★2017年7月25日(火)「日光街道・千住宿探訪(南千住駅〜北千住駅)」
曇天微風、蒸し暑い朝、JR常磐線・南千住駅改札前に、田幸・村谷の2人が集合した。
いつもの通り回向院に参拝して、隣接する延命寺(「万歩計」さんのページ)の首切り地蔵尊に立ち寄って、当地にあった小塚原刑場で処刑された数々の御霊のご冥福を祈る。
線路わきにあるウナギの有名店・尾花は変わらず健在の様子で、本日は第1回目の土用丑の日に当るため仕込みに忙しい時分と推測し旧日光街道=コツ通りを北上する。
左手には、村谷が現役当時の約10年間訪問したT信金の建物が合併によりすっかり一新されていた。
国道4号線(現日光街道)と合流した地点に鎮座する素戔嗚神社に参拝した。
松尾芭蕉が奥の細道2,400kmへの旅立ちへの矢立初めとして読んだ著名な句「行春や 鳥啼 魚の目は泪」の句碑が本堂の脇に立つ。
境内は旗飾りされていて、常になく華やかな気配が漂っていた。
隣接する荒川ふるさと文化館に入る(入場料は100円)。
古墳時代から戦前まで城北地区を中心としたの歴史と文化がわかりやすく展示されていて、長年にわたる人々の営みの確かさを確認することができた。
続く広々した天王公園(「Go!Go! Outside」さんのページ)では、夏休みを迎えた子供たちと水辺や小山で遊ぶ母親たちで込み合っていた。
再び日光街道(この間は新旧同一区間)に戻り隅田川で最初にかけられた「大橋」=千住大橋を渡る。
明治維新後にこの橋を渡り水戸に戻った徳川15代将軍・慶喜の心情を慮りながら、対岸の北千住に渡る。
橋の下の大橋公園には、芭蕉とその弟子・曾良が旅立つ様子を描いた絵が大きく残る。
今も都内唯一の水産専門市場として残る足立市場正門前にある芭蕉像前で定番の記念撮影。
新道とはお別れして旧日光街道の千住宿を北上する。当初の宿場は現在の千住1丁目から5丁目までの区域に限られていたが、時代とともにその範囲が広がって、南側の掃部地区とさらに隅田川の対岸の南千住地区まで広がったという。
現在も両側にある建物の入り口には、当時の屋号がその職業とともに木札で示されている。
京成本線を越えた先の左手には、江戸時代の蔵がそのまま無料貸し出しギャラリーとして活用されている千住宿歴史プチテラスに立ち寄ったが、土日祝日のみの開館とあって残念。
入口左横に「鮎の子の 白魚送る 別れ哉」の句碑が建てられていた。
墨堤通りを横断すると千住仲町地区で、このあたりはヤッチャバ(「千住物語」さんのページ)の跡だ。
左手には大きな東京芸術センターのビルがあり、右手の一角、以前はスーパー「トポス」があった場所、森 鴎外旧宅の地にも大きなビルが建設予定中で、以前の宿場町のイメージが大きく変わりつつあるようだ。
駅前通りを横断してさらに北上する。右手に元魚屋さんのレトロな店舗を利用した「お休み処 千住 街の駅」があり覗いてみたが、毎週月曜・火曜日が定休日。気持ちの良いご夫婦が「中を見ていってください」と声をかけていただいたので少しだけ入場し、展示物を拝見し、宿場マップを頂戴してから退出した。
東西に長い敷地の千住ほんちょう公園で休憩。空はまだ晴れている。
今も彰義隊士が切りつけた刀傷が残る横山家住宅(「歩く・見る・食べる・そして少し考える…」さんのページ)前を通過し、宿場の最北端にある千住名倉医院を見てから荒川土手に出て、虹の広場のベンチで軽い昼食休憩とする。傍らのトリム施設では、同年輩の男性2人が暑さをものともせずに体幹を鍛えていたが、我らには合わない。
鯖の味噌煮やピーナツをつまみに冷たいアルコール缶で乾杯する。また、青空になってしまったが、週後半からの信州旅行の打ち合わせを行い、再び宿場に戻る。
線路沿いに南下し、千住4丁目氷川神社で本日の無事のお礼を、長円寺(「猫の足あと」さんのページ)で薬師如来に熱中症除けを感謝してから、北千住駅西口へ。
千代田線入口そばの日高屋に入店。
ホッピー&生ビールで、餃子やイカゲソ揚げなどをつまみに、蒸し暑い土用丑の日の散歩を締めました。(村谷 記)
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コース
JR常磐線、東京メトロ日比谷線、つくばエクスプレス・南千住駅〜延命寺・小塚原刑場跡〜回向院〜素戔嗚神社〜荒川ふるさと文化館〜天王公園〜千住大橋を渡る(隅田川)〜芭蕉像(旧日光街道)〜千住宿歴史プチテラス前〜源長寺〜不動院〜お休み処「千住 街の駅」〜絵馬屋・吉田家〜横山家住宅〜千住ほんちょう公園〜虹の広場(荒川河川敷)〜名倉医院〜千住氷川神社〜長円寺〜JR常磐線、東京メトロ千代田線、日比谷線、つくばエクスプレス、東武伊勢崎線・北千住駅
<歩行距離:4km±α、歩行時間:1時間20分±α>
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