横でJR中央本線を跨ぎ超えて神宮外苑に入ると、一段と空気がさわやかに感じられる。広いグラウンドでは、行く秋を惜しむかのように各種スポーツを楽しむ人たちで一杯だった。
グラウンドを半周してイチョウ並木に入ると大勢の人たちがいたのでマスクを着けて進む。日当たりの違いで黄色と緑のグラデーションが楽しめる。その景色を背景に至る所でミニ撮影会中。スマホに交じって久々に本格的なデジカメも見えた。
青山通りに突当り右折西進すると、少し人通りが落ち着く。伊藤忠ガーデン前の信号で南側歩道に渡ってからマスクをしまい込んだ。
東京メトロ銀座線・外苑前駅に差し掛かると、右手に24番札所・梅窓院(ばいそういん)の大きな山門が出現する。竹林を維持した古風な参道とは対照的に、とてもお寺とは思えない巨大でお洒落なビルの中に本堂がある。寛永20年(1643)に摂津・尼崎城主だった青山家下屋敷内に藩主を弔うため建立された。青山通りの名前の由来でもある。江戸期には特に縁結びと安産のご利益が高いとされ、庶民が群れを成して参拝したという。外苑前駅の整備に伴い、平成15年に隈研吾氏の設計で、ガラス張りとバリアフリーが特徴の地上5階、地下2階の本堂に再建された。
参拝を終えて南下し、青山霊園に入った。明治5年(1872)に青山家下屋敷跡に開設された巨大な霊園には、10万余人が眠っている。墓地の中央にまっすぐに伸びている桜並木を南下していると後ろからジョギング中の女性に追い抜かれた。明らかにダイエット目的と思われる大柄な若い外人で、空色の半そでシャツとピンク色の短パンが大きく揺れている。負けてはならじと胸を張り、ストライドを大きくして歩んだ。
外苑西通りを横断し、次の札所へ向かうが行き止まりの小路が多くてなかなか見つからない。ようやく22番札所・大本山永平寺別院・長谷寺(ちょうこくじ)の山門にたどり着いた時には、午後2時を回っていた。慶長3年(1593)に古くから渋谷が原の一角にあった観音堂をもとに創建された。奈良の長谷寺の観音様と同じ木で作られた観音が祀られていたのが寺名の由来。創建当初は2万余坪もの寺領があった名残で、現在もいくつもの僧堂と広い墓地を有している。巨大な観音像は麻布大観音として信仰を集め、現存する観音様は高さ10mで、樹齢600年超のクスノキを一本彫したもの。
正門を出たすぐ前が、六本木通りの高樹町交差点で、右折し東進する。頭上には首都高速3号・渋谷線が走っている。笄(こうがい)坂という日本髪に由来するお洒落な坂道を下っていくと外苑西通りに突き当たる。かつてはこの通りが笄川だった。マスクなしの外人女性が行き交う西麻布交差点を渡ると一転して、上り坂の霞坂に変わった。東南アジア系らしい若いやや色黒な女性三人が、スマホ片手に歩きながらあちらこちらを撮影している。
六本木6丁目交差点で坂道が終了し、右手にそびえる六本木ヒルズの名前がよく似合う。
六本木交差点で外苑東通りに突当りそのまま右折した。首都高速と別れ頭上が開けて歩きやすい。
飯倉片町交差点は地下道で横断する。明るい照明と地元・麻布小学校の生徒さんたちの絵が掲示されていて、お洒落だった。
外務省飯倉公館の隣に、地上65階建ての巨大なタワーが完成しつつある(仮称:麻布台1丁目1000番地)。
機動隊の車両がずらりと並ぶロシア大使館前を通過し、桜田通りに出て左折した。ゴールはもうすぐだ。
東京メトロ日比谷線・神谷町駅の先を右折すると、20番札所・天徳寺(てんとくじ)がひっそりと佇んでいた。天文2年(1533)紅葉山に創建され、その後江戸城の拡張工事に伴い、慶長16年(1611)に当地に移設した。その縁で徳川将軍家から庇護を受けて、家康・秀忠からそれぞれ50石・100石の朱印を得たので「ご朱印寺」とも呼ばれた。本日最後の札所から門外に出たのは午後2時50分、約110分の行程だった。
愛宕神社の下を潜り抜けて左折、愛宕1丁目で新虎通り(環状2号線)を横断し、一本先の道を右折して南桜公園に入った。ビル街に囲まれた広々した公園ながら、土曜日とあっては無人。公園を清掃する人が一人いただけだった。足元に新聞紙を広げて遅めの昼休憩。背中のタオルを取り去り、ベストと靴下を脱ぐ定番のスタイルで、水分補給の缶チューハイを一口。時間が遅いのでつまみはチーズ2個と韓国海苔だけ。小30分のリフレッシュタイムを終えて、内幸町駅から帰途に着いた。
次回は、少し長丁場の芝・高輪・東海道コースを歩く予定。(村谷 記)
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★2022年11月 5日(土)「江戸三十三観音札所巡り 第4回(真成院〜梅窓院〜長谷寺〜天徳寺)」