好天が続いたので村谷は旧都電路線24系統路線巡りを行った。
出発地点(終点)は23系統と同じ福神橋で、重複する「業平線」は省略し本所吾妻橋から午前11時にスタート。 廃線日は23系統と同じ昭和47年(1972)11月12日である。
上野駅前停留所までの間が「吾妻橋線」。
なお、全体の距離でも6.7kmで、省略部分もあるので立ち寄り個所を増やして歩くことにした。
例によって南側歩道を選択し、日陰を確保する。マスクはポケットに仕舞い、半ズボン姿だ。
駒形橋西詰交差点で清澄通りと分かれる。五差路になっているため信号を2度わたり、北側歩道に移動した。
駒形橋を渡り終えて、橋の袂にある駒形堂にお参りする。浅草寺発祥の霊地とされ、お堂は天慶5年(942)に建立され、江戸期には吉原に通う 駒形の渡し があったという。
橋を渡ったすぐにある仲見世通りには、並木藪蕎麦 や うなぎの初小川などの老舗が今も健在だ。
ここから先は東京メトロ銀座線の上を歩くことになる。南側歩道に移動して日陰を確保した。
寿4丁目交差点で国際通りを横断し、先のコンビニでウーロン茶を購入、イートインでチョコナッツとともに一息入れた。
浅草方面に向かうともんじゃ焼き店が多い通りとして知られる。
田原町駅上を通過すると、仏壇店が一気に出現、店先の盆灯篭が夏の到来を告げている。店からは冷気と線香の匂いが漂ってくる。右手に東本願寺の大きな建物が見えたので、遥拝する。
菊屋橋交差点に差し掛かると右手先のビルの屋上に、大きなコックの頭の人形が出現、合羽橋商店街だ。交差点近くの店をいくつか覗いたが、お客の姿は少なかった。
稲荷町駅上を通過する。この駅の出入り口は戦災でも焼け残ったので、開業当時の昭和2年(1927)のままだというので、100年近い歴史がある。また、近くには創業230年の和竿の老舗・東作本店もある。
上野警察署前交差点先で再び北側歩道に移り、昭和通りを横断した後、上野駅前に向かう。
久々に駅舎に入ってみる。浅草口から涼しい構内に入ると、店の数が多くて驚く。
広小路口から出て、井沢八郎 の 「ああ、上野駅」の歌碑を確認した。
電車はここで左手の中央通りに進み、終点まで「上野線」だった。暑さが増してきたので上野公園に立ち寄った。
不忍口前の交差点を渡り、UENO3153(上野西郷さん)ビルに入り、エレベーターで屋上に向かうと公園に出た。
西郷銅像 と 彰義隊慰霊碑にお参りする。西郷隆盛と勝海舟のきずなが感じられる場所だ。
清水観音堂にもお参りを済ませてから、ベンチで再びチョコナッツ&ウーロン茶休憩。隣では上野公園の住民らしい高齢男女が会話中。
休憩を終えて階段を下り、中央通りに復帰した。日陰が多い西側歩道を選択し、昼食に向かう人たちと盛んにすれ違う。ノーマスクはほとんど見かけない。
松坂屋手前のビル2〜4階にあるブックオフで冷気を求めて小休憩。
末広町駅上を通過し秋葉原駅に近づくと、交差点の両側でメイド姿のお嬢さんたち4人がビラを配っていた。「税込み1,000円」という数字が目に入ったものの、流石にこの姿では難しい。
JR総武線を潜り抜け、万世橋 で 神田川を横断、さらに中央線を潜り抜けるとすぐに須田町交差点だ。時刻は12時30分、90分間の散歩だった。
1900年の「鉄道唱歌」に触発されて1905年に制作された「東京地理電車唱歌」 の 3番の歌詞には「〜乗りかへしげき須田町や〜」とあり、都電路線が集中していたことが窺われる。
須田町交差点から靖国通りを少し西進し、左手の多町大通りに入る。「神田青果市場発祥の地」碑を確認した。
千代田小学校を回り込んで神田公園に入った。まだ昼休み中なのでサラリーマン・ウーマンたちで込み合っていた。
ベンチは確保できず、縁石に新聞紙を敷き腰を下ろした。いつもの休憩スタイルになってから、缶チューハイをごくり、何よりのご褒美だった。
次回は25系統(西荒川〜日比谷公園)を歩く予定。(村谷 記)
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★2022年6月2日(木)『旧都電路線巡り「24系統(福神橋〜須田町)」のうち本所吾妻橋〜須田町』