さんぽ

 村谷は、せっかく涼しくなったので、雨の合間に旧都電41系統巡りを行った。

 41系統は(志村橋〜巣鴨車庫前)までの7.8kmを走行していた都電には珍しい郊外路線で、14系統「杉並線」(新宿駅前〜荻窪駅前)と性格が似ていて「志村線」と呼ばれていた。志村の地名は古くからあっり、沿線の西方には志村城址があり、YSC散歩でも訪れたことがある。

 姉妹路線に18系統(志村坂上〜神田橋)があるため、今回は41系統単独部分の志村橋〜志村坂上を主体に歩いてみた。

 また、昭和36年6月10日に開通した都電中では最も新しい路線であり、また他の系統に先んじて昭和41年(1966)5月28日に廃止されたため運行期間は10年と短い。志村坂上から志村橋まで延長された理由は、当時は沿線の工場に通っていた工員の数が多くてバスでは運びきれなかったためだという。その半面で早くに廃線とされたのは、ベッドタウンの高島平へ通じる都営6号線(現三田線)の工事用の資材等を置くスペースを確保するためだった。

 午前9時45分、新河岸川に架かる志村橋の袂を出発する。先ほどまで降っていた小雨が上がって、傘は杖替わり。気温は30度未満、南風が心地よく吹いてくれる。中山道
国道17号線 をひたすら南下する。

 道脇に「安楽亭」の大きな看板が出ていて「焼き肉食べ放題2,480円」と書かれていた。

 「三軒家」バス停は旧都電の停留所名を継承している。地名の由来はこの付近の地主が三軒いたという明快なものだった。

 旧中山道はここから斜め右手に分かれてほぼ平行に行く。吉田・清水・西の諸兄と旧中山道を歩いてから随分な年月が経過し、今の年齢ならとても難しいと実感した。

 道沿いに「無添加生餃子 やさしい餃子きたもと」の無人販売店があった。その先右手には蓮根川緑道が走っていて、ベンチで休息中の老人が見えた。

 
志村坂下交差点で右手に広い道幅の高島通りが始まっている。

 
東坂下バス停の先からマンションが目立つようになった。

 また、道沿いに「華屋与兵衛」の店舗が出てきた。店名は江戸時代後期に「握り寿司」の始祖とされる寿司職人の名前に由来する。YSC散歩の打ち上げでは訪れたことはなかったが、十数年前に吉田兄に導かれて故小川兄とともに船橋から歩きだした房総往還の途次に、君津の店で打ち上げたことを思い出した。店の手前の右手には出井川緑道が通じていたが、無人だった。

 
志村三丁目交差点で、環状八号線を渡った。頭上には「巣鴨7km、日本橋14km」との表示。本日は途中で電車に乗ってしまうため、気楽に眺めた。

 志村坂の傾斜が一気にきつくなり、汗が滴ってくる。

 左手に立派な寺院の建物と、濃い緑の茂みが出現する。妙徳寺および総泉寺が建つ薬師の泉庭園。 江戸名所図会にも描かれている名所だ。以前、YSC散歩の昼食場所にも利用したことがある。

 
志村坂上交差点に到着したのは、午前10時10分、途中の信号で一度も待つことがなかった。

 
小豆沢町停留所付近にあるのが著名な「志村の一里塚」。塚の裏にある喫煙施設では、若い男性数人が寛いでいた。

 志村警察署が近い
志村一丁目バス停を通過すると、上り坂は一服して逆に少し下りになった。

 
蓮沼町交差点で本日は終了。所要時間は40分間と最短だった。

 適当な休憩場所がなく、
本蓮沼駅から帰途に着いた。

 これで旧都電全41系統(営業中の荒川線を除く)を踏破した。

 次回は27系統(三ノ輪橋〜王子駅前〜赤羽)のうちの「赤羽線(赤羽駅前〜王子)を歩く予定。

 また、臨時の6系統についても走破を検討する。(村谷 記)

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★2022年9月2日(金)『旧都電路線巡り「41系統(志村橋〜巣鴨車庫前)」のうち志村橋〜本蓮沼』