ホームへ

★2008年6月3日(火)「竹ノ塚〜旧日光街道沿いの寺社巡り〜西新井大師」

 梅雨入り2日目、かつ台風5号の雨が降り頻る東武伊勢崎線・竹ノ塚駅改札口に集合したのは、田幸・村谷の2名。

 午後からは強風が予想されるため、当初予定の川歩きから街歩きに変更し、旧日光街道沿いの寺社を巡り、当初予定の西新井大師にゴールインすることとし、出発。

 先ずは東口から
旧日光街道を目指して歩き出す。雨の降りはさほど強くないし、街中では風も感じられず足取りは順調だ。

 
竹の塚彫刻の道を南下、背の丈ほどの大根?のオブジェがあったので田幸がカメラに収まった。

 
竹の塚3丁目の交差点で五叉路を横断すると、ほどなく最初の目的・
萬福寺門前に着く。
壮大な敷地に驚きながら入ると、弘法大師修行尊像が現れ、村谷が深々と一礼する。
境内には、四国八十八箇所霊場はじめ、坂東・西国・秩父の霊場巡りが出来るようになっている。
真言宗豊山派の特徴である六地蔵が安置されていた。
何故か、一時は小学校が置かれていたそうだ。

 続いて隣接する
常楽寺へ。同様に広い敷地と立派な本堂がある豊山派のお寺で、ここも小学校として使用された時期があったという。

 少し先にある
西光院も同じく豊山派だが、3寺の中では最も建物が壮麗だった。これだけの狭い範囲に3寺も集結しているのは珍しい。
 お賽銭の効果で雨がほとんど上がったので傘を杖代わりにして進むと、目の前に「六月」という地名が出てきた。
二人で呼び名に頭を捻ったが、「ROKUGATSU」というローマ字表示を発見、6月に「六月」を歩く、季節が一致している (*^^*)

 次に入ったのは、蛙の寺として知られた
炎天寺だ。
小林一茶が「
やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」の句を作った処で、境内の池の中には様々な表情のの置物が安置されていた。ここも真言宗 豊山派だ。

  ※管理人注記:「
痩せ蛙 まけるな一茶 ここにあり」の句を作った処は信濃・小布施・曹洞宗 岩松院との主張あり。
    ⇒ 
 葛飾北斎最晩年に描いた天井画が素晴らしい 岩松院のホームページへ

 この辺りは直線道路が少なくて、地図を見ながら曲がりくねった道を辿って、再び着いたのが
竹の塚3丁目の交差点
自転車に乗った親切なお姉さま?妹様?に、次の目的地の方角を教えていただき、
旧日光街道を南下する。
 御影石の大鳥居があり、日本武尊をお祀りした
島根鷲神社に入る。
ここも広大な境内で、この地域の経済力と信仰心の強さに感心させられる。
時刻も12時近くになっていたので、庭が見渡せるベンチで休憩とする。
田幸が台湾土産として持参した、乾しマンゴーで疲れ?を癒した。
碑文によると、200年間以上も伝わっていた伝統芸能「
島根歌舞伎」が、昭和25年で途絶えてしまったとのことで、職掌柄、村谷が残念がった。

 コンビニの先を右折したところにあった
赤羽家長屋門は、成人男性の3倍ほどの高さがある大規模なものだった。

 信号を渡ったところにある
国土安穏寺は日蓮宗のお寺だったが、これまた広大な境内に鳴き龍の山門のお寺で、日光東照宮参拝の途中で立ち寄った三代家光将軍お手植えの松が、今も残っていた。

 
環状7号線に出て、西新井駅に到着。時刻は12時30分、西口の商店街にあった中華屋で、ニラレバ定食とビールで腹ごしらえし、最終目的地の西新井大師へ向かう。

 道の向こう側から歩いてくる、昼食に来たらしい若い看護婦さん2名に道を再確認し、再び環七に出る。

 ほどなく右手に大師線・大師前駅が見えてきて、久々参拝の田幸と、不信心にも西新井大師初めての村谷が、境内に入った。
本堂は耐震工事のため四方を覆われていたが、総持寺の名に相応しい壮麗さだった。
境内を一周し、高野山縁の奥の院に参拝、まだ咲き残る牡丹を鑑賞し、参道に出た。

 再び
大師前駅に戻ったのは午後1時半、約3時間の寺社巡りでした。(村谷 記)


                  このページのトップへ戻る
 コース
  東武伊勢崎線・竹ノ塚駅〜萬福寺〜常楽寺〜西光院〜炎天寺〜島根鳶神社〜赤羽家長屋門〜国土安穏寺〜西新井駅〜新井大師〜東武大師線・大師前駅


                           前のページへ  次のページへ


さんぽ